8月 arpeggio - PAGE - 1 2 3 4 5 |
1 「何でこんなことになったのかしら」と呟こうとしてやめた。 部屋の窓を開ければ眼下には白い浜辺と青い海という一枚の名画のような燦然とした光景があり、ナミの不満を吸い取ってしまったのかもしれない。 海からの風は潮の香りを届け、それだけでナミの機嫌をこの上なく良くした。 水色の絵の具で塗ったような空に大きな積乱雲が立ち上っている。 海鳥の声が遠く揺れ、細波の音と相まって合奏している。 このペンションは浜辺脇にある小高い崖の上に作られており、内装は窓から見える景色を引き立てるためか落ち着いた色のインテリアで統一されていた。 ただ一つ、書机の上には赤いランプが置かれていて、それがまた良いアクセントとなっていた。 「なかなかいい場所知ってるじゃない、あいつ・・・」 もしもこの部屋が落ち着いた色だけでは、せっかく海まで来てる心も落ち着いてしまう。 真っ赤なランプが非日常に居るのだという思いを強くさせる。 わくわくしている気分が、さぁ海にでも行こうかしら、それとも美味しいご飯を少し早いけど食べようかしらと思わせる一室に、ナミは愚痴をこぼすことも忘れてしまった。 「ここまで来ちゃったら仕方ないわよね。」 何だかこれって、恋人と初めての夜を過ごす女のために用意された言葉としか思えないけど。 コンコン、と礼儀正しくノックされたドアに「はい」と返事した。 かちゃりと開けられたドアの向こうから、そばかすに笑顔を浮かべた男が顔を覗かせた。 「海まで行くか?」 「・・・・・エース、私が怒ってるって思わないの?」 「怒った顔も美しいねェ」 「んもう、話になんないわ!」 「わざとじゃねェって。」 「どうだか。」 それでも海からの潮風は気持ちが良いし、ずっと歌ってる波音が早くここまでおいでと誘う。 ナミは麦藁帽子と部屋の鍵を手に取るとおどけた調子でドアマンを気取るエースへと向かって歩き出した。 それはひどく心地良い朝だった。 その朝だけではないのだが、最近ナミは目覚める時に甘い夢を見る。 夢なのか、それとも願望なのかは定かではないけれどふわふわした枕に支えられた頭で、今朝も暑くなりそうだと思いながらも、夏の朝の涼しさを与える湿気を保つ空気にナミはくすんと鼻を鳴らして瞳を開けず、甘い夢に身を委ねる。 あの日、バス停でこの手の触れたゾロの熱に、なんだか掌がくすぐったく感じ、瞳を閉じたままで手を握り締める。 きゅうっと握ってゾロ、と呟いてみる。 ゾロ。 ゾロ。 一人、ベッドの上で何度か繰り返してから(やだ、何やってんのよ)と夢見心地から突如意識は引き戻され、それでもなお胸には幸福感が満ち溢れている。 咳払いのような吐息を落としながらシーツの上、起き上がって寝乱れた髪を手櫛で梳き、けれどナミは彼を待てる自分がいることも、彼がくれたお菓子が甘かったことも、それから誕生日を覚えていてくれたこと、その全てが愛しくて愛しくて仕方がないから、堪えきれずにふふっと笑う。そしてようやく会社に行こうとベッドから立ち上がるのがゾロと会って以来のナミの日課だった。 ゾロが仕事が忙しいというのは真実らしく、もしかしたら家に帰ってきているのかもしれないが、少なくともナミと同じ生活時間帯で行動しているとは思えない。 7月の誕生日以降、彼と言葉を交わしたのはバス停で会った日と、それからゾロが7月末に出張に行く前に、家に荷物を取りに来て偶然出勤するナミと道で会ったのだ。 もしも通勤する人たちが同じ道に幾人もいなくて、そこが夜の道で誰の目もなければ、彼に飛びついていたかもしれない。 互いに「あ」と小さく漏らし、ナミは次の言葉がどうしても思い浮かばず自分を見下ろすゾロの視線に何故か恥ずかしくなりそっぽを向いた。 するとゾロはナミの服の、その裾をついと軽く引っ張って彼女の気を引くと、「今日からまた出張だ」と言った。 長く会っていなかったナミに対して、それだけの言葉しか出ない男は不器用過ぎる。 けれどナミは「そう。気をつけてね。」と返した後に、彼を見て笑った。 ゾロも戸惑った表情をうっすらと浮かべた後におぅ、と笑ってすぐさま自分の家へと向かった。 よほど時間がなかったのだろう。 もしかしたら、角に見えている車からウソップというゾロの同僚が自分たちをじっと見ていたからかもしれないけれど、それにしても素っ気無い。 けれどナミは幸せだった。 一言、二言だけの会話でその後も毎日が幸せだった。 8月の空は青く高く、白い雲はもくもく浮き上がってご機嫌だし、日中に吹く風は陽射しの中気持ち良い。 なんでだろう。 デートしたわけでもないし、抱き合ったわけでもない。 手が触れただけとか、服の裾を引っ張られただけとか、たったそれだけのことなのに心がとても軽い。 こんな気持ちでナミは夏を迎えたのだから、お盆に予定されていた社員旅行もきっと楽しいものになると思っていた。 それが、まさかこんな結果になるなんて。 ナミは白いペンションの玄関を潜ると、アスファルトの輪郭を揺らすほどの陽射しの中で無邪気に手を振った男に心中呟かずにはいられなくなった。 何故か今、自分はエースと一緒にいる。 それも二人きりでいる。 夏の海辺のペンションで男と二人きり。 ──なんて、ゾロに言えないような状況に今自分は居る。 社員旅行は確かに海へ行く予定だった。 水着も持ってきていたし、この目に映る光景は青い海と輝く砂浜とかもめの鳴き声が遠くから聞こえて、ペンションの脇の雑木林からは蝉の声が聞こえて、避暑地そのものだが、ナミとエース以外の他の社員は誰一人も見当たらない。 今朝に遡る。 集合時間は10時、2泊3日ということもあって、集合時間はそれほど早くなかった。 社員旅行と言っても、全員が旅行に出てしまっては何かあった時に正社員が一人もいなければ困る。 なので、それぞれの部署内で旅行の日程を調整しようというもので、去年も同じ場所に行ったから今年はコビー一人で手配した。 今頃はその避暑地、ココヤシ海岸に居るはずだった。 それがどうしたことかココヤシ海岸とは遠く離れたシロップ海岸に来ている。 今朝、集合場所に向かおうとするとエースから電話が入った。 車で来ているから、一緒に行こうと言うのである。 窓から覗けば、たしかにエースの黒い車がマンションのエントランスにぴたりと寄せられていた。 集合場所の駅までバスに乗っていくより、エースの車の方が楽だ。 ナミはすぐさまわかった、と電話を切って旅行鞄を手に家を出た。 普段は会社に着ていくことのないワンピースを身につけたナミを見てエースは嬉しげに軽く口笛を鳴らすと、上機嫌な態で車を走らせた。 その車が集合場所の駅ではなく高速道路に乗っても、あぁでも、車の人は現地でも役に立つから車で直接現地へ行くことになっているし、自分は車がないから電車組の予定だったけど、エースはこんなに自信満々に運転しているから他の人にももう私と一緒に行くことを言ってあるのだろうと思った。 だから、それはいい。 またコビーが挙動不審になるぐらいで、実際に私とエースの間に何もなければ、堂々と現地で皆と休暇を楽しめばいい。 (だけど!) おかしいと思ったのは高速に乗って暫くしてからだ。 何か、違和感があるような───そう、東に向かっているのだから、まだ午前中のこの時間なら太陽の陽射しが直接当たるはずなのに。 ナミは後部座席を慌てて見やって、後ろから差し込む光に確信した。 エースの車は、まっすぐに上機嫌に自信満々のスピードでもって、西へと向かっていた。 ──エース、どこに連れていくつもり? ──うん?シロップ海岸だろ? (まさか、エースが目的地自体を勘違いしてるなんて思わなかったのよ) だっていい社会人が。 いい社会人がよ。 どうやって社員旅行の目的地を確認せずにこんなに自信満々に車を走らせるのよ。 コビーと打ち合わせしている時に、エースが会話に入り「あぁここか」と写真を見て頷いたからてっきり場所を知っていると思った。 写真を見て、自分の知っているシロップ海岸が目的地と思い込んでいただけのことだったんだ。 (確認しなかった私も私かしら。ううん、でもだって、絶対に聞けないわよ。こんなに自信満々な人がまさか目的地を勘違いしてるなんて思わないじゃない。) 目的地はココヤシ海岸だと言うと、エースはその地名に聞き覚えがないらしく、そうか?と首を傾げて車を停めようとしない。 散々ナミが助手席から口を出してもエースは曖昧に返事をするだけで結局シロップ海岸に着いてしまった。 頃合は昼だった。 今からココヤシ海岸に向かおうとすれば無理な距離というわけでもないが、エースは運転に疲れたと自分がよく知るペンションへと車を向け「ここまで来たんならいいんじゃないか、ここで」と言ってのけた。ナミは運転をしないから、そう言われるとそれ以上、今日中に皆と合流するという案を主張するわけにはいかない。 エースお勧めの白いペンションは森と海の間で木陰に隠れるようにひっそりと佇み、真夏の盛りだと言うのに宿泊客も少ないようだった。このシロップ海岸が車以外で来れない場所というのもここが穴場である一つの原因であろう。 エース曰く、雑誌の取材は断り、もちろんテレビでも紹介されていないし、老夫婦が細々と知人と数少ないリピーターのために経営しているペンションだということだった。 そのペンションに入り、ロビーに置かれたアンティークの椅子に座り、まずナミの頭に、まずココヤシ海岸のペンションで今頃集まっている仲間に連絡を取らなければいけないということが浮かんだ。 キャンセル料のことも浮かぶ。 新幹線のチケットはコビーが持っていたはずだけど、エースがもし私と一緒に車で現地に行くということを伝えてあれば、元々自分の分のチケットは用意されてないはずだ。良かった、お金を無駄に使う羽目にならなくて、とコビーに電話したところ、コビーは「電車代はいいんですけど」と言った後に沈黙してしまった。 何よ、とナミが尋ねて初めて「あ、いえ、あの、お二人のことは他の皆さんには内緒にしておきますから!」と口早に言って宿泊料金のキャンセル料のことなど一切構わず電話を切ってしまったのだ。 つまり、コビーはナミとエースが、ナミの本意でないにしろ二人で別の避暑地に来ているという事実にナミにとってこれまた不本意な想像をしたに違いない。 既に通話が切られた電話に向かって勘違いしないでよ、とこぼしたナミの姿にエースはコビーがどんな対応をしたのか予想がついたらしく、ははっと笑って部屋の鍵を手渡してきた。 ──悪い悪い。 と、笑う。 とにかくこの男は強引だ。 強引だけど憎めない。 だって、そんな満面の笑顔で言われたら、許さない自分が悪いような気がしてしまう。 その上、海からの風はすこぶる気持ちが良く、せっかくここまで来ていらいらしていたら損するだけだとでも言いたげに頬を撫でていく。 そこで、ナミは今日は仕方がないと自分に言い聞かせることにした。 明日朝一番に帰るか、エースが運転できるというならここからココヤシ海岸へ行けばいい。 エースには念を押さなければ、と歩き出した自分を見て、自らもまた海岸へと歩き出したエースの後姿を見て決心した。 ゾロには何て言おう。 ・・・別に言わなきゃわかんないわよね。 でも言わなかったら悪いことをしているみたい。 じゃあやっぱり言うべきかしら。 電話して・・・ 電話して、なんて言うのよ。 今エースと二人で海に来てるって言うの? そんなの、駄目。 余計な誤解が生まれちゃうだけ。 かと言って日数を置いてしまったらそれはそれで後ろめたいことをしているんじゃないかと思われそう。 それなら、今すぐにでも電話した方がいいの? (どうしよう・・・) 鞄から出した携帯電話を手に、さらりという音が聞こえそうな白砂の上でふわふわ歩いて、結局困り果ててナミは浜辺でしゃがみこんだ。 電話を持ったままで海を見る。 この海は旅行客がそんなにいない。 地元の子供なのか、小学生ぐらいの男の子が三人意気揚々と声をあげ、水飛沫をあげ、泳いでいる。 ビーチパラソルの下で自分と同じように水着も着ていない女性が本を読んでいる。 あとはぽつぽつと旅行客だろう海辺で思い思いに楽しむ家族連れや恋人。 それでもひっそりと佇むこの海は尚も静けさがある。 人間に静けさを取り戻させると言う方が近いかもしれない。 いい場所よね。 本当にいい場所だわ。 何で今、エースとここに来てるのか不思議なくらい、いい場所だわ。 エースはいつの間にか水着になっていて、三人の男の子たちと遊び始めていた。 そりゃ、私だって楽しまなきゃ損だと思うわよ。 けど楽しんだら楽しんだで、きっと罪悪感が湧く。 「ご旅行ですか?」 ふと気付くと、読書をしていた女性が顔をあげてナミを見ていた。 白い浜辺に陽射しが照り返しているからではなく、彼女の肌は相当白い。 「ええ、まぁ・・・あなたも?」 「えぇ、一人で来たんですけど」 彼女は肩より少しだけ伸びた金髪を揺らしてふっと俯くと、頬を僅かに桜色に染めて「彼が」と小さく言った。 「仕事でこの近くまで来ることになって、仕事が終わった後にここで待ち合わせしようって言うものですから・・・彼がこの海岸を私に見せたいって・・・」 幸せなんだろうな。 付き合い始めたばっかりかしら。 誰かに言いたくて仕方ないのよね、きっと。 三人の子供たちに囲まれて海の中から私に手を振るエースと、それに渋々と手を振り返す私と、きっと恋人同士に見える。 だからこの子も私とそういう話ができると思ったのかもしれない。 「別々に旅行先に行って待ち合わせっていいわね。」と言うと、彼女が嬉しそうにこくりと頷いた。 (もっとも、私のこの旅行は、好きな人に会いたくない旅行になっちゃったけど・・・) 「あの?」 自分の溜息に、金色の髪をもう一度揺らして彼女が小首を傾げたことに気付き、ナミは咄嗟に「あなた名前は?」と話題を変えた。 「カヤです。あなたは?」 「私はナミ。どこに泊まってるの?」 カヤと名乗った女性は華奢な指で木陰に佇む白いペンションを指差した。 「同じだわ!ねぇ、それならあなたの彼が来るまでお喋りしない?」 「え?でも、ナミ・・・さん、彼氏・・・」 「あいつは彼氏じゃないの。ね、お願い!あなたの彼氏が来るまででいいから!」 ぱんっと手を合わせて頭を下げると、カヤは不思議そうにナミを見た後で、自分も暇を持て余していたからか、それとも今夜到着する彼への想いに期待が膨らんで誰かにそれを喋りたかったのかはわからないが、「嬉しいわ」と微笑んだ。 良かった、エースと二人きりになる時間は少しでも減らした方がいい気がするから。 嫌いなわけじゃないんだけど。 嫌いなわけじゃないから、警戒してしまうのよ。きっと。 ナミは大きな安心感を胸にありがとうとカヤに笑いかけると、また手を振ってきたエースに身振りで傍らに座る女性とペンションに戻る、と伝えた。 波音の狭間、エースはわかったと再び、大きく手を振っていた。 |
NEXT >> back to top |