これだけは覚えておきなさい。



私みたいないい女、あんたにはもったいないぐらいなのよ。




RainDrop


1




どこか、近くの木に蝉が止まっているのだろう。
しんと冷えた朝の空気の中で一匹の蝉がじわじわと鳴き出して、瞳を開けた。

カーテン越しに朝日が頼りなく差し込んで、足の上に一線を描いていた。

薄暗い部屋を見渡して何気なく溜息をつくと、一瞬細い眉を顰めて、少女はベッドを降りた。

夏の日にわざわざ厚いパジャマを纏って寝られるわけもない。

キャミソールに短パンを履いただけの彼女は手を伸ばしてカーテンを開けた。
まだ明けていない梅雨の空は雨こそ降ってないけれど、厚く灰色の雲に覆われている。
オレンジの明るい髪を手櫛で直して窓を開けると冷えた薄着の肌に冷えた朝の空気が沁みた。
もう初夏だと言うのに肌寒く、小さく身震いが起こって二の腕を擦っていると隣家の窓も開かれる。

向かい合わせの窓の向こうに見慣れた顔。


「こんな時間にあんたの顔が見れるとは思わなかったわ、ゾロ」

「そりゃどうも」

「誰が誉めてんのよ。ほら見て。雨が降りそうじゃない」

「梅雨なんだから雨ぐらい降るだろ。」

「───相変わらず口の減らないヤツね。」

「どっちが」


勢い良く窓を閉めれば部屋は途端にしんと静まり返った。

ガラスの向こうで呑気に欠伸している幼馴染の姿が見える。

小さく吐息を落として、ナミはクローゼットを開けた。

ハンガーに掛かった制服を出してキャミソールの裾に手を掛ける。


ちら、と窓の外に目をやると、向こうの部屋の中で気だるそうにシャツを脱ぎ捨てている幼馴染の姿。

何となく手を止めてしまったら、次の瞬間に窓越しの視線に気付いた彼はふと顔を上げた。
口の端がニッと上がって、開いた唇が一度、二度動きを見せる。

──阿呆

何か言い返してやろうと唇を開きかけたら、彼は制服の白いシャツを手に部屋から出て行った。





透き通ったガラス窓に雨がぽつんと一粒落ちた。




*******************




ゆっくりと支度して、それでも学校には遅刻しない時間に家を出る頃には空からぽつぽつと振り出した雨は、町全体を覆っていて、渇いたアスファルトが水を吸った匂いがした。
できかけた水溜りを除けて、バス停までの道を歩いていく。
射した傘の内側でパタパタ鳴る雨音に耳を澄ませて家から5分もしないバス停にたどり着くと、停留所の屋根の下には今朝は雨だからだろう、いつもよりも行列が長く出来ていて、うんざりしながら最後尾についた。屋根の下にも入れなくて傘を閉じることもできない。
射した傘の柄をゆっくりと、手持ち無沙汰に回していたけれどそれにも飽きて緩く回転を止めていく傘から時折こぼれ落ちる水滴を目で追った。

その内に地面にできた水溜りにぽつんと落ちる一滴が、そこに落ちた瞬間にはもう姿が見えなくなってしまうことがどこか不思議で、何度も何度も目で追う。

じっと俯いてただ雨の動きを見ていると、並んでいた行列がざわりと動いた。
顔を上げて振り返ると学校までの道を繋げるバスが走ってくる。
朝の時間にどこか急いたようにも見えるスピードで近付いてきたそれがモーター音で雨音をかき消して、目の前に止まった。

動き出した行列に合わせて前へと進む。
屋根の下に入っていそいそと傘を畳むと、ナミは並ぶ人たちが乗車口でもたついている合間にスカートについた水滴を軽く落とした。

降り始めた雨は細かな粒をスカートに、シャツに、撒き散らして湿り気を帯びさせていた。

じわりと滲んで、さっきまでは興味深く目に映った水滴が、何だかじゃまくさく思えてならない。


大きく溜息をついて乗車口を一歩上ると、水たまりを跳ね上げて後ろから走ってくる足音が響いていきた。


ビィと鳴った音と同じくして駆け込むようにバスに飛び乗った彼は、満員のバスの中でナミの背を押してもっと奥へ行けと無言で促す。振り返って、乗降ステップの上にまだ居る彼を見下ろしたら、早く、と言わんばかりに片眉を上げて幼馴染は憮然として顎をくいっと上げた。

「これ以上無理。いいじゃない。そこで」

「ここがいいってェなら変わってやる」

「何で私が変わらなきゃいけないのよ。自分がギリギリに家を出るから悪いんじゃない。」

「うるせェ。」

ふいっと顔を逸らしたゾロは肩から落ちかけた鞄を直そうともせずに腕組みして瞳を閉じた。



そんな所にもたれたらシャツが黒く汚れるのに。馬鹿ね。

でも、こうやってあんたを見下ろせることなんてそうそうない。

小さい頃は同じぐらいだったのに、どんどん大きくなって、男ってずるいわ。
あんたみたいな仏頂面に見下ろされるようになってもう数年が経ったけど、それでもまだ慣れない。
そうなると置いていかれたような気すら覚えて、妙に腹立たしくなってしまう。

頬を思いっきり抓ったら、ゾロは片方の目を半分だけ開けてじろりと私を睨み上げた。



「何しやが・・・」

「ゾロ、あんた邪魔になるわよ」


彼の文句を遮って、止まったバスにドアが開くのだと気づくと、周りの人たちもそれを知ったらしくて少しずつ奥へと詰めていく。
僅かに開いた隙間に体を押し込むと、ゾロは頬を手の甲で拭うようにして私を睨みながら隣に立った。

やっぱり並ぶと見下ろされる。

体もくっつくほどの位置だと余計にそれが実感できていやに悔しい。

見れば、ゾロが私を不思議そうな眼でじっと見下ろしていた。

「何よ。」

ついさっきまでは自分こそが見下ろしていたのだから、立場が逆転したらどうしたって落ち着かなくなって、それでもそんな事を考えてたなんて言ったらまたゾロが何を言うか知れたもんじゃない。
できる限り唇も開かずに、表情も変えずに、短く尋ねたら、ゾロが私の頬を抓った。


「か弱い女になんてことするのよ」

「どこが」


軽い声で言うと、ゾロはそれっきり手を離して窓の外に視線を移した。


雨だれは見えるはずの景色を遮ってガラスを這って幾筋もの流れを作る。
分かたれた水の道筋が時折交わってまた離れて、でも窓の縁でまた一緒になっている。

バスがスピードを上げれば、縁べりに溜まった水は弾くように飛ばされていった。

変な感じ。
離れて、またくっついて、一つになったと思ったらまた風に飛ばされてどれがその滴だったかもわからないほどに細かく撒き散らされるんだわ。

それって、結局は離れるってことなのかしら。

それとも溶け合って、溶け合った水滴が小さな飛沫に変わって、一度溶け合ったらずっと同じということなのかしらね。

(バカみたい・・・───)

何をくだらないことを真剣に考えているんだろう。
自嘲したい気分になって、窓ガラスから目を逸らした。


「・・・ゾロ、あんた傘は?」

肩が濡れたままの彼の手に、在るべき物はなくてまさかと思ったらゾロは当然のように持ってくるほどでもないだろと言い放った。

だってこんなに雨が降ってるのに。

家を出る頃にはもうかなり降っていたはずなのに。


「走ればすぐとか思ったんじゃないでしょうね」

「悪ィか」


あぁ、やっぱり。

こいつってどうしてこう昔っからバカなんだろう。

バカね、って言葉にしてしまったら、ゾロは小さく鼻をフンと鳴らしてそれでも窓の外をずっと見ていた。




*******************




ゾロと初めて話した日のことなんか覚えてるわけがない。

隣同士で年も同じなんだから当然生まれた時からいつも一緒で、お互いの親にしたって、まるで兄弟を育てている気分だなんてよく言っていたものだ。

幼い時は本当に家族が隣に住んでいると思っていたぐらい。
その上高校まで同じところに決まった時には、何を聞いたわけでもないけど多分ゾロにしても私と同じことを考えたでしょうね。

またこいつと一緒なんだ、って。


残念とかそういう感情ではないけれど、あぁ一緒なのかって思ったのよ。


「だからって別に好きとかそういうのはないの。腐れ縁よ。」

「そんなもんか?」


ウソップは納得できないとばかりに首を傾げた。


「あんたの頭ってそういうことしか考えられないの?たまにはテスト勉強もしたらどう?来週から期末じゃない。」


同じバスに乗ったのだから当然降りるバス停は同じだし、傘を持ってないゾロは先に走っていくからと校門の前のバス停から玄関までを一直線に駆けて行った。

振り返って私にそう言ったゾロの姿を見ていたのが、徒歩で通学しているウソップで、ゾロの姿が校舎の中に入っていくのを見ながらゆっくり同じ道を辿っていた私に今までだって散々聞かされた質問を朝の挨拶の代わりとばかりに大声で叫ぶものだから、苛立ちも隠さずに違うと返したら、ウソップは頻りに頭を捻っていた。

「けどお前ら仲良いじゃねェか。」

「どこをどう見たらそう思えるのか、私の方こそ聞きたいぐらいだわ。ウソップ、あんただって幼馴染がいるって言ってたじゃない。違う学校の。それと同じよ」

「俺の幼馴染は男だっ!」

「男だろうが女だろうが関係ないわよ。幼馴染に変わりないんだから」

上履きに履き替えて教室へと続く白い廊下を歩きながらナミは思い出したように付け加えた。

「それに、あいつのことそんな目で見れないんだから。私にも好みってもんがあるのよ」


言って、ナミは、「そうかァ?」なんて間抜けな声で顎に手を当てて考えこんでしまったウソップを置いて教室の扉を開けた。


三年生にもなれば夏だろうが冬だろうが教室の中にいるクラスメートの大半が参考書を開いている。
テストを来週に控えた今なら尚更朝早くから学校に来て勉強してる人もいるし、その上一時間前に降り出した雨に窓は締め切られて鬱屈と澱んだ空気が肌を纏って気持ちが滅入ってしまう。

窓際の自分の席に鞄を下ろすと、ナミは大きな窓を僅かに明けた。

湿って、生ぬるい空気が、それでもどこか清々しささえ覚えるのは、この窓の真横に木の葉を並々と茂らせた木のおかげだろう。
新緑の匂いをすぅと吸い込んで、ようやく席に着くと予鈴が鳴った。




*******************




黒板を叩くように文字を書いていく教師の後ろ姿をぼんやりと見ていつからだろうと考えていた。

しとしと降り続ける雨の音に、チョークの音。
鉛筆の音。

紙をめくる音。


静かに耳に衝いて、ぼんやりといつからだろうと考えていた。


ゾロが、今のゾロになったのは。


幼稚園の頃にはまだ私と同じぐらいで、だってゾロを見たら真正面にその瞳が必ずあった。

小学校?

小学校に入ったらお互いに友達もできて、自然と二人で一緒に遊ぶことは少なくなっていったけど、でも隣なんだから毎日と言っていいほど顔を合わせていた気がする。

私が一人部屋を持ったのもその頃だった。

ゾロはすごく羨ましがって、いつも私の部屋の向かいの窓から出てきて、屋根伝いにうちに来ると無造作に窓を叩いた。
それで私の部屋を秘密基地か何かみたいにしちゃって、あの頃は私の部屋なのにゾロの物の方が多かった気がする。
親に叱られそうになったら絶対に来るのよね。

可愛いもんだわ。

もっとも、高学年になってからはほとんど来なくなってしまったけど。

それでも今のゾロみたいじゃなかった。

中学生になってからも、度々屋根を廊下みたいに思ってるとしか思えない彼は当然の如く私の部屋のガラス窓を外側から叩いて、そうは言ってもその頃はあまり部屋に入ろうとせずに辞書を貸せだの宿題を写させろだの。
親だって知ってるのに、何度危ないと言ってもゾロは玄関から入ってこようとしないから、しまいには窓向こうの部屋がゾロの部屋になったんだわ。
そう、それが中学生の頃ね。


あいつってば試験前になったら必ず来るんだもの。

私だって一応女だっていうのに、そういうことは全く頭にないんだから。

だから、ウソップが言うようなことなんて有り得ないのよ。

自分を女として見てもいない人をどうやってそういう目で見ればいいの?


高校に入ってからは、同じ学校でもほとんど話さなくなった。

中学の時からモテていたにはモテてたけどゾロは目付きが悪いから彼に女の子が近付くこともなかったし、ゾロと平気で話せる女なんて私だけだったわよ。

それがどう?

ここに入学して、途端に来るもの拒まずだもの。

昔はあんなに可愛かったのに、今じゃ私にだって生意気な口しか聞かなくなった。

気付けば、私より視線は高くなって、真正面からにゾロの瞳を見止めることはできなくなった。

自然と話すこともなくなって、たまに会えばお互いに軽口を叩いてそれで終わり。

テスト前に窓を叩くあの音は聞こえやしない。

きっとその時その時の女に教えてもらってたんだわ。



───私には関係ないけど。



でも、何故か試験前のこの季節、机の上には辞書が二つ。


(中学の時までの癖だわ)


何で私がゾロのことなんか気にしなきゃいけないんだろう。




幼馴染だからね。きっと。


手のかかる幼馴染なんて持つもんじゃないわ。
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