4月 attaca - PAGE - 1 2 3 4 5 |
1 にわかに、爛漫の春が訪れた! 冬の寒さが厳しかったぶん、春の気配が深まるのはゆっくりで、いつまでも気温は安定感を見せず、ふいに肌寒い朝があったかと思うと、歩くだけで汗ばむ午後もあり、ナミは毎朝、その日着るモノを選ぶのに苦労した。 しかし、気がつくといつの間にかそんな時期は過ぎてしまっていて、華やかに明るい、まごうことのない春のまっさかりが、ある日突然あでやかに咲き誇っていた。 公園の植え込みに咲き誇る、白く愛らしいユキヤナギ。すっくと立った白木蓮。鮮やかな紅色のヒメコブシ。 家々の玄関を彩る紫色のプリムラ。淡いピンクのアシビ。黄色いエニシダの群生。 川沿いの桜並木もいっせいに花開き、ピンク色のちいさな雲のように連なっている。風は、やわらかに甘い花の香りを、どこまでも運んでいく。 明るい日ざしとさわやかな空気が、肌に懐かしくなじみ、自然と窓を開いて外の空気を入れたい気持ちになる。 ナミは通りに面したカーテンを少しだけ開けると、やや遠慮がちに窓を開いてみた。 そのついでとでもいうようなしぐさで、向かいの窓に視線を向ける。 そこには、すでにもう慣れっこになった風景があった。 つまり、その窓は固く閉じられていて、相変わらず無造作に互い違いに引かれたままのカーテンが、部屋の主の不在を物語っている……こういうコト。 日曜だというのに、またどこかへ取材に出かけてしまってるのか……それとも、ゆうべ遅く帰ってきて、まだ寝ているのかも。 ナミは思わずちいさくため息をつくと、窓を思い切って大きく開いた。 手元の淡いオレンジのカーテンを揺らし、風が部屋の中をなぶるように流れ、キッチンの小窓から抜ける。 小窓に渡したカフェカーテンのポールが、窓枠にぶつかってからんと乾いた音を立てた。 その小気味よい音を聞きながら、ナミは部屋の掃除を始めた。 しばらく忙しかったので、部屋はかなり散らかっている。こんなじゃ、誰かを部屋に呼ぶことだってできやしない、と考えたナミは、頬を赤らめてあわててその考えを頭から振りはらった。 一日ゆっくりできる休日は、久しぶりだ。 ゾロがいないのはちょっぴりさびしいけれど、いつのまにか弾む心は抑えられない──だって、春なんだもの! さあ、いいお天気なんだし、今日はがんばるわよ──ナミは大きくひとつ背伸びをすると、おもむろにTシャツの腕をめくり、床に散らばった雑誌や衣類を、どんどん片づけていった。 ゾロに電話をもらったあの日の朝。 ナミはなけなしの勇気を振り絞って、サンジの車に名刺を残した。仕事用のものだけれど、携帯ナンバーも書き込んである。 あんなふうに不用心な場所にメッセージを残して、果たしてゾロが手に取ってくれるかどうか。 たとえ読んでくれたとしても、ナミに連絡を寄越すとは限らないし、最悪、そのままその場に捨てられるかもしれない。ある意味、賭けだ。 仕事の上ではずいぶん積極的になれるナミだったけれど、プライベートでこんなことは今までしたことがない。 でも大丈夫、きっと私の勝ち──特に根拠はないけれど、そんな予感があった。 そしてこういう予感は、ほとんどはずれたことがない。 ドキドキする胸を抑えながらナミはその日一日、デスクの脇に置かれた携帯を、常に意識しながら過ごした。 携帯に仕事の電話がかかってくることも時々あるから、いつもこうしてそばに持っているけれど、今までこんなに電話が待ち遠しかったことはない。 ゾロ、連絡をくれるかしら。 電話か、それともメールで? 今日…もしかしたら明日かも? 期待の気持ちが大きくなりすぎないよう自分を戒めながら、ナミは一日ずっと心の中で、ゾロからのメッセージを待ち続けた。 だから夕方になって机の上で携帯が小さく振動した時、むしろびっくりしてしまった。胸が苦しくなって頬がカーッと熱くなった。 震える指で取り上げて、部屋を出る。 どきどきしながら廊下の隅で確認した液晶のナンバーは、はじめての携帯からの着信であることを示していて、その時点でナミは、自分が賭けに勝ったことを確信したのだ。 なのに。 年度末の業務はことさらに多忙を極め、特に今年は課長のゲンの退職もあって、もうにっちもさっちもいかないほど、毎日が残業続きになってしまった。 ゲンさんがいなくなってしまうと考えただけで軽くパニックになるほど、いろいろと確認しておきたい事項が山のようにあらわれた。 特に「どすこいパンダ」のラインについては、ゲンの手によって生み出され成長してきたシリーズだけに、ゲン自身おおきなこだわりと自負を抱いていることをナミは知っており、今後もできるだけ彼の意に添うようなシリーズ展開をしていきたいと思っていたのだ。 3月はめいっぱい忙しく、部屋に帰って眠るだけといった日々が続き、ゾロとは、どこかに出かけるどころか、あれっきり会ってさえいない。 それまで、あんなにいろんなところで出会っていたのがウソのように、あの背の高い姿を見かけることもなかった。 あの電話、仕事中だったこともあって、具体的にいつどこで会うとか決めていなかったのも、いけなかったのよね。せめてあの時、いつデートするか決めちゃってれば…… そこで、ナミは思わずカップを洗う手を止める。口元に甘い微笑みが、ひとりでに浮かんでくる。 やっぱり、デート、になるのよね──単なるお礼の食事とかじゃなく。 ゾロと、デートする── そう考えるだけで、心はずむ期待と微妙な照れが、ナミの胸をいっぱいにした。 男とどこかに食事に出かけるぐらい、別になんということもない筈。ゾロと二人で美味しいモノを食べて、たくさんおしゃべりをする……きっと楽しいに決まっている。 それが「デート」だと思っただけで、こんなにも胸がはずむなんて。まるで高校生みたい。 くすりと笑うと、キュキュッと音を立ててカップを拭いた。うん、綺麗になった、と満足げにうなずくと、頬の遅れ毛が春の風にさらりと揺れた。 一段落ついたナミは、開け放った窓から身を乗り出すようにして、向かいの窓を眺めていた。 さらさらと髪をなぜる風が気持ちいい。どこからか、甘酸っぱい花の香りが流れてくる。とても気持ちのいい午後だ。ナミは目を閉じて、くんくんと空気の匂いを嗅いだ。 この香りは知っている……確か、沈丁花。きっとどこか近くの植え込みにでも、沈丁花がひと群れ咲いているのだろう。 そう、私が仕事でいっぱいいっぱいになっている間に、季節はすっかり春のさなかを迎えているのよ。 ナミは、甘い香りを含んだ風が、肌を通り抜けていく心地よさを楽しみながら、無性にゾロの声を聞きたいと思った。あの低くて感じのいい声を、聞きたかった。 せめて電話でいいから。 その時、頭の中で声がした──あら、そんなこと、簡単じゃない。だってゾロの電話番号、私の携帯に残っているんだから。 ナミは思わず振り向いて、テーブルの上の携帯を見た。 ひとすじの風がまた、さっきの花の香りを運んでくる──甘酸っぱい匂いはまるで、恋をしている心のよう。 ナミは携帯を取り、思い切ってキーを押した。一瞬の空白のあと、ベルが何度か鳴った。その音が鳴りやむと、わずかに遅れて低い声でいらえがあった。 『はい』 「あの、ゾロ?……私、ナミです。今、大丈夫?」 『ああ』 返事は短くて相変わらず無愛想だったけれど、その声には明らかに柔らかな寛容の響きがあって、ナミはホッとする。 「今どこにいるの?」 『今は……あー、泊まりの取材に出てる』 「取材って……遠くなの?」 ナミの言葉に含まれる落胆の思いに気づいたのか、ゾロの口調は少し優しくなった。 『まあな、でも明日には帰るから』 「そうなの…」 しばらく見ないと思ってたら、やはり仕事に出ていたんだ。 『帰ったら連絡する。悪いな、こっちから電話しようと思ってたのに』 「うん、待ってるね。気をつけて帰ってきて」 『ああ』 パタンと携帯を閉じると、ナミは安堵の息をついた。短い会話だったけれど、ちょっと緊張した。 嬉しくて、照れくさくて、胸がはずむ──こんな気持ち、なんだかとっても久しぶり。うきうきと踊り出したくなってきちゃう。 明日にはゾロが帰ってくる。そしたら、電話がかかってくる。 ほほえみを浮かべるナミの髪をまた、春の風がさらりと揺らせた。 「コビー!」 「はい!ナミさん」 コビーは企画課の新入社員だ…と言っても、今月からは2年目になるが。 しかし企画課は小規模な部署で、今年は新入社員が入ってこなかったため、今年も一年、彼が課の雑用係を一手に引き受けることは、すでに決定事項になっていた。 それを知った時はえらくがっかりしたが、すぐにまあ仕方ないと思い直した。 彼の先輩の女性など、彼が入社するまで数年間ずっと、ぺーぺーの役を務めていたのだから。 それで鍛えられたせいなのかどうか、その先輩──ナミさんは、いろんな点でかなりすごい女性で、コビーは彼女のことを恐れながらも、内心すごく尊敬していた。 コビーがデスクでのんびりハンバーガーにかぶりついていると、外でランチを取ったナミさんが、秘書課のロビンさんと一緒に帰ってくる声がした。 なんだか二人とも、とても機嫌がいいみたいだ。ナミさんがなにか嬉しげに話していて、それをロビンさんがにこにこして聞いている。 「それでね、それがとてもいい匂いだから、どこに咲いているのか探してみたの」 「そう」 「そしたら、お向かいのアパートの入り口のところでみつけたの……ほんの小振りな枝なのに、私の部屋まで香りが漂ってくるのよ。びっくりしちゃった」 「あら」 ロビンさんが意味ありげに口を開いた。 「それって、例のお向かいの建物?」 「え?、あ、そうだけど…」 ナミさんがどぎまぎしたように答え、ロビンさんはいっそう楽しげに微笑んだ。ナミさんが花の話をするなんて、珍しいなとコビーは思った。 「もうすっかり春ですものね♪」 「そんなんじゃないの!……ロビンったら、あの時はあれっきりだったの!あれから会ってもいないんだから」 「そうかしら?…それにしては、ご機嫌よ、ナミさん」 ロビンさんが笑いながらひらひらと手を振って、秘書課の方に去っていくと、なんだか顔を赤らめたナミさんがコビーの方を向いた。 突然いつもの仕事モードで話しかけられ、ぼーっと眺めていたから、驚いてコーラを吹くかと思った。 「コビー!」 「はい!ナミさん」 「例の送別会の件、どうなってる?」 「あ、はい!…えーと、それが思ったより出席希望者が多くて…人数オーバーにならないかと」 「そう、さすがはゲンさん。やはり人徳でしょうね」 「そう言えば、あの、社長も直々のご出席を希望されてるんですよ」 「ゲンさんは、創社当時からの社員ですモノね……さもあらんだわ。で、どれぐらいになりそう?」 「はい」 コビーが出席希望者のリストを見せると、ナミさんの眉が軽く曇った。 「うーん、ちょっと多いわねー。わかった、私がバラティエさんに交渉してみるわ」 「お願いしますよ〜」 さすがナミさん、困った時は、やっぱり頼りになるなあ。 コビーがホッとしてリストをナミさんに預けようとした時、突然、ナミさんの表情がさっと変わった。さっきロビンさんと話をしていた時の、あの柔らかい表情だ。気がつくとナミさんのスーツのポケットから、携帯電話のマナー音が響いていた。 「わかった、その件は私に任せて」 ナミさんはそう言うと、リストをコビーの手からひったくるようにして、慌てて部屋を出て行った。 『ナミか?』 「はい、私!」 電話から、ゾロの低い声が流れてくる。ナミはちいさく叫ぶように答えた。 「ゾロ、お帰りなさい」 『まだ帰る途中なんだ。これから社に寄ってから上がるんだが』 「なんだ…そうなの」 勢い込んだ気持ちが、ちょっとくじける。 『それで、急なんだけど、会えないか?。明日……いや今日、今日がいい』 「え、今日?」 驚いてナミは聞き返す。ゾロはこともなげに答えた。 『ああ』 「だって、いま会社よ」 『何時に終わる?、その時間に車で迎えに行く』 待って待って──ナミはうろたえてしまう。そりゃあ早く会いたいとずっと思ってたわよ、でも今日すぐになんて。 「うーん、今日は定時にあがれると思うけど……でも」 心の準備が……なにも準備が出来てないわよ。ナミはちょっと泣きたくなった。 『定時って、5時でいいのか?、会社の場所を教えてくれ』 「えーと……」 社の住所とおおまかな目印になる建物を伝えながら、ナミはいつのまにか今日のデートを、承諾することになってしまっているコトに気づいた。 ゾロは、遅れるかもしれないがその時は連絡すると言って、電話を切った──どこに行くとも、何をするとも言わないまま。 ああ、どうしよう。 何の準備もできてない。 でも──会いたい。ゾロに。 そう、やっと会えるのよ。それも今夜すぐに! うろたえる気持ちは、いつの間にかどこかに消えてしまった。ナミは足どりも軽く、午後の業務に向かった。 そう言うことなら、一刻も早く仕事を終わらせなきゃだわ!──まずは、バラティエさんに電話ね! そしてその日の夕方には、ナミは、黙って車を走らせるゾロの隣に座っていた。 |
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