RainDrop


4




ナミの言葉が耳に衝いて、暫し言葉を失った。
そういう対象じゃねェ女から唐突に聞かされた言葉に呆然として、だが、言葉を聞かされた瞬間から腹が痛む。
胃の奥に何かが在ってそれが俺の腹を内側から締め付けてやがる。

かろうじて「そんなもん」と声を出したら、己でも驚くほどに上擦っていて懸命に自分を取り戻そうと頭の中に色んな言葉を並べようとしたのだが、逡巡する言葉の中には何一つこの状況に合うものがない。

唇をきゅっと噛み締めて睨むように俺を見るナミの視線に急かされて、とにもかくにも口を開いた。


「───できるわけが・・・待て。てめェ一体なんの話をいきなり・・・」

「ほらね」


ふっと笑ったナミは俺に視線を合わせようともしない。
その伏せた睫毛が昔の記憶と同じで、不意に思い出した。

この目が嫌なんだ、俺は。

ナミのこんな顔が俺の知ってる女じゃねェもんだから、それに気付いてこの女を見ないようにと───あァ、ナミが言ってたのはそれか。

避けてたなんて大袈裟なもんじゃねェ。

だが、戸惑いはあった。

そりゃそうだ。
よく知ってるはずの女が知らない顔を見せりゃ誰でもビビるだろ。
数年前の俺なら尚更。避けて当然じゃねェか。


「てめェの責任だ」

「私・・・?そうね、私の責任ね。でも・・・」



「そんなの、あんただって同じじゃない・・・───!」


振り絞った声に、伏せた睫毛の奥で涙が見えた気がして呆気に取られた。
その隙にナミは手を振り払って窓に上るとひらりと屋根に飛び降りる。

「──お・・・おい」

俺らしくもねェ。
弱い声で背を追った時には、向こうの窓がピシャリと閉まって、ナミは振り返りもせずに後ろ手でカーテンを閉めた。
開け放たれた窓からは、夜になって尚降り続く雨が入ってくる。
それでも、またあの窓が開くんじゃねェかなんて思えばそれを閉める気にもなれず、ただ、目に馴染んだ窓を見続けていた。




*******************




バカみたい。
ゾロが私をそういう目で見てたなんてことわかりきってたじゃない。

後悔なんてしてないわよ。
ただ、私は私のしたいようにしてきただけ。

あんただって同じじゃない、ゾロ。

あんただって私がこの部屋に居ると知っていたって、自分に寄ってきた女を部屋に連れ込んでたじゃない。
私はそれと同じことをしただけ。

お互い、そんなの暗黙の了解だったはずでしょう?

なのにあんたばっかりそんな私を避けるのね。

避けたのね。

バカみたいじゃない、私。

久しぶりに彼と話して、ぶっきらぼうだけどその優しさを見せ付けられて、もしかしたら今日だったらあんたと昔みたいに話せるかもって思ったのよ。

帰れるわけがないのに。

ゾロが変わったんじゃない。

私と、ゾロが、二人ともが変わっちゃったの。

───じゃあどうして帰りたいなんて思ったんだろう?

記憶に散りばめられたあの日々に、私の傍らにいたゾロの姿をもう一度見たいなんて気持ちが心にぷかりと浮かんだのは、どうして?

他の女とはキスぐらいするじゃない。
あんたは近くにいる女だったら誰だっていいんでしょう。
でも、じゃあどうして、私だとダメなの?

どうして、私にはキスできないの?

そんなに慌てるの?

キスぐらい───






私は、だって、あの時キスしたかった。

こんな感情なんて馬鹿馬鹿しいってわかってるけど、それでも目の前にいたあんたが、私を掴んだ腕を引き寄せてくれるのだと思っちゃった自分があまりに虚しいじゃない。

あんただからじゃないの。

あんただからじゃないわ。

目の前に誰が居たって、きっと同じことを言ったんだから。


それでも、私はあの瞬間、確かに口付けを待っていたのに。


何でできないのよ。



(そんなに私が嫌いになってたの?)





あぁ、もう・・・───



自分で呟いた言葉に嫌気まで差す。


だから瞼が熱いのね。

ゾロの言動にいちいち一喜一憂して、こんなことまで考えて、わかってるのに。
わかってるはずなのに胸が苦しい。
それだって、痛い。
全部痛い。

ゾロの言葉も。

どうしてか泣きそうになる自分も。

嫌われてるかどうかなんてことで満たされた頭の中だって、いくら打ち払ったってそれは消えやしない。


でも、泣かない。

泣くもんですか。



私はあんな奴、何とも思ってないんだから。



「・・・───バカ」







誰が?




*******************




「え?ナミの奴、来ねェのか?」

鞄からボロボロのペンケースと手垢なんて全くついていない教科書を取り出しながらウソップがそんな声を上げるとゾロは僅かにしかめっ面になって、開化から持ってきた1m四方の小さな折り畳みテーブルを無造作に部屋の真ん中に置いた。いつもは家で勉強なんかするわけがない。
宿題は集める直前に誰かのを写せばいい。
中学の時まではナミのノートを借りに行ったりもしたが、高校に入ってからはナミに頼る自分がどうももどかしく感じて、最近じゃ教科書だって学校に置きっぱなしになっている。
今日ウソップが来ることは覚えていても、いざ勉強会だから教科書を持ち帰らねばという概念は何故か頭から抜け切っていて、色々と鞄の中から取り出しているウソップの手元を見て初めてしまったと気付いた。

「知るか。今いねェなら来ねェんだろ」

「そういう意味か。じゃ、やっぱり来るんだろ?」

ほっと胸を撫で下ろしたウソップの眼前に腰を落ち着けて「やっぱり?」と聞き返すと、ウソップは昨日の放課後にナミが金さえ払えば勉強を教えてやると言ったとかいつまんで説明した。

「大体俺ら二人じゃ勉強もクソもねェ。俺サマがお前に教えてやることはあっても、一体誰が俺に教えるんだよ」

「俺が」

「・・・とりあえず、ナミに聞いてみりゃいいじゃねェか。あいつ忘れてるだけかも知れねェぞ。」

「もう昼だぜ。出かけてるだろ」

「いや、今日は夜から出かけるって言ってた。支払いは割り勘だ、ゾロ。俺もまだ今月の小遣いは・・・・あ、お前中間の金払ったか?ナミに」

天井を見つめて考えてみれば、そういやノートをこいつに借りてもらった時に散々金の話を聞かされたんだったかと思い出した。その日本史のノートにしても、度々うちのクラスに遊びに来るウソップに渡した方が手っ取り早いのだからこいつに渡したんだが・・・あの女のしたってそんな事ァ口に出さなかったものだからつい忘れていた。

「払ってねェのか・・・それだ。ナミの奴、確実にそれを怒ってるな。俺様が言うんだから間違いねェ!」

「そんな事ァ一言も言ってなかったぜ。一昨日は。」

「一昨日?一昨日ナミと話したのか?じゃあお前またケンカしたのか?」

ケンカ?
ありゃケンカって言うのか。
あの女が勝手に勘違いして勝手に・・・──

(泣いてたのか?)

違う。涙なんかは見なかった。


「お前らなァ、いつも間に立つ俺の身にもなってくれよ。ゾロ、てめェがちょっと折れりゃナミだってそう怒ることもねェんだ。いつもボーッとし過ぎてっからナミが怒るんだろ。女心ってのァ難しいもんでな。いや、俺が中学生の時なんかは3000千人の女がいたもんだが───」

ウソップのいつもの法螺話をぼんやり遠くに聞いて、こいつが昨日のことを知ってるわけでもなく学校でたまにナミが俺に突っかかってるアレを傍で見てそう思ったのだろうとはわかったのだが、確かにそりゃ一理ある、と心中で頷いた。

俺はどうもその手のことは鈍いらしい。
ナミの事ぐれェは生まれた時から知ってるのだからわかると思っていたが、昨日初めてあいつが何考えてるかわからない自分を悟った。

何であんなに俺に突っかかってきたんだか。

何で俺にキスしろなんて言ったんだか。

さっぱりわからねェ。


「つまり女ってのにはとりあえず折れときゃいいんだ!」

豪語して、長い話を終えたウソップは自分を見てない俺に気付いて手招きして気を引いた。

「こっちから頭下げる必要がねェだろ。相手はあの女だぜ。」

頭なんて下げてみろ。
途端に調子に乗るに違いない。

「ナミだからこそだと思うがな。そりゃお前が女に頭下げるような奴じゃねェのはわかってるが。お前もナミには何だかんだで結局言うこと聞いてるじゃねェか。」

「俺が?いつ。」

「あぁ、聞いてなかったかな。いや、俺の気のせいかもしれねェがそんな気がしただけだ。現にお前もあいつには負けちまうだろ?この俺サマでもあいつには歯が立たねェ」

「負けるかよ」



───とりあえず二日前、あの女がバス停で雨を止むのを待つなんてふざけた事をぬかしたものだからついつい家に帰って玄関に置いてあった傘を持ってまた来た道を戻ってしまったことはこの際黙っておいた方がいいだろう。



「そうか?ま、とにかく今日はあいつがいなきゃ話にならねェだろ。呼んでこいよ。なっ!」

「だから今日は来ねェって。俺と二人で何か文句あんのか。」

「いや、だから俺とお前二人じゃ・・・わ、わかった。そんな睨むことねェだろ?ったく、そういうトコだきゃさすが幼馴染だぜ・・・」

ぶちぶちまだ続けようとするウソップをもう一度睨むと、彼は肩を竦めていそいそとノートを開いた。
教科書も出して、テスト範囲の付箋が貼ったそのページに手をかけて、ふと顔を上げる。

「ゾロ。お前ノートとか教科書は」

「んなもん学校に置いてあるに決まってるだろ」

「・・・・・・・。」


数秒の沈黙の後、瞬時に形相を変えたウソップはえらい剣幕で怒鳴り散らした。




*******************




「・・・ミさん、ナミさん!」

友人のビビの声が耳に届いて、我に返る。

待ち合わせしたマックでジュースだけを頼んで往来する人ごみをぼんやりと眺めていた。
どれぐらいそうしていただろう。

今日は自分の部屋に居たくなくて、あの窓越しに見える景色すらも厭う気分にもなって、朝早く家を出た。
夜まで時間を潰そうと色々歩いてみたけれど、昼には疲れてしまって、かと言って食欲もない。

歩いているだけというのも体は疲れるだけで、結局待ち合わせした時間から数時間も前にここへ来た。
一杯のオレンジジュースを買って、窓際のカウンター席に腰掛けていれば雨が降っているというのに日曜日の街角は人の波が途切れることなく動いている。
それぞれ差された傘の色は雨に煙る街に彩りを添えていた。

透明の傘、黒い傘、紺の傘、真っ赤な傘、ピンクの傘。
あの黄色くて一段小さな傘は子供が差しているのだろう。
クリーム色の傘はやわらかく目に映る。
灰色の傘は、水滴を纏って鮮やかに見えた。

そして、緑の傘。

あいつの頭と同じ色。

あの傘の端っこに三つ、金色のピアスを下げてみたらどうかしら。

ゾロの出来上がりね。

そうしたら私が持ってあげるわ。
あいつは私の雨除けで十分。

いつもいつもいつも、私に面倒かけるんだからそれぐらい役に立ってもらわないとね。


思い出したら、また腹が立ってくるわね。
もうあいつの事は考えないようにしなくちゃ。
あんな奴どうだっていいのよ。ただ隣に住んでるだけじゃない。
あいつが私をどう思ったって、あいつがどんな女とヤろうがそんなの私の知ったことじゃない。

そうよ、どうだっていいの。

私だって私のやりたいように楽しめばいいんだから。



(わかってるのに、何で?)


思考はそこまで辿り着いてはまた昨日のゾロの焦った顔や、言葉を思い出して振り出しに戻る。
ただそんなことばかりを考えて、どうしてと疑問は拭えなくて、気付けばビビが傍らに立っていた。

「どうしたの?すごく困った顔してるわ」

「私が?どうして?」

聞き返されてビビは返答にまごついてしまった。
あぁ、私の馬鹿。
まるで糾弾するように問い返したら、そりゃビビだって困るわよ。
こういうのを八つ当たりって言うんだわ。

「ごめん。何でもないの。雨が嫌いなのよ。天気予報外れたわね」

「そういえば、先週は今週末が梅雨明けだって言ってたのに。」

「止みそうにないわね」

窓の外に目をやって、ナミは溜息を吐いた。
じめじめした天気もうじうじ考えてる自分も何だかやるせない。

(忘れて、今日は楽しむの!)

内心で頭をぶんぶん振って、殊更明るい声音で「今日はどこに行くの?」と聞いた。

誕生日パーティーだけど、当日までは内緒ですなんて言った友人はいくら聞いても口を割ろうとしなかったのだ。
ビビは少し困った顔をして「色々相談したんだけどテスト前で」と前置きを口にした。

「そんなことだろうと思ったわ。クラブ?カラオケ?どっちかよね」

いつも遊ぶ仲間は同じ学校とも限らないし年齢も違う。
それでも大抵の人は学生で、この時期は皆試験前で集まることすらも難しい。
そんな大きなパーティーなんて出来るわけもなくって、ビビがすみませんと謝っても怒る気にもなれない。

「でもクラブを貸しきったから、今日は朝まで!・・・は、明日学校があるから無理かもしれないけど」

両手に拳を作って、気合を見せた友人がすぐに困ったように笑ったから体の疲れが少し軽くなった。
今日初めて笑顔を浮かべて、椅子から下りると、ビビは「ナミさんは今日は誕生日なんだから私が」と行って、ジュースを入った紙コップを手に取った。

「あら?たくさん残ってるわ。ナミさん、いいの?」

「いいわ。今日はジュースって気分じゃなかったの」

ありがと、と言って悠然と歩いていく友達の背を追いかけて、ビビはやっぱりどこかいつもと違うナミに首を少しだけ、傾げた。
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