12月 andante      - PAGE - 1 2 3 4
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――― 一緒に来てほしい

その言葉は日を追うごとに私の中で重さを増していく。
ゾロは、私と離れたくないと思ってくれていると。
この世でたったひとり、私を選んでくれたと。
それは私に無上の喜びをもたらしてくれた。

それに応えたい。

いえ、応えなくては。

物語でも映画でも、ここはついて行く場面じゃない?

それなのに迷う私は、薄情な女だろうか。



ゾロが明日からまた取材旅行に出掛けるという夜、仕事帰りのナミは偶然にもゾロと同じバスに乗り合わせた。
思えば、このバスの中で二人は最初に言葉を交わした。しかしそれ以降、こうしてバスの中で鉢合わせることはなかった。今夜の出来すぎた偶然はドラマチックでこそばゆくも嬉しくて、自然と二人の気持ちを穏やかにした。

バス停を降りてからは、あの頃には考えられなかったことだが、どちらからともなく手を繋いで歩く。
冬の夜空は高く澄んでいる。他のどの季節よりも星々が綺麗に見える。
キンと空気が張り詰めていて、吐く息が白い。
そんな中でも手だけは温かくて。ほのかな幸せを噛み締めずにはいられない。

家の前まで歩いてきて、今日はどっちにする?と問いかける。
ゾロは素っ気無く、お前んちと答えた。風呂がキレイだからとかなんとか。
その言葉通り、ゾロはナミの部屋に着くなりバスルームへと消えた。
どうして家主よりも先に入るのよと少し怒った振りをしつつも、内心では自分の家のように馴染んでくれてることが満更でもない。

食事を終えて、ナミが台所でコーヒーを淹れて戻ってくると、ゾロはナミのベッドを背にして座っていた。コーヒーを載せた盆をラグの上に置いて、ナミも並んで座る。
すると、おら、と白い包みを手渡された。
何?と訊いたら、クリスマスプレゼントみたいなもんだ、ちょっと早いけどなと呟いて、ゾロはナミにそれを開けるようにと促す。
何の味も素っ気もない、白い紙で包装された手のひらサイズの包みを、ゴソゴソと開く。
包装紙になんら模様もロゴも入っていないことから、どこか店で買ったものではないらしい。ということはもしかしたら、この包装はゾロ自身がしたのだろうか?
キレイに包もうと格闘してるゾロを想像してしまって、胸のうちで一人笑いする。
ようやく包みを解いて、現れたものを見つめる。

それは、『エコツーリズムと自然動物』という一冊の本だった。

「もしかして・・・・・。」
「ああ、俺の本だ。」

少し誇らしげなゾロの声。表情にも表れている
すごいわと呟いて、ナミはゆっくりと大切なものを扱うような手つきで本を広げた。
ゾロの仕事、ゾロの世界、ゾロの夢がこの本には詰まっていて、それらへと繋がる扉を開けるような厳かな気持ちだった。
もう何度もゾロのエッセイや旅行記事は読んできたけれど、環境や自然動物のことを書いた文章は読んだことがない。
でも、これがこれからゾロが取り組んでいこうとしている世界なのだ。
ページの最初の方には写真が載っている。美しい森林や湿原、愛嬌のある野生動物たち。

「これも俺が撮った。」
「ウソップじゃなくて?」

一人での取材の時は俺が撮るんだと、ゾロは言った。
目次に目を通して、パラパラとページを一通り捲った後、また丁寧に閉じる。

「ありがとう。ゆっくり読ませてもらうわ。あ、そうだ―――」

ナミはマジックペンを一本持ってきて、本とペンをゾロに差し出す。

「サインして?」

悪戯っぽい表情でそんなことを言うナミに、一瞬ゾロは目を丸くしたが、すぐにニヤっと笑ってペンを手に取った。
本の奥付の裏のページを開くと、パキッと口でペンのキャップを外す。
口にキャップを咥えたまま、キュキュッと音を立てて、何の工夫も捻りもなく名前を書いていく。
ただそれだけのことだったけれど、その何気ない仕草にちょっとときめく。

これでいいかと見せてくるゾロに、何か一言書いてよライターなんだからと強請ると、俺はあんま即興では書けねぇんだとかブツブツ言い出した。じーっと睨みつけて、愛するナミちゃんへとかなんでもいいから書けないのと言ってやると、うーっと唸った後やっと何か書き始めた。
ナミはというと、字を書く目の前のゾロの腕に見惚れていた。
Tシャツの袖から覗くなめし皮のような肌の筋肉質でたくましい腕。ナミのゆうに2倍はある。

「なんだよ?」

ハッとなって顔を上げる。いつの間にか、ナミはゾロの腕を撫でるように手を添えていた。
誘ってんのか?と問うゾロに、そうかもねと答える。
ゾロは本を閉じて、ペンと一緒に静かに床に置くと、ゆっくりとナミの肩を抱き寄せる。
手を無造作にオレンジ色の髪に差し入れてくしけずる。
やがてもう片方の手でナミのあごを掬い上げ、しばしナミの唇を親指で撫でた後、そっと唇を重ねた。


ベッドの上で、ゾロの手によって身体は浮かされたように熱く翻弄される。
あそこを潤わせ、身を捩じらせ、突き上げられる度に啼き声を何度もあげて。
けれど、心はしんと冷えている。
ゾロに一緒に来てほしいと言われてから、セックスによって心を熱く燃やすことができない。
どこかで冷静に考えている自分が存在していた。

ゾロはあれから何も言わない。
私が時間がほしいと言ったのをそのまま受け止めて、それ以上は言ってはこなかったし、答えを催促することもない。ましてや日本を発つ準備をしている素振りも見せない。
ただ、今夜見せてくれた彼の本が唯一あの言葉を連想させてくれるものであろうか。

そして、ゾロのそんな態度をいいことに、私もまるで何も無かったかのように振る舞っている。
でもそれはあくまで表面上で、心の中はあの言葉を聞いた瞬間と同じように情けないほど動揺したままだ。

おそらく私の知らないところで、ゾロは着実に出発に向けて準備を整えているんだろう。
私に気取られないようにしてるのは、私に余計なプレッシャーを与えないため。
私の自由な意思で選べるようにという配慮からだ。

けれど、それってある意味ずるいわ。
つまり私の決断の責任は、全て私にあるってことでしょ。
もしゾロが私に来てくれ来てくれって強請って、それで私が折れて仕方なくついて行ったなら、後でゾロを責めることもできるのに。

ああ、まただ。
知らず知らずのうちに、ゾロについて行ったら後悔するって思ってる。
でも、ついて行かなくてもきっと後悔する。
だって、ついて行かなかったら、今までの関係は終わってしまう。会えなくなる。もうこんな風に愛しくてたくましい腕で抱いてもらえない。
しかも、その終止符を打つ決断を私がしなくてはならないなんて。
ゾロと別れる決断なんて、そんなのあんまりじゃない。
いつもそこで思考がショートする。
現実から目を背けてしまう。

けれど、本当はゾロだって辛いに違いない。
口に出さないではいるけれど、答えを待つことだって苦痛なはずだ。
私は答えを出さす、ゾロを宙ぶらりんのままにして放っている。
今回のことはゾロにとっては願ってもないチャンス。夢の実現に向けてもっと考えたいし、話したいだろう。
でも私がこんな体たらくだから、ゾロは気を遣って私の前ではそれについてロクに語ることもできないでいる。
恋人の夢を受け止められないなんて、なんて情けないの。
もしも私が一緒に行くって決めたなら、二人で共に夢について語れるのに。

早く結論を出さなくちゃ。

早く。



♪          ♪          ♪




教師も走り回るという12月は、『east blue』も一年の中で最も忙しい。
この時期はなんと言ってもクリスマス商戦真っ盛り。現場の店は人手が足りず、本社部門の人員が借り出される。
ナミもここ数日、店の方へ応援に駆けつけていた。
店の繁忙の時間を過ぎたら、今度は本社に戻って本来の業務につく。
慣れない接客業と、それに加えて企画の仕事。

今日はグランドライン店の応援に来ていた。
この店のいいところは、従業員用の設備が充実していることだ。
休憩室も清潔で快適。居心地がよくて、つい時間の経つのも忘れるほどだ。
昼食の後のわずかな休憩時間を、休憩室のソファで目を閉じてもたれていた。
そこへ、店長のマキノが入っていた。

「ナミさん、だいぶ疲れているみたいね。」

ナミは慌てて居ずまいを正す。
あ、いえ、それほどでも、という声は掠れていた。やっぱり疲れてるのかしら。

「今日はもう上がってちょうだい。企画の仕事も押してるんでしょう。この時期に企画課員を送ってくるなんて。ちょっと人事課に言っておくわ。応援のローテーションには配慮するようにって」
「はい・・・・では、お言葉に甘えて。」

立ち上がったナミに、マキノは少し逡巡したような素振りを見せて、次に思い切ったように口を開いた。

「この間はごめんなさい。なりゆきとはいえ、立ち入ったことを聞いてしまったわね。」

先月、会社帰りにマキノの家を訪ねた日、エースの弟がガラパゴス諸島にいると聞いて、矢も盾も堪らず、その弟を紹介してほしい話をしたいと頼み込んだ。
当然エースはもちろんこと、その場にいたマキノもコビーも驚いたし、必然として理由を尋ねられた。こちらから頼んだ手前、事情を話さないわけにもいかず、ナミはゾロとのことも含めて全て話した。

「いえ、私もあの時は煮詰まっていましたから・・・・話を聞いてもらえて逆によかったんです。ただ、社長にはこのことは、」
「ええ大丈夫。シャンクスには言わないわ。会社のことは気にせず、ゆっくり考えなさい。あなたの人生ですものね。それで・・・・ルフィには、連絡取ったの?」
「いえ、まだ。週末にでも電話してみるつもりです。」

今週末はゾロが取材旅行でいない。
だからその間に。
切羽詰ったようなナミの表情に、マキノは心配そうに眉をひそめる。

「まだ答えを出せてないのね。」
「・・・・。」

少し前に、エースにも同じようなことを言われた。
彼の弟の電話番号とその掛け方などを詳しく書いたメモを手渡された時だ。
「弟にはあらかじめ言っておくから」という当たり障り無い会話の後に、あんまり思いつめんなよ、とも。


―――話聞いてやりてぇけど、この件に関しては俺ァ不適任だからなぁ


会社の上司としても、一人の男としても。
やるせなさそうに頭を掻いていたエース。
ナミとて、まだ自分を想ってくれてるエースに、他の男のことを相談できるほど無神経ではなかった。


「そうね・・・・・今のあなたには、ルフィと話すのが一番かも。」

不意にそう言われて、「え?」と顔を上げ、もういつもの優しい笑みを浮かべているマキノを見た。

「希望を与えてくれるっていうのかしら。そういう子なのよ昔っから、ルフィって。」

何かとっておきの秘密を明かしたように楽しげなマキノを、ナミは不思議そうに見つめた。


ナミが企画課に戻ってくると、間もなくして会議が始まった。
会議を終えると、日はとっぷりと暮れていた。午後からほぼぶっ通し。今までに無いほどの長時間の会議だった。時計を見ると7時。夏の日ならまだ明るさも残るこの時間も、冬となればもう真っ暗だ。
それでも今日はいつもより早く上がれたなと思いながら、帰り支度をしてロッカールームにコートを取りに行くと、ちょうどロビンもロッカーからコートを取り出していたところだった。

「わ、ロビン!秘書課もこんな時間まで?」
「役員会議があったの。長引いてしまって。」
「そうなの。うちも会議だったのよ。」
「たぶん連動してるのよ。新ブランドの話だったでしょ?」
「うん、そう。」

新ブランドの必要性は、かねてから社内で出ていた。east blueでは現在受託販売が圧倒的だが、「どすこいパンダ」シリーズの成功から分かるように、自社ブランドを持っているのは販社の強みになる。ずっと利福が大きいからだ。
現在、流通業界は競争と浮沈が激しく、生き残りの芽はできるだけ多く持っているに越したことは無い。だから次世代ブランドの育成が必要だった。
それでも、今までは「どすこいパンダ」の生みの親のゲンが在籍していたことから、彼への遠慮もあって、新ブランド開発の素地が生まれにくかった。
だからゲンが退職した今、新ブランド立ち上げの機運が盛り上がってきていた。まさにエースはそのために引き抜かれてきたと言ってもいい。
ナミもまた、新ブランドへは並々ならぬ思い入れがあった。
ゲンにこの仕事の面白さを教えてもらった。
そして、いつかゲンのように長く親しまれるブランドを作り出したいと願っている。

「ね、久しぶりに飲みに行きましょうか、金曜日だし。」

ロビンは頬にかかった黒髪を耳にかき上げながら、小首を傾げてナミを誘う。

「そうね・・・・。」
「あ、彼氏さんと会う予定だったかしら?」
「ううん、そうじゃないの。ゾロは取材旅行中なのよ。」

本当は家に帰って、ルフィという人に電話をしようと思っていた。
でも、ガラパゴス諸島と日本の時差はマイナス15時間とエースのメモには書いてあった。ということは、帰宅して電話しようにも向こうは早朝だ。また、向こうの夜の時間に電話した方が捕まえやすいとも書いてあった。それなら明日になってからの方がいいだろう。

「いいわ、行きましょ。ロビンに話したいこともあるし。」
「話?何かしら。ちょっと怖いわ。」

「なにが怖いのよ」「だって彼氏さんのことでしょう」「それのどこが怖いのよ」「そろそろかしらって思って」「何がそろそろなのよ」という掛け合いをしていたら、いつもの店までの道すがらに一通りのことをロビンに打ち明けてしまうことになった。

「まぁ、それはおめでとう。」

ほの暗い照明の店内のカウンター席に落ち着くと、開口一番にロビンが言った。
ナミは苦笑いする。

「どこか声に剣があるわね。」
「この歳になるとね、女友達の結婚話ほど怖いものはないのよ。」

べ、別に結婚じゃないわよと声を上ずらせた。
けれど、ナミ自身もあれはプロポーズの言葉だったと思っている。

「冗談はさておき。彼も思い切った決断をしたものね。海外へ行くだなんて。そのうえナミさんを連れて。」

贅沢な人だわ、とロビンは呟いた。

「いつ行くの?」
「え?」
「仕事やめなくちゃいけないわよね。辞める一ヶ月前には辞表を出さないといけないし。」

辞表―――そうだ、もしゾロについて行くのなら、そういうこともちゃんと考えていかなくてはいけない。
辞表を出して、仕事を引き継いで、親に話して、アパートを引き払って。それからそれから。
それだけのことを考えても、ちょっと気が遠くなった。
ビザはいるの? 資金はどれぐらい必要? 住む場所は?  生活費は?
分からないことばかり。

「で、あなたは向こうについて行って、何するの?」
「え・・・・。」
「彼のお手伝い?ナミさん、エコロジーに関心が?そんなこと一度も聞いたことないけど。それとも家で彼のために甲斐甲斐しく食事の支度?」
「・・・・・。」
「もちろん、それもいいと思うわ。でも、もしも向こうに行ってから彼と破局したらどうするの?」

血の気が引いた。
例え話であっても、今はそんなことを聞きたくなかった。

「・・・・手厳しいこと言うのね。」
「気を悪くしたらごめんなさい。でも新ブランド開発の話も持ち上がって、企画課としての仕事もこれからって時なのに、これまでのキャリアを捨てるのはもったいないって思うわ。仕事に未練はないの?」

「彼は夢を叶えに行くわけでしょう。でもあなたは?ナミさんにも夢があるでしょう?向こうであなたの夢が叶うというならともかくだけど。」

ゾロはエコロジーに関心がある、知識もある。何よりもミホークという人物に惚れ込んで海外へ行くのだ。
ライターとして、彼のこと、彼の業績をすべて書き記すために。
翻って私は?
私の夢はどうなるの。
ゾロが仕事と私を選んだように、私だって両方を選びたい。
でも私は、どちらかを置いていかなくてはならない。


翌日、エースの弟にガラパゴスの情報を聞いたからといって、何が解決するわけでもないと思いながらも、どこか藁にすがるような気持ちで受話器を持ち上げた。
エースから渡されたメモを見ながらプッシュボタンを押していく。
数回の呼び出し音の後、地球の裏側と繋がった。

『Alo?』
「もしもし。」
『あり?日本語だ。』
「モンキー・D・ルフィさんですか?」
『エース・・・・じゃねぇよな。お前、誰だ?』

まったくマイペースなしゃべり方。ちゃんとナミの話を聞いてるのかと思ってしまう。

「初めまして、私はエースさんの部下で―――」
『ああ!そうか、そういやエースが言ってたな!』

エースよりも幾分高くて威勢のいい声が、ナミの鼓膜を震わせる。

『お前が、ナミだな?』

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