6月 loco      - PAGE - 1 2 3 4 5
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彼は日記をつけている。

小学生の頃に母が一行でも良いから書きなさいと言った。
当時、少年は深く考えることもなく母がそう言うのならばと素直に頷いて、中学、高校と進む頃には既にそれは習慣と化していた。

年齢と共に日記は一冊のノートから手帳へと変わり、今は携帯電話から書き込めるブログを使うことにしている。
友達や上司は誰一人として知らないし、ましてやアクセスがあるなどとは毛頭考えに入れていない。そもそも公開していないのだから、閲覧する人間もいない。
母に言われて付け始めた日記は、けれども、習慣であるとは言え、今では一年後、三年後、それよりずっと先にふと思い立って読み返したとき、案外自分自身が楽しめるものだということを知っているから、コビーはなるべく一日に起こったことを簡潔に、日記をつけている。

『新年度。新入社員はやっぱり来ないみたいだ。今年もナミさんにしごかれるのは僕一人だ。がんばろう。』

『今からゲンさんの送別会。感慨深いのは僕だけじゃない。皆仕事を定時に終わらせた。』

『GW最終日。結局家の手伝いに草むしりをしただけだった。映画でも観に行けば良かったかも知れない。』

大抵、呟きのような日記で終わる。
それでも寝る前に布団に入って携帯電話を手に取ると、何か書かなければいけない気がしてくる。
自分でも起伏がある生活を送っているとは思えないけれど、コビーはこの時間をひどく気に入っていた。
その日一日を短文であるとは言え、文字にして残すと自分の中でも整理が付かなかった疑問が突然頭の中で明確に浮かび上がったり、改めて自身がその瞬間に何を感じたかを気付かされる。

だからコビーはどんな苦痛を受けた日も、どんなに高揚している日も、変わらず簡潔な日記を書くことを好んでいた。

だが、ここ数日、しばしば文字を打つ指の動きが止まることがある。

コビーは困っていた。

自分が十五年も続けてきたこの一日を記す作業に、これほど時間を掛けるということはなかった。
毎日、ああこうじゃない、と書き直す。
だけど新しい文章を打っている途中で、この文章は、僕の日記として正しいんだろうかと悩む。だから手が止まる。

今日もまたコビーは布団に寝転がったまま携帯電話をじっと見て、考えこんでいた。

(僕の日記になってないな・・・)と、内心で溜息をつく。

ビープ音を消した携帯電話の小さなボタンをカチカチと押して少し前の日記を読み直してみた。

『5月が始まった。新しい課長はとても明るい。すぐに部署に馴染みそうだ』

『ナミさんに叱られた。最近不機嫌みたいだ。でも僕もミスしたんだからしょうがない。』

『エース課長の話が楽しくて聞いていたら、ナミさんに仕事中だと注意された。休憩中だったんだけどな。』

『課長はナミさんにだけ意地悪なことを言うから、僕が八つ当たりされる。』

5月の終わりあたりまで読んで、コビーは、心の内でついていた溜息を今度は電気を消した暗い部屋で響き渡るほど大きくはっきりと、はぁ、と漏らした。

ナミがGW明けに少し不機嫌だったことは知っていた。
ずっと直接の上司として同じ仕事に携わっていた先輩だ。
いくら笑顔を見せても、コビーを努めて冷静に指導しても、機嫌が良い時と機嫌が悪い時ぐらいは見分けられるようになった。
それでいて尚、ナミという上司が気分にムラがあると思わなかったのは、自分が気付くのは飽くまで彼女のちょっとした語尾の違い程度で、ナミ自身は仕事上でその喜びや苛立ちを出そうとしなかったからだ。むしろ、そんな先輩を尊敬の目で見ていると言っていい。
だからGWの後にナミが不機嫌かもしれない、と思ったとしても、コビーが大してそれを問題と思うことはなかった。
新しい課長が来る前に、ナミがぽつりと漏らしていた言葉を覚えていたのだ。
ナミはゲンが礎を作ったこの部署を、新しく入った課長が【駄目な部署】と思うことだけは避けたかったのだろう。
コビーとコーヒーを飲んでいる時、「頑張んなきゃね。ゲンさんの弟子として」と冗談なのか、本気なのか、笑みを含む溜息を混じらせて言った。

当初、ナミが5月に入って初めて仕出かしたコビーのミスを叱り飛ばした日は、こんな理由があったから、コビーは深く反省した。
仕事をしている中でミスしないようにするというのは当然だし、もし、してしまってもナミは口煩く言いながらやはり連帯責任で自分の尻拭いをすることになる。社会人になって、どれだけナミの世話になったかと、一度ミスを仕出かすと途端に頭の中にぐるぐると今までの失態が回りだして、コビーは翌日から懸命に仕事に取り組んだ。
取引先との電話応対の一語一語にも気を遣い、企画書はナミが指定するよりも早く、且つ、慎重に仕上げた。

5月も終わりになった頃には、疲れは溜まっていても、頑張れば僕にも出来るんだとようやく自信を取り戻しつつあった。

そんな折、休憩室でコーヒーを飲んでいるとエース課長が入ってきた。

エース課長とはそういえば、あまりに仕事に夢中になってしまったために、こうして気を抜いている時に二人きりで話す機会がなかった。
慌ててしゃきっと背を伸ばし、お疲れさまです、と威勢よく頭を下げると、コビーが手にしていた紙コップから熱いコーヒーがフロアに飛び散った。

新しい課長が肩を竦めたから呆れられたのかと、コビーは恥ずかしくなって、小走りにロッカールームまで行くと、思い切り良く雑巾とバケツを手にした。早く片付けなければとそればかりが頭の中に在った。仕事の事でも、ナミの補助の仕事を任されることが多い自分と課長が話す機会はそうそうない。

コビーは自分から話し掛けることを恥ずかしがる気性ではあったが、好奇心がないわけではなかった。

だから、課長がどんな人かということは気になっていて、何度かナミにもどんな人でしょうかと訊いたけれど、どうも機嫌がよろしくないナミは「その内わかるわよ」とだけ言って、話に乗ろうともしなかった。

その課長の人柄を知る機会を、自分自身が壊してしまったのだ。
元々、そういった自分のあがり症が嫌いだと言うのに、大抵こういった場面ではそのコンプレックスが邪魔をして声は裏返るし、次の行動のためにどんな事態になるかと予測することも忘れる。社会人になっても、成長していない自分があまりに頼りなく、コビーは休憩室に戻った瞬間「すみませんでした」と言うなり、眦を手にしていた布で拭こうとした。情けなさに涙が出そうになったから、そこまで失態を見せるわけにはいかない、と咄嗟に手を上げたのだ。

───おいおい、それで拭くのか?

課長は呆れているとは思えない、軽快な調子でそう言った。

その言葉にはた、と我に返るとコビーは手にしていた布が、雑巾だとようやく思い出した。

エースは何度も謝るコビーを暫し、面白そうに見ていたけれど、結局掃除も手伝ってくれてまだ少し残っている休憩時間をコビーの気を紛らわせてくれようとしたのか、以前旅行した国の話を話して聞かせてくれた。海外旅行を経験したこともないコビーにしてみれば、その話があまりに楽しくて、この課長ともっと親しくなりたいと思わせるに十分な時間だった。

そこへナミが現れて、まだ休憩時間はあと数分あると言うのに、叱られてしまったのだ。
物怖じもせず、課長もまとめて「二人とも、休憩終了5分前には席に戻っておかないと、時間通りに仕事が始められないでしょう?」と叱り飛ばすナミに、エースはまた肩を竦めた。これは彼の癖らしい。

こそりと潜めた声で「怖いねぇ」とコビーに耳打ちしてきたエースは、彼の役職を微塵も感じさせなかった。

だからコビーはつい、深く考えもせず「怖いけど、今だけだと思います。」と、ナミが最近不機嫌であることを教えた。

「顔には出さないけど、今少し不機嫌みたいなんです。」

「へぇ。いいな、部下に慕われる女上司。」

「ナ、ナミさんが女性・・・女性として、とか、僕は・・・その・・・あんまり考えたことはありません、けど・・・」

「そりゃもったいねェなァ。あんな美人なかなかいねェのに。」

仕事関連の話以外で初めて話すというのに、エースは恥ずかしげもなくそう言い放つと、ずっと先をすたすたと歩いていくナミの背を見詰めていた。

その日から、仕事中、ナミの手が空いた隙にエースがどうもナミの機嫌を損ねることが多くなった。

初めは少しだけ眉を潜めた後に、だけど顔を上げてエースに「何ですか?」と返事をする時には既に満面に笑顔を作っていたナミも、いい加減無視を決め込むようになったのは、傍から見ていたコビーにしても仕方ないと思えるものだった。

例えば、昨日の昼のことだ。
ナミがコビーに先に昼休憩を取ってきていい、と言ったから、コビーは礼を言いながら席を立った。
その瞬間、エースが窓際の自分の席から「おーい」と手招きをした。

部署には数人が残っていたが、明らかにナミと自分に向かって手招きしているから自分たちの内どちらかを呼んでいることは明確だった。
座ったままのナミと目を見合わせる。
おそらく、ナミもまた自分と同じことを考えているのだ。

「どうせまたくだらない事言うつもりよ。あの人、時間が出来たらすぐ暇潰しに私を使おうとするんだから。コビーは早くお昼行ってきて」

「暇つぶしなんて・・・ナミさんのことを気に入ってるんだと思います」

あの日エース課長がナミさんのことを美人だと言っていたからという単純な理由だけど、エース課長はそういう人だと思うんだ。気に入ったからナミさんに声を掛けているんだけだと、思うんだけどなぁ・・・そりゃ少し、ナミさんが課長にからかわれるだけと決め付ける気持ちもわかるんだ。
課長、わざわざ呼びつけたかと思ったら「空が青いと思わねぇか」って言ったり「あそこの喫茶店の壁に掛かってる写真、いいよなァ」って言ったり、とにかく仕事と一切関係もなければ、ナミさんがその度に詳しく考えて返すまでのことでもないような、そんな話題ばかりで、僕としてはハラハラしてしまう。

「社長が引き抜いてきたって言うからどんな人かと思ったのに・・・」

「で、でも!エース課長になってから・・・なってから・・・───」

なってから、何も起きていない。
大きなトラブルも、クレームもない。
部署をまとめる者が変わるのだから、僕たちは皆多少の緊張感を持って5月を迎えたけれど、業務はいつもと変わりなかった。
前月と変わらずにスムーズに仕事が出来る、ということ自体がエース課長の能力だと思うのだが、ナミにどんな言葉で説明すれば良いかがわからない。
つまりは何も起きてないから、彼は有能だと言いたいのだけれど、これはナミの耳にそれはことなかれ主義だと一喝されて終わりかも知れない、とコビーは考えあぐねた結果「いえ、何でもないです。行ってきます。」とナミに頭を下げると、企画部の出入り口へと歩いていった。

背中には、「コビーを呼んだつもりだったんだけどな」と、いたずらっ子のようなエースの声が聞こえた。


そして今日の日記を書く時になって、コビーは深く溜息をつかざるを得なかった。

書きたいことは山ほどある。

とうとうナミがエースに怒ったのだ。

いい加減にしてください、じゃなくて、いい加減にしなさいよ、と立場をすっ飛ばした怒り方だったから、表面を繕う術を知っているナミにしては珍しい。

エースは仕事の後に「やっぱり怖いな」とコビーに囁いてきた。

だけど、コビーはエースのその軽い声音に、ナミが負けたような気がした。

ナミはずっと部下として傍に居た自分にも不機嫌だろうと笑顔を作るし、この社内では美人秘書の誉れ高いロビンの前か、もしくは退職していったゲンの前ではあまり自分を隠すことはないのかもしれないけれど、それにしても入ってきたばかりのこの課長の前で自身を顕にしたことにコビーは驚いた。

ナミはいくら不機嫌に思える日でもコビーが大きなミスを仕出かしたとしたら、上司として接する。

それは他の誰に対してもそうだった。

彼女に比べて、怒られたはずのエースがこれまた機嫌良く「今日はいい酒が飲めそうだ」なんて言いながら帰って行ったから、コビーは頭の中がきゅうきゅうになりそうなほど考えこんでしまった。

ナミが変わったのか、エースがすごいのか、とにかくこの二人のことで頭がいっぱいになった。

そして今日の日記を書こうとした時、コビーはいつもより長くボタンを押した後で、(これは僕の日記じゃないじゃないか。)と布団の中で呟いた。

これじゃ、エースとナミの日記だ。

二人のことばかり書いている。


しばらく前月の日記を何度も読み返して、今日の日記の書きこみ欄を開き、けれどもまた文字を打っては消し、と何度も繰り返す。

次第に眠気が襲ってきて、コビーはふわぁと欠伸をした。

「うん、僕の日記なんだから」と、一人、言い聞かせると、コビーは短く何かを打って、携帯電話をようやくパタンと閉じた。
ずっと操作したままだった携帯電話は手の中で熱い。
充電器に置いて、めがねを外す。

明日は何もありませんように、と願いながら瞳を閉じた。



『今日から六月が始まる。』



どんな六月になるだろう、と不安があるにはあるのだが、コビーにしてみればエースもナミも嫌いではないのだから当然期待が入り混じる。

二人のことを考えている内にいつしか眠りに落ちた。

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