RainDrop


2




夕方になっても雨は止まない。
今年は少し早く梅雨明けになるって天気予報で言ってたのに、じめじめした天気はまだ続く。

「え?3日が誕生日なのか?」

「ウソップ、あんたこの私の誕生日を忘れてたとか言うつもり?」

「いいいいいやっ!そんなことは・・・!だ、大体俺とお前は今年初めて同じクラスになったんだから知らなくて当然じゃねェか!」


ウソップとは1年生の時から何かと話すことがあった。
それはゾロと彼が同じクラスで仲が良かったからで、一度、ゾロに用事があって仕方なく彼の教室に足を運んだ時からだ。
好奇心旺盛なウソップはゾロを呼んだ私のことを、彼にあれこれ聞いたらしく、ゾロのいないところでも校舎の中ですれ違えば声を掛けてくるし、何かと「ゾロと付き合ってねェのか」と躊躇いもせずに聞いてきた。
こうしてあけすけなく何でも話すようになったのは、今年の4月から。
よく喋るし、私とゾロのことを邪推するし、うるさい奴と同じクラスになったと思ったものの、話す機会が増えればなかなかお人好しな奴だなんて思い直すこともあって、彼氏がいない時には放課後教室に残って、一緒に勉強することもある。
その彼が期末試験を控えた休日に、テスト勉強のためにゾロの家に行くからお前もどうだと誘ってくれたけど、その日は私の誕生日で他の友人に既に誘われているからと言ったら、ウソップはそれを知って場違いなほどの素っ頓狂な声で驚いた。

教室の中にはナミやウソップ以外に何人か残って勉強している人もいる。
その内の何人かは、顔も上げずにちらりと視線をこちらに向けて、大声上げて勉強の邪魔をした級友を往なすように見ていた。

はっと我に返って口で手で覆うと、隠しきれない長鼻の下からおそるおそる小さな声で「けどゾロもいいんじゃねェかって言うしよ、てっきりお前にも言ってるもんだとばっかり思ってたんだがな」と言った。

「だからどうしてそこで私が出てくるのよ」

「俺達だけでテスト勉強ができると思うか」

えっへんと胸を反らしたウソップに頬杖ついたまま軽蔑の眼差しを送ると、彼は取り成すように「まァ俺様が本気を出せばお前なんか必要ないがな!」と付け足した。

「じゃあ別に私を呼ぶ必要ないじゃない」

「あ、待て待て!今のはちょっとした冗談だ!」

「お金払ってくれるならいいわよ。約束は夜からだから。」

「お前・・・俺からまだ金をたかるつもりか。」


窓の外に顔を向ければ、初夏だと言うのに曇り空はもう僅かに暗くなりかけていて、ナミは「失礼ね」と言うと、机の上にあった筆記具も、参考書も、ノートも、すべて鞄に入れて席を立った。


「労働の報酬よ。それにあんたに前貸したノートのお金だって貰ってないんだから。まずはそっちをちゃんと払ってもらわなきゃね」

「ノート?」

「覚えてないの?絶対後で奢るとか何とか言ってたから貸してあげたんじゃない。ただで楽しようなんて思ってるんじゃないでしょうね」

「いや、覚えてるぜ。けどありゃゾロが貸せって言ったんだからあいつに金もらえばいいだろ?」

「・・・何よ、それ。ウソップ、あんたいい加減そういう嘘つくのやめた方がいいわよ。」

ナミが両手に鞄を持ち替えてじろっと自分を睨んでいるのだから、途端に彼女の周りに殺気を感じ取ったウソップは慌てて首と手を思い切り振ると、「う、嘘じゃねェ!」と声を震わせた。

「本当だ!お前がいない時にあいつがここに来てお前にノート借りとけって言ったんだからな!」


ウソップがあまりに必死な声で言うから、その時のことを思い出そうと懸命に頭に残る記憶を探した。

あの日、私が昼休みに購買に行って教室に戻るとウソップがいそいそと私の机の傍らまで来て、日本史のノートを貸してくれと頭を下げた。いつものようにお金を払えって言ったらわかったわかったってすんなり了承してノートを持っていったんだっけ。翌日には返すって言ったのに、戻ってきたのは3日後で随分遅かったから、怒っちゃったのよね。

ここまで思い出せばウソップの話と符合しないわけでもない。

でも嘘じゃないという確証もない。


「証拠は?」

「証拠も何も、俺は日本史取ってねェだろ?」

な、と笑顔を引き攣らせたウソップをじっと見て、ナミは溜息をついた。


「どうして私に直接言わないのよ、あのバカ」

「確かにあいつはバカだ。バカに違いない。そのせいで俺様が今こうして殺されかけたわけだからな!」

誰が何をどうするって?と低い声で脅せばウソップは「口が滑った!」とまた手を振った。

「あんたにあいつをバカにする権利はないと思うわよ、ウソップ。類は友を呼ぶって言うじゃない」

「な、何!?ナミ、お前、そりゃ大きな誤解だ!何たって俺は中間であいつより上だったからな!!」



────私から見たらどっちも同じ順位にしか見えなかったなんて言う気にもならないわ。



「何か言ったか?」

「別に。なァんにも。」


肩に掛けた鞄には週末勉強をするためにいつもは学校に置いていく参考書なんかも入っていて、ずしりと重い。
バイバイ、と手を振るとウソップは「金はゾロに払わせろよ」ともう一度言った。


3年生の教室が並ぶこの廊下を歩けば、そこここの教室に生徒が残っている。
雨のせいだろうか、校舎内で筋トレしている部活があるようでどこかの階からは揃った掛け声が聞こえてきた。
少し冷たい空気を留める階段を下りて下駄箱まで行く。
靴を履き替えて、自分の傘を取ろうと傘立てに目をやってナミは首を傾げた。

朝は通学してきた生徒が皆ここに傘を置くのだから混雑していて、自分の傘だってわからなくなる。
たまに盗まれることもあって、だから自分の傘にはオレンジの丸いシールを絵の部分に付けてあった。
名前を書くなんて幼稚なことしたくないけど、目印がなかったら透明のビニール傘はそれこそ盗ってくださいと言っているようなもので、仕方なしになるべく小さな丸いシールを貼ることにした。

そうまでしても一度、盗まれたことがある。

(あの日はビビが一緒だったから同じ傘に入れてもらったんだわ)

でもそのビビは最近彼氏ができたから放課後はさっさと帰ってしまう。
教室まで戻ってウソップに傘を借りてもいいけど、相合傘なんてしたくない。
その上ウソップってば、黒い傘に自分で意味のわからない絵を描いて芸術だなんて言ってるぐらいで、その傘の下に自分が入っている光景なんて想像もできない。


どれだけ探しても、似たような透明の傘はあっても自分のつけたあのシールがないし、誰かに盗られたのだと思ってナミは溜息まじりに外に出ると、梅雨空を仰いだ。

暗い空からぱたぱたと滴が降り注いでくる。
せめてバスが見えたらここから走ってバスに乗り込んで被害を少なくしたとしても、降りてから家までは歩いて5分なのだから、雨の中ではかなりの距離。走ったところでずぶ濡れになってしまうのは目に見えていて、憂鬱この上ない。

「んもう!」と、苛立ち紛れに呟いて、ナミは校門真横に設置されたバス停に佇む人たちの傘を見ていた。
あれが僅かに動き出したら、きっとバスが来る。

手首にはめた腕時計を見れば、次のバスが来る時刻をは過ぎていても、バス停には5人ほどの生徒がいるのだからもう行ってしまったということはないはずだ。

バスが来る気配を知ったら、この玄関の屋根の下から走り出てバスに飛び乗ればいい。

降る雨の向こうを焦れた心で見ていると、黒い傘や透明のビニール傘が規則的に動いた。

バスが見えた彼らは、停留所の中でまた少しずつ列を前に進めたのだろう。

鞄を持ち直して走り出る。

そこまで土砂降りでもない雨の中でも、走れば案外強く頬に打ちつけられた。
ただでさえ湿っていた空気だったのに、手足もシャツも濡れてしまって無駄だとは思うけれど手を額に翳して校門まで走っていくと、ちょうどバスが大きく水溜りを跳ね上げて向かってきていた。
列の最後尾につくと傘を持たない自分をちらりと見た生徒がいる。
見知らぬ顔のその生徒を睨み返して、ナミはまるで雨なんか気にしない態で、けれども鞄の中身が濡れないようにと前に持ってきた鞄の上で腕組みをして扉が開かれるまでの一秒一秒を待っていた。

一滴、また一滴と空から降ってくる雨を含んで髪も重くなっていく。

早くしなさいよと前に並ぶ人に言いたいのをぐっと堪えてようやくバスに乗ると、渇いた空間に安堵の溜息さえ出てしまった。

しばらく教室に残っていたから、この時間は帰宅ラッシュでもない。
空席も目だって、この停留所から乗った学生以外の姿もなく、適当な席に腰を落ち着けようとすると開閉を知らせるブザーが短く鳴って止まった。

乱暴な足音を立てて男子生徒がバスに乗り込んでくる。

こんな雨で自分以外に傘を持ってない人なんて、彼しかいないなんて思いつく前にその緑の頭に左耳の三つの金のピアスはあまりに目立っていて、しかも上背もあるのだから否が応にもわかってしまう。


「ゾロ、購買で傘買わなかったの?」

話しかけるとちらっと私を見て、ゾロは通路を挟んで隣の席にどかりと腰を下ろした。

「いらねェ」

「朝だって雨に降られてたじゃない。学習しなさいよ」

「・・・そういうてめェだって」

一目見ただけで傘を持っていないとわかるぐらい、ナミの服は濡れているし前髪は水気を含んで額にはりついている。
ゾロはそう言って、それなら俺に文句を言うなとばかりにそっぽ向いた。
暗がりの空にバスは車内の蛍光灯をつけていて、窓には自分から目を逸らした彼の顔がはっきりと映っていた。
瞳を閉じて寝ようとしているみたい。

通路を挟んで話していれば、他の人にも会話は聞かれているだろう。
私だって別にゾロと取り立てて話したいわけでもないんだから別にいいわ。

前を向いたらフロントガラスではワイパーが規則正しく左右に振られて、雨を弾いていた。

飛ばされた滴が少しずつ点灯していく町の灯をぼやけて見せて、どうも気分が晴れない。

ふと、思い立ってゾロに顔を向けて「傘が盗まれたのよ」と言った。

聞いてないかと思ったけど、窓に映し出されたゾロはほんの少し瞳を開いた。
そうすると窓ガラスに映っていた私と、窓ガラスに映っていたゾロの視線が合って、彼は思いっきり眉を顰めたけれどガラス越しにはまた瞳を閉じようとする気配がない。

「私、バス停にいるからあんた家に行って傘を持ってきて」

「・・・・・・あァ?何で俺が・・・」

「幼馴染にずぶ濡れになったら可哀想だと思わないの?」

「てめェは思ってんのか。俺に。」

「あんたのは自業自得って言うの」

「ほれ見ろ。てめェのも・・・」

「あっそう。じゃあいいわ。」


すんなり諦めたナミが先に視線を逸らしてそれっきり前を向いてしまったものだから、ゾロは言いかけた言葉を飲み込んで、唇を結ぶしかなかった。




*******************




バスが停留所に止まるとオレンジ色の髪をかき上げながらナミが先に降りてきた。
続いてゾロが気だるそうに降りてくる。

バスが行ってしまうと停留所の屋根を雨が打つ音ばかりが響いていた。

雨足はわずかに強くなっているようで、ナミは街灯に照らされて幾筋も線を描いた雨を見やりながら停留所のベンチに、道路に背を向けたまま座った。

「──おい、まさか止むまで待つつもりとか言うなよ」

「傘がないんだもん、しょうがないじゃない。濡れたくないの。」

「止むようには見えねェが」

「そのうち止むわよ」


そう言いながらナミは足をぶらつかせて、水に濡れた髪が気になるのか何度も毛先を弄っていた。
雨足は強い。

空はいつしか真っ暗になっている。

街灯に照らされたこの道を真っ直ぐに走って家に帰ればいいものを、だが、一度こんなことを言い出したらナミが考えを曲げない女ってことぐらいは嫌になるほど長い付き合いなのだからわかっていて、彼女の耳に届くようにあきれ返った溜息をつくと、ゾロは「じゃあ」と言ってさっさと屋根の下から出た。
一旦空を仰いで手で雨から自分を庇うこともなく走っていく。

背中を見ていれば振り返りもしない。

ポツンと一人、雨に降られた停留所でただぼんやりと光る外灯の明かりが点々と続いている道を眺めていた。

時折道路を通る車が無機質なエンジン音に水音けたたましく走り去っていく。

生温い温度に、それでもシャツを一度濡らしてしまったら肌寒さを覚えてただじっと雨を見ていた。

(走って帰ったっていいんだわ)

それでもそれをする気にならない。
苛立ちは募って走る気力なんて失われてしまった。

何を期待していたわけでもないのだけど。

だけど、傘ぐらい取ってきてくれたっていいじゃない。

気に入らないのは自分でもわかっている。

ゾロが傘を取りにいかないことじゃなくって、私の言葉を聞かないことじゃなくって、何を言っても決して私に振り向こうとしないからよ。


いつからだったろうといくら考えたって出てきやしない答えを、それでも小さな頃いつも傍らに在った彼を思い出してしまってもうあの頃に戻れないのかなんて思ってしまうから。

そんな自分も何だか馬鹿馬鹿しいから、おなかが苦しくなってしまう。

しょうがないってわかってるのよ。

だって私だって変わったんだもの。

あの頃の私じゃなくなったもの。


じゃあゾロが私を嫌いになったのかと思えばそうではないという根拠のない自信だけは何故か胸に在る。
それだけは覆されない。



「だって、幼馴染なんだから」



それぐらいわかるわよ、と内心で言い聞かせるように呟いてふと、雨の中に人影を見た気がした。



途端に心も、重くなった体も軽くなった気がしてナミはいつしか唇を緩めていた。



「私は頼んでないわよ」

「・・・こっちが気分悪ィだけだ」

言って、一本だけ手にしていた傘を開いたままずいっと差し出したゾロはやっぱり私を見ない。

だけど今私がここに居ると知って、走って帰って服もそのままにまた傘を持って戻ったんだから。
あんたの負けだわ、ゾロ。
いくら目を逸らしても、ぶっきらぼうに振舞っても、あんたがそういう奴なのは知ってるのよ。

「バカね。せっかく家に帰ったのに自分の傘は持ってきてないの?」

「それが俺の傘だろ」

黒い傘は確かにゾロの物なのだろうけど。

「そういう意味じゃないわよ。ホント相変わらずバカなんだから」

貰った傘をくるっと回せばゾロは微かに飛んだ水しぶきに眉を顰めた。

「しょうがないわね、一緒に入りなさいよ」

立って彼の頭の上に傘を翳すとゾロは暫しじっと考えた後に「今更」と濡れそぼったシャツを摘んで見せる。

その手に傘の取っ手をぐいっと押し付けてほら、とナミが笑顔を浮かべると、彼は渋々とそれを持って歩き出す。
置いてきぼりになるのかと少し小走りに傍らに寄ったら、急に歩調が弱くなった。



分かり辛いけど、そういう奴なのよね、あんたって。
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