2月 pocoapoco      - PAGE - 1 2 3
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ベッドサイドの目覚まし時計がピピピ‥‥と鳴る音がして、しだいに意識がめざめてくる。

ナミは目を開けないままうーんと腕を延ばし、いつもの場所で律儀に鳴っている時計を探ると、手探りのまま慣れた手つきで止めた。ひとさしゆびの先で目をこすりながら、ちいさくあくびをする。

もともと朝は苦手な方だったけれど、学生時代からの長年のひとり暮らしで、なんとかひとりで起きるすべは身につけた。もちろん就職してからは朝が苦手とか言っている余裕はなくて、かろうじてベッドから抜け出して、お化粧して、着替えして、バス通りまで懸命にヒールで走って‥‥っていう毎日もはじめの頃はあったのだけれど、この生活ももう3年目ともなれば、それなりに規則正しいリズムができあがっている。

もともと、きちんとするのが好きなたちなのだ。

起きあがってみると部屋の中とはいえ、朝の空気はひんやりと冷たかった。暖房のスイッチを入れて、部屋が暖まるまでにはしばらく時間がかかる。その間にパンを焼きお湯を沸かして、簡単な朝食の準備をしながら、手早く洗顔と着替えをすませた。

広くはない部屋が、だんだん暖まってくる。

窓に向かうテーブルについて、時計がわりのテレビを眺めながら朝食を取る。会社まではバス通勤だから、あまりのんびりしている時間はないけれど、朝のちょっとしたゆとりは、いつもの一日の始まりという感じがして、なるべく欠かしたくないことだった。

もちろん、あとちょっと‥‥って自分に言いきかせながら、ベッドでぬくぬくする時間も捨てがたいんだけどね。

パリっとしたバゲットは、このあいだバス停のそばにオープンしたばかりのブラッスリーで買ったもの。

こじんまりしたお店だけど、優しい感じの木の扉で、グリーンが自然な感じでディスプレイされてて、ちょっといい感じ、と思ってふらふらと店にはいると、店内もとてもやわらかい印象で、バターと小麦粉のいい匂いがして、レジの女性も(多分、お店の奥様だと思う‥)笑顔が可愛くて、ナミはひとめで気に入ってしまった。

パンもどれも美味しいけど、今のお気に入りはこのバゲット。仕事帰りにはほとんど売り切れてしまってるから、朝バスに乗る時にお店に寄って、取り置きしてもらうように頼む。何度か通ううちにもうすっかり、顔なじみになってしまった。

開店記念セールでもらった手作りのジャムも、すごく自然な甘さで美味しい。今度いく時は、忘れないでこのジャムを買わなくちゃ、と思いながら、ナミはカーテンの向こうに目を向けた。

窓からは、柔らかな日ざしが差し込んで、テーブルのマグを温めている。そっと覗くと、向かいの部屋は、しんと静まりかえっていた。

あれから、ずっと気にしていたけれど、向かいの住人はなんだかやっぱり得体が知れなかった。

平日だろうと休日だろうとおかまいなしに、てんでばらばらな時間に出て行っては帰ってくる。そうかと思うと、何日も部屋を空けることもあって、そのたびにナミは、わけもなくやきもきしてしまう。

ホント、おかしいよね私。

カーテンの影からそっとうかがっているうちに、外見だけは、だいたいイメージがつかめたような気がする。

背が高くて筋肉質っぽい体つきで、手も足も長くてでっかい。肩幅も広くて、いかにもスポーツマンて感じに、大股で無造作に歩く。頭はちょっと変わった緑色で、遠目に見た限りでは、鼻筋が通って、顎がくっきりとして、なんだかこわもてな感じだけど、声は低くてなめらかで、よく言えばセクシーと言えないこともない。

年は‥‥きっと私よりいくつか上、かな。あの鼻の長い相棒が、それぐらいな感じだったし、あ、でも、すごくえらそうにしていたから、ホントはもう少し年上なのかもしれない。

フリーターって年じゃないし、まともな仕事をしてるのかしら。

見かけだけは、うーんそうね、強いて言うならば、私の好みのタイプじゃないとは言えないけど。

でも。

浅炒りのコーヒーをすすりながら、ナミはぼんやりと向かいの窓を眺めた。

無造作に閉じられたカーテンは、ここ数日同じの形のまま。たぶんきっと、昨夜も帰ってこなかった。

なんだ、がっかり。つまんないわ‥‥と思った自分に気がついて、ナミは慌てて自らをたしなめた。

そう、なんで私、こんなにあの人のことが気になってるのかしら。得体の知れない男だから興味を持ってるだけ?‥‥声や姿がちょっと好みの感じだから、気になってるっての?

まともに顔を見たこともない男のことを、気にするなんて馬鹿げていると思うけれど、この遊びは自分にとって、ちょっと楽しくてドキドキする気晴らしになってるから、なかなかすぐには止められない。

自分でもいい加減にしようと、思うけど。

だって、もしよ。

もし、彼がすっごいおかしな顔とかしてたら、後でがっかりするじゃない‥‥ナミはわずかに顔をしかめる。

でも、なんとなく理由はないけれど、そんなふうにはならない予感がした。

これから何かがはじまるような、ワケもない、でも期待に満ちた予感。私ったらしょってるヮと頭を振ると、ちいさな鈴の音のようなきれいに澄んだ和音が、心の中にちりりと響くような気がした。




♪          ♪          ♪





暦の上で月が変わっただけなのに、2月になるととたんに空気が変わる。街がなんとなく明るく、華やかになって、少しずつ春が近づいてくるのを喜んでいるみたい‥‥空気はまだまだ冷たいのに。

そう思うのは、ナミの日常に訪れた変化が、なにがしかの浮き立つような気持ちをナミに与えているせいかもしれない。あるいは先日から街のあちこちで目にする、恋人たちの甘いイベントの予告のせいかも。

定期をかざしながらバスのステップを降りると、きゅんと冷えた空気が身体にしみるようだ。手袋をはめた手を合わせ息を吹きかけながら、ナミは会社への道を早足で歩いた。息はほんのりと暖かく、ウールの手袋を通してナミの手のひらを温める。

ナミの気分もそんなふうに、ほんわりと暖かくなっていた。

オフィスのあるビルのエントランスで、ちょうど向こうから来るロビンと出会った。

「おはよう、ロビン」

「おはよう、ナミさん。今日はずいぶん急いでいるのね」

ロビンはすらりとした体を柔らかい素材のコートに包み、いつものように落ち着いた歩調で歩いてくる。ナミはその隣に、少し足を速めて並んだ。

「そうなの、今日は朝一番から企画会議なのよ〜なのに、今朝はなんだかぼんやりしちゃって」

「あら、そんなこと言って。ナミさんのことだから、何日も前からちゃんと準備してるってわかってるわよ」

「それはそうだけど‥‥あ、エレベータ来たから行くわ。あ、と、今日ランチを一緒にどう?」

ええいいわよと笑うロビンに、お先にと軽く手を振って、閉まりかけたエレベーターに向かって小走りで走っていった。




この課に配属されてから3年。仕事の内容に不満はなかったし、課のメンバーともそれなりに上手くやれていると思う。企画課は小規模な課で、課長をはじめみんな根はいい人だから、和気あいあいと仕事ができていた。

今日の会議もいつものように、さしたるトラブルもなく、スムーズにナミの立案が通った。

男ばかりの職場だったが、ナミは仕事が好きだったし、まあまあ一人前の仕事をしている自信が(うん、まあ、多少はね‥‥)ある。

だから、この時期はいつも少しだけ、複雑な気分で迎えていた。

会社帰りのバスを降りると、あたりはもう完全に日が落ちていて、空気は朝と同じように身にしみる。でも、道をふちどるさまざまなショップや家々の照明が暖かくて、さほど冷たいとは感じない。

不思議なものね、とナミは思う。ほんのちょっと、誰かひとの暮らしている息づかいが感じられるだけなのに、それだけであたたかな気持ちになって、寒さまで和らぐような気がする。

そう、それから、このお店のせいもあるわ‥‥ごひいきのブラッスリーのまえで足を止めると、ナミはあらためて思った。今朝は急いでいたからパンを頼んではいないけれど、前を通るとなにか買わずにはいられない気分になる。

店のドアを開けると、ほんのりと甘い香りがしてナミは思わず微笑んだ。カカオとクリーム、ラムのやさしい匂い。

「いらっしゃいませ」

レジの向こうで、綺麗な女性がナミを見て笑った。すでに顔なじみになっている、この店の奥さんだ。

「こんばんは。ねえ、これ、とってもいい匂い。チョコレート作ってるんですか?」

「ええ、生チョコレートなの。バレンタインだから、今年は少しそういうのも置いてみようと思って」

「ギフト用の?」

「そう。主人はもともとそういう仕事をしていたの。よかったらひとつ試食します?」

「もちろん!」

試食用に並んだちいさなキューブ型のチョコレートを、そっとつまんで口に入れると、舌の上でやわらかく溶けた。ほんの少し苦くてまろやかに甘い。

「わっ、美味しい」

ナミが素直に賞賛すると、店の奥で作業しているご主人がちょっと顔を上げて、嬉しそうに笑ってくれた。

そうだ、今年はこれにしたらどうかしら。ナミは、ロビンとランチを食べながらした話を思い出した。

毎年この時期になると、いつも頭を悩ませるちょっとした問題。バレンタインデーに職場で配るチョコレートのことだ。

今どき義理チョコなんてはやらないと思わないでもないし、そもそも同じ業務をこなしている同僚なのに、なんで私だけがみんなに配りものをしなきゃいけないのかしらと、疑問にも思う。でも、課長にはやっぱりお世話になったお礼をしたいし、ここで投資しておけば後で2倍程度にはなって帰ってくるんだから、固いこと言わないで素直に配ればいいよねとも思う。毎年同じことを思いながら、結局毎年、ほんの気持ちばかりのちいさなチョコを配っていた。

なんだかすっきりしないものを感じながら。

うーん。課の中で女性が自分しかいないのが、いけないのかもね。

ロビンは秘書課だから、社長や役員連中にちゃんとしたものを配るのが決まり。全員で割りカン。別に悩むことはない。でも自分は、なんだかちょっと抵抗がある。

そう、それから、もうひとつ。

義理チョコ以外、渡す人がいないこと‥‥それがいちばん大きな、問題なのかも。

ホントに好きな人に気持ちを込めて渡すことができたら、あとの義理チョコなんてなんでもない。おおらかな心で、気前よくみんなに配ってあげられるってものよね。

そんなことを考えながら、ナミはトングとトレイを持ったまま、綺麗にラッピングされた生チョコの包みをぼんやりと眺めていた。

だから、誰かが店の中に入ってきたとき、最初は気にも止めなかった。

その誰かは、大股でざかざかと店に踏み込んできて、レジの向こう側で立ち止まった。

その無遠慮とも言える動きに眉をひそめて、ナミはあらためて振り向いた。その人はサンドイッチやベーグルのコーナーで、ぽりぽり頭を掻きながらパンを選んでいる。

こじんまりしたおしゃれなお店に不似合いな、おおきな背中と幅広な肩。ちょっと迷ったあと、無造作にパンを掴む無骨な手。

少しかしげた頭の色は、レジの脇に置かれたポトスと同じ、へんな緑色。




え?

誰?

もしかして。

待って待ってきっとまさか。




ナミは反射的に顔をそむけてうつむいた。棚の方に向き直ってチョコを選ぶふりをしながら、急に大きく鳴りはじめた胸の鼓動をそっと抑えた。

どうしよう。

こんなところで会っちゃうなんて。

こっそり顔を上げて向こうを窺うと、彼はちょうどレジの前に立って、精算をしているところだった。

奥さんが商品と代金を読み上げているのを聞きながら、彼は片手をジーンズの後ろポケットにつっこんで、財布を取り出そうとしていた。

細くはないけれどすらっとした感じの脚。ジーンズのポケットに骨張った指がいかにも窮屈げに押し込まれ、使い込まれた財布が引っ張り出される。

それにしても、焼きそばパンとかカツサンドとか、愛想のないものばかり買ってるわね。ホント、おしゃれじゃないんだから。

そんなふうに思いながらナミは、自分がうっかり人のおしりを凝視してしまってることに気がついて赤面した。だけど、視線を逸らすことができない。

まるで魔法にかかったように、トレイを抱えたまま突っ立って、彼が小銭を数えるのをじっと見つめていた。

お金を払ったら、もうすぐこっちを向く。

どうしようどうしよう。

こっちを向いてほしいけど、でも向いてほしくない。

どんな人なのか知りたいけど、でも知りたくない。

見たいけど、見たくないけど、でも。

どうしよう。もう、目を逸らすことができない。




「ありがとうございました」

精算が終わり、奥さんがお礼を言って商品を手渡すと、彼は黙ったままぺこっと頭を下げて、店のドアに向かった。体の向きを変えた時にちらりと横顔が見えた。

きりっと固い顎の線。たかい鼻筋、太い眉。

いやだ。胸がどきどきする。

どきどきして、きゅーっとして、ああもうどうしよう、どうしたらいいの。




「あれ?ナミさん、どうかしたの?気分でも悪い?」

奥さんが私を見て、びっくりしたみたいに声をかけた。

彼は、ちょうどドアに手をかけたところだった。ちりんとちいさくドアベルが鳴って、外の風が細いすき間からすうっと吹き込んでくる。

風に一瞬遅れて、その姿が振り向いた。

突っ立っている私の方を、ちょっとなにかに驚いたみたいに。

そして、まっすぐに目があった。




‥‥ああよかった。

素直にそう思った。

すごくほっとして、なんだかとっても可笑しくて。

風がドアベルを揺らして、ちりちりんと澄んだ音を響かせているのを、ただ聞いていた。

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