ふと、月光の甲板に輪から離れていく影が見えた気がして顔を上げた。 騒々しい仲間達の向こう、キッチンへと入っていく女。 新しい酒を取りにでも行くのかと思って顔を戻して酒に口を付けていたら、考古学者は「ついて行った方がいいわ」と言う。 「何で俺が」 「皆こんな状態でしょう」 酒を飲んで真っ赤になった顔を大きく崩して騒ぐ4人にロビンが肩を竦めた。 「てめェが行きゃいいだろ」 「私よりあなたが適任じゃないかしら」 動こうとしない女の言葉に眉を顰めて、ジョッキに半分ほども残っていた酒を飲み干すと、ゾロは溜息一つ、大きくついて立ち上がった。 Birthday Night キッチンに入って後ろ手に扉を閉めると、小窓の向こうには澄み切った夜空。 喧騒が遠く聞こえた。 ロビンからプレゼントされたワンピースは肌触りも軽い。 お酒に弱いわけじゃないけれど、夕方から呑み続けたのだから僅かに全身が火照っている。 静かな空気はそれだけで肌に涼しく心地良く、履いていたサンダルを脱ぎ捨てて素足で歩けば床がまた気持ち良い。 狭いキッチンをゆっくりとヒタヒタ歩いて壁際にあったチョッパーの小さな椅子に腰掛けた。 手持ち無沙汰に両脚を投げ出して、小さな背もたれに凭れかかる。 揺れる船に灯された明かりが瞬いていた。 何となく思い立って、椅子ごと窓を向いてただじっと、そこから見える夜空を見上げていた。 星なんてどこで見ても同じ。 月なんてどこで見ても同じ。 いつもと変わらない波の音。 いつもと変わらない仲間たち。 (今日は私の誕生日パーティーって言ってたくせに) あーあ、結局自分たちが楽しく飲めればそれでいいんだから。 私がここにいたって誰も気付かないのよね。 それでも皆が時折私を振り返ってやたらと笑顔を浮かべる。 この気持ち。 すごくシンプルで、なのにすごく複雑な、そんな気持ち。 胸が苦しくなる、そんな気持ち。 瞳を閉じると彼らの声と、波に揺られたGM号の軋む音、しんとしたこの部屋の空気。 いつもの匂い。 天上を見上げて、すぅと吸ったその匂いに懐かしさまで感じて何故か眦が熱くなった。 「おい」 ぎぃと緩く扉の開かれた音がして、彼の低い声が耳に届いた。 「───何?」 重い靴の音が私の真後ろでぴたりと止まって、でも振り返る気分でもなくて、瞳を閉じて彼の声を待った。 「何してる」 「見てわからない?酔いを冷ましてんのよ」 「酔った?てめェが?」 ふふっと口元を緩めてゆっくりと、背後の彼に手を伸ばす。 躊躇うように触れてきた指先を少し引いたら、ゾロは私の言いたいことを察して節くれだった指で私の髪を梳いた。 二度、三度と毛先に触れて惜しむように最後にゆっくりと優しくその手に在る髪を束ねる。 私の手を重ねると、彼の息遣いが次第に近付いてきた。 仰いでいた顔をもう少しだけ上げて、唇を受け容れる。 言葉なんていらないの。 そうやって、あんたが私を欲してくれるなら、それで。 緩やかに啄ばまれた唇が離れていって、でも包むように掴まれていた髪が落ちてその手が項に沿って私の肌をなぞった。 指先だけでそっと触れれば、彼の親指が私の頬をなぞる。 バレちゃったわね。涙の跡。 何も言わずに涙を拭う。 今、ここに居るのがあんたで良かった。 無骨な手を唇に小さく挟んでようやく瞳を開けると、ゾロがじっと私を見下ろしていた。 「誘ってんのか」 「誘われたいの?」 「・・・てめェがその気ならな」 交じり合った視線に少しだけもどかしかった心が真っ直ぐに彼に向いていく。 あんたのその目って嫌いじゃないわ。 俺を見ろって言ってるような、そんな目だもの。 色んなことを忘れさせてくれるの? 「あいつらが騒ぎ出しても知らねェぞ」 「今日は私が主役だもん。いいのよ、私が何してもいい日なんだから」 「てめェの好きにしなかったことがあるか?」 「・・・誕生日パーティーだって。」 呟きが漏らすと、ゾロは訝しげに少し首を傾げて眉を寄せた。 今更何を、なんて思ってるのかしらね。その顔は。 「何年振りかなって思い出してたの」 あぁ、いけない。 折角渇いてたのに。 また瞼が熱くなっていく。 「私を皆が祝ってくれるなんて」 何年振りだなんて。 思い出すまでもないわ。 あの日から、あの時から、自分でだって誕生日なんて─── たまにノジコがこっそりお祝いをしてくれた。 大抵は海の上に居るかあいつらのために海図を描いてばかりで、誕生日から数日、数週間過ぎて家に帰るとノジコは何も用意できないなんて言いながら、それでも用意はいつもしてあって、できる限りのご馳走で私を祝ってくれたの。 それが私の誕生日。 「何年振りかな。」 言葉を求めているわけじゃないわ。 そんな顔して懸命に、私に掛ける言葉を捜してるの? 良い言葉は見つかった? ダメね、わかんないんでしょう。 ほら、あんたってば困って頭を掻いてる。 いいのよ、バカね。 私はただ、ふと思い出しただけ。 「ゾロ、私の名前は何?」 「・・・・?」 「呼んで」 「・・・ナミ。」 そうね、私はナミ。 涙なんか似合わない。 彼の腕を引いたら、今度は深く深い口付け。 いつかは今のこの時も思い出となって、また泣きたくなってしまうのかしらね。 幸せで、幸せだから優しい思い出が頭に過ぎって、それがまた幸せで堪らなくて泣けてくるのよ。 この私が。 この私がね。おかしいでしょう? 私だって堪ったもんじゃないわ。勝手に涙が出てくるんだから。 あぁ、だと言うのに。 なんて、心地いい。 幸せということ。 私がここに居る幸せ。 ここに在る幸せ。 今日だけよ。こんな気持ち。 いつもあんた達には散々手を焼かされてるんだから。祝われて当然。 でも─── ありがとう。 **************************** 「チョッパー、どうした」 「うん、俺の椅子」 ウソップがこの傷だらけのGM号の修復に使った板切れの残りを研磨して、釘を打って作った椅子は余りに小さくてそれは結局チョッパーが使うことになった。 チョッパーにしてみれば自分専用の椅子なのだから嬉しくて堪らない。 仲間の誰かがそれに座れば、俺の椅子だぞ、と念を押すように言うからウソップなんかは敢えてそこに腰掛けるし、ルフィはチョッパーが固執しているのを見ればそんなに座り心地がいいのかとこれまた横から座ろうとする。 ついに見かねて、ナミがチョッパー以外に誰も座らないようにと皆に言い渡してからはようやく椅子の奪い合いが収まったのだ。 チョッパーは朝一番にちょこちょことキッチンに入ってきて、真っ先に椅子に座る。 今日は昨日の酒も体に残っていて、チョッパーはゆっくりとキッチンに入るとよいしょ、と椅子にのぼろうとして首を傾げた。 背もたれに体を向けてくんくん鼻を動かしているトナカイにサンジがどうしたのかと訊くとチョッパーは「俺の椅子から」と言い掛けてちらっとナミを見やった。 サンジの後ろでナミがそ知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。 彼女の傍らに座ったゾロと言えば、椅子に座って腕組みしたまま寝ている。 (ナミの匂いと、ゾロの匂いなのにな。) 何でナミはこっちを見ないんだろう? ナミが座るなって言ってから、誰の匂いもしなかったから嗅ぎ間違えることなんかないはずだぞ。 でもこっちを見ないってことは二日酔いで鼻がおかしくなったのかな、ともう一度青い鼻をひくつかせてみたけれど、やっぱりナミとゾロの匂いがするばかり。 せっかく自分だけの匂いになっていた椅子だったのに。 「チョッパー、ちゃんとこっち向いて座らないとご飯が食べられないわよ」 ナミが言うからうん、と返事して座りなおすと、サンジが俺の前にスープの入った皿を置きながら「椅子がどうしたって?」と訊いてきた。 俺の顔を覗き込んだサンジの顔の向こうにマグカップを置いたナミが見える。 やっぱり俺の方見ない。 な、なんだろう。 俺何か悪いことしたのかな。 だから俺の椅子に何かしたのかな。 ゾロの匂いがするってことは、ゾロも俺に怒ってんのかな。 匂いがするって言ったらまた怒っちまうのかな。 サンジへの返事を考えあぐねてもう一度ちらっとナミを見ると、傍らで寝ていたはずのゾロが僅かに瞳を開けてしぃとばかりに人差し指を口の前で立てて笑った。 よくわかんねェけど、ゾロは怒っているように見えない。 気付けばゾロの向こうにいるナミも、平然として見えたのにどこか緩んだ顔をしている。 そっか。怒ってないんだ。 でも秘密にしとかなきゃいけないんだな。 「──俺の気のせいだ!」 サンジに努めて明るく笑うと、へぇ、と納得いかないとばかりに首を傾げたコックは、だが、朝の一番忙しい時間だからそれ以上追求することもなく再び配膳を始めた。 ゾロはまた瞳を瞑って寝てる。 ナミはパンを皿の上で千切って食べてる。 後で何であいつらの匂いがするのか教えてもらうんだ。 チョッパーは隠し切れない笑みを零してスプーンを手に取った。 =======FIN======= ○お詫び○ |
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