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その夜は、ゾロに包まれて眠った。 ゾロは何度もキスをしたそうな素振りを見せたが、その度にナミは顔を逸らす。 ナミの熱の原因が風邪なのか何なのか分からないけれど、移ったら大変。これからは海外行きに向けての大切な時期なのだから。とはいうものの、一度だけしてしまったけれど。 ゾロは少し不満そうだったが、ナミの体調を慮ってそれ以上のことはしてこなかった。ただ、力強く抱きしめられた。 幸せで、温かくて、あっという間に眠りにつくことができた。
翌朝目覚めると、すっかり回復していた。シャワーを浴びたら気持ちもスッキリとした。 早めに休んでよく寝たのが功を奏したようだ。 パンを焼いて、コーヒーを入れる。簡単なサラダも用意し終えた頃にゾロに声を掛ける。ゾロは無理矢理布団の中から身を剥がすようにして起き出してきた。 顔を洗った後も、眠いのか、まだ目をしょぼしょぼさせている。ゾロは朝が弱いようで、これも一緒に朝を迎えるようになって分かったこと。そんな発見にも小さな幸せを感じる。 ナミが出掛ける頃に、ようやくゾロは目が覚めてきたようだった。 そして、ナミがいつものように問いかける。
「今日の予定は?」 「えーっと、編集部に行く。でも、たぶんすぐ戻る。」 「そう、じゃぁ今夜はゾロの部屋へ行けばいい?」 「そうだな。」 「わかった。じゃぁ行ってきます。」 「ああ―――あ、そうだ、ナミ。」 「なに?」 「俺、今月末であの部屋を引き払うから。」 「は?」 「引っ越すんだよ。来年早々にガラパゴスに出発すっから、それまでは実家で世話になることにした。」
ハァ言い忘れるところだったぜとゾロは、目的を成し遂げたでもいうように満足そうだ。 本人はこれでも早く言ったつもりらしい。 しかしナミにしてみれば、海外行きを告げられた時と同じように寝耳に水だったので、回復したての頭にまたクラリときた。 どうしてこの男は、そういう大切なことを、なんでもないことのように飄々と言うのだろう。 そして今回もゾロは大して気にした様子も見せず、テーブル越しにナミにいつもの別れ際のキスを求めてくる。 ナミも今度は避けなかった。
1回、2回。
唇が離れる。
それと同時に、二人の時間のカウントダウンが静かに始まった気がした。
♭ ♭ ♭
「ゾロ!聞いたぞ、海外に行くんだって?」
編集部の廊下で大声を掛けられた。 振り返ると、ウソップが駆け寄ってくるところだった。
「どうして一言も俺に相談してくれねぇんだ?水臭せぇじゃねぇか!」 「なんでお前に相談しなきゃならねぇんだ。」 「冷てぇな、長年一緒に仕事してきた仲だっつーのに。」
それは本当だ。ウソップとはゾロがまだ大手出版社にいた頃からの付き合いだ。フリーになってからも、一緒に仕事をした回数はウソップがダントツだ。
「今まで世話になったな。」 「それだけかいッ。なんだ、長く行くのか?」 「最低1年。あとはどれぐらい行ってるか分からねぇ。自分の納得がいくまでは帰らないつもりでいる。」 「そうかぁ・・・・。うん、それは素晴らしい心意気だぞ、ロロノア・ゾロくん!そうだ、男には必ず旅立たねばならない時があるのだ!」
びしっとキメ台詞を吐いた後は、ウソップは目を泳がせて言いにくそうに口ごもる。 なんだよと促すと、おずおずと口を開いた。
「えーと、ところで、ナミは・・・・どうするのかなって。」
そう言って、上目遣いでゾロを見る。 ウソップは優しい奴だと、ゾロは常日頃から思っていた。 なんだかんだ言いつつ、いつもゾロの心配をしてくれる。 仕事のフォローしかり、人間関係しかり。 ナミの二股疑惑では、いつものウソップらしからぬ粘りを見せ、ナミを問いただした。 しかし、一度恋人として公認されると、そのナミにも彼の心配は及んでいるようだ。
「あいつは、残る。」
えっとウソップの口は形作ったが、声にはならなかった。
「いいのか、それで。お前ら、まだ付き合い始めたばっかだし。その、」
今離れたらダメになるんじゃないかと、ウソップは言いたいのだろう。 それに対し、ゾロは苦笑いを浮かべ、はっきりと言い切った。
「ああ、いいんだ。」
俺たちはこれでいいんだよと、ゾロがあまりに潔く言うものだから、ウソップの方が面食らう。
「そ、そっか。」 「戻ってきたら、また一緒に仕事してくれや。」 「お、おう!・・・・あ、いや、その時は俺様も世界的に有名なフォトグラファーになっているだろうから、都合が合えば一緒に仕事してやってもいいぞ!」 「ハハハ、その時はよろしく頼む。あ、頼みついでに。月末に引っ越すから、手伝いに来てくれねぇか。」 「ええっ、またかよオイィィ!」
ウソップの喚き声を背中に聞きながら、ゾロは編集部へと入っていく。 デスクと打ち合わせた後、編集長の机へ向かう。いつものように、タバコの煙をくゆらせながら机の上にどっかと腰をおろしているスモーカーがいた。
「いつ出発だ?」 「正月が明けたらすぐにでも。」 「そうか。見送りにゃ行かねぇぞ。」
ゾロとて、もちろんそんなことは期待していない。
「お世話になりました。」 「ハッ。本音はてめぇが世話してやったって思ってるんじゃねぇのか。まぁ、確かに一理あるがな。お前ほどフットワークの軽い奴をまた見つけるのは骨だぜ。」
やれやれと口から大きく煙を吐き出して、全く、デキる奴からすぐ飛び出していきやがると、スモーカーは独りごちる。
「たしぎがいるだろ。」 「あいつも年明けにゃ飛んでいくぜ。」
元々海外での活動が多かったたしぎであるが、春の入院以降はしばらく国内で仕事をしていた。それが体調も回復したので、来年からはまた海外へ出るということなのだろう。
(こっちは逆だな。男が残って、女が飛び立つ)
「あんた達も大変だな。まぁがんばれよ。」 「ああ・・・・ってああん!?」
鉄面皮のスモーカーが珍しくうろたえている。たしぎと自分が一くくりの扱いをされたので焦っているようだ。 その表情を見て、ゾロは吹き出しそうになる。
「たしぎにもよろしく伝えておいてくれ。」 「そりゃ直接本人に言うんだな。次の校了明けにうちの忘年会をやる。それにあいつも呼んでるから、お前も来い。忘年会兼送別会だ。」
その誘いをありがたく受けることにした。 どこをどう見込まれたのか知らないが、ゾロがフリーになって間もなく、スモーカーが仕事を回してくれた。 それ以来、食いっぱぐれることなくライターをやってこられたのは、スモーカーとこの編集部のおかげだ。 ここで様々な経験を積んだ。いっぱしのライターとなるべく鍛えられた。初めての著作も、ここで出版させてもらった。 しかし、ついにここからも巣立つ時が来たのだ。
♪ ♪ ♪
今夜はゾロの部屋でと示し合わせていたのに、ナミが仕事から帰ってくると、ゾロの部屋は真っ暗で、逆にナミの部屋に明かりが点いていた。 どうしてだろうと訝しみつつも、帰宅した時に家の窓が明るいというのは、なかなかいいものだと思う。
部屋のドアを開けた途端に、大音量が耳につんざく。一体なにかと思ったら、その音は英会話だった。 靴を脱いで取るものとりあえず、その音源に近づく。音の出所は見覚えのあるCDラジカセ。ゾロの部屋にあったものだ。ゾロが持ち込んだのだろう。そのそばにあるCDケースには、『English
Conversation
Program』と書かれていた。 そっとボリュームを落とし、次にまるでこの家の主のように君臨している男に視線を向ける。
ゾロは窓側のテーブルにいた。 使い込まれたノートパソコンといくつかの書類をそのテーブルの上に置き、いつもはナミが座っている椅子にゾロが腰掛けて、真剣なまなざしを液晶画面に向け、普段のゾロからは想像もできない速さでキーを打ち込んでいる。 部屋の照明とは別に液晶画面が発する光がゾロの端正な横顔を照らし出している様子に、ナミはしばしの間見とれた。
(あと、いつまでこうしていられるんだろう)
ふとそんな考えが頭を過ぎる。 続いて、ぎゅっと胸が締め付けられる。
離れることはもう決めたこと。 その選択は間違っていないと思う。 でも、現実問題として離れ離れになるのは、やはりこの上なく寂しい。 これから日一日とその想いは強くなっていくのだろう。 そう覚悟しつつも、こうして一緒にいられる残り少ない日々を惜しまずにはいられない。
「おかえり。」
不意に声を掛けられて、我に返る。 どうしたんだよと尋ねられ、答えに詰まってしまう。
「あ、あの、英語の勉強?」
とっさに別の話題にすり替えて、そう言いながらCDの方を指差した。
「ああ、英語教師の勧めでな。いつも聞いて耳を慣らしておけって。時間ある時はいつも聞くことにしてるんだ。悪かったな、もう消してくれていいぞ。」 「ううん、それなら流しておこうよ。」
別にジャマになるわけじゃないし。 そして、やっぱりこうしてナミの知らないところで、ゾロは海外行きに向けて準備していのだ。 今まではそんな部分をゾロはナミに見せようとはしなかった。 でももうこれからは、ありのままの姿を見せることにしてくれたのだろう。 それならば、ナミも協力を惜しんではいられない。
夕食を作っている間、ナミも流れている英語にずっと耳を傾けていたが、このCDは上級者向けなのかあまりにも早すぎて、ナミには何を言っているのか全然理解できなかった。
「よくこんなの聞いてて分かるわね。」
夕食を食べながら、ナミはすこぶる感心したように呟いた。いつの間にかゾロがこんな英語を聞き取れるほど上達していたなんて。 しかしゾロは漬物を口に放り込みながら一瞬何のことかという顔をして、あっさり言ってのけた。
「いや、俺にもサッパリ分からねぇ。」
そんなゾロに、ガクっと力が抜ける。そんなので英語の勉強の意味があるんだろうかとナミは思ったが、まぁ英語教師が勧めるんだから確かなんだろと、ゾロは悠長に構えているようだ。
もう少し仕事するから先に寝てろとゾロが言うので、ナミは先にベッドに潜り込んだ。 部屋の照明は落とされ、スタンドの明かりだけが灯もされる中、ゾロはまた窓際のテーブルを陣取り、パソコンに向き合い始めた。集中してキーを叩き続ける時もあれば、頬杖をついて考え込んでる時もある。 思えば、ゾロがこんな風に仕事をしているところを初めて見た。 いつもゾロは仕事は自分の部屋でしていたのだ。そっちの方が資料も揃っているし、仕事がしやすいから。だから今まではどちらかというと、ゾロの仕事の都合でゾロの部屋で過ごすことの方が多かった。でも最近はナミの部屋にいることの方が多い気がする。
そんなことを考えていたら、フッとスタンドの明かりが消された。 ゾロがパソコンを閉じて、それを持って立ち上がり、ナミの部屋から出て行く。カチャンと外から鍵を掛ける音、部屋から遠ざかっていく足音も聞こえた。 どうしたんだろう、帰ってしまったんだろうか。 でもそれにしては、着の身着のままで出て行った。この部屋にやって来る時に持ってくるカバンもコートも置きっぱなしだ。 案の定、15分ほどでゾロは再び戻ってきた。そのまま洗面所へ向かい、歯を磨いている。 いったいなんだったんだろう。 少し考えて、ふと思い当たることがあった。
(原稿をメールで送ったんだわ)
ナミの部屋にはインターネットをする環境が整っていないから、ゾロはいったん自室に戻ってパソコンをネットに繋げ、出来上がった原稿をメールで送ったのだろう。
(うちでもネットできるようにしようかしら)
そうすれば、ゾロが部屋に戻る必要がなくなる。 その分、この部屋で長く一緒にいられる。
(・・・・・)
なんということだろう。 離れると決めた今、たとえ15分でさえ一緒にいる時間を惜しむ気持ちが芽生えていた。
ナミの部屋にはゾロの歯ブラシもパジャマも用意してある。 ゾロは着替えも済ませると、静かに布団を捲り、ナミの隣に身を横たえた。 ナミがモゾモゾと身体をずらして、ゾロのために場所を空ける。
「まだ起きてたのか。」
ゾロはナミがとっくに寝ていると思っていたようだ。意外そうな声だった。
「ゾロが仕事してるところを見てたの。」 「なんだ?変な奴だな。」 「・・・・今何時?」 「1時。あー、熱は?もう完全に下がったか?」 「あ、うん。おかげさまで。」 「そうか、よかったな。」
そう言いつつも、ゾロが額を合わせてくる。 熱を診るための動作なのだろうが、ナミは少し驚く。 ゾロがこんなことしてくるなんて。まるで、お父さんみたいだと。 もっとも、ナミは父を物心がつく前に亡くしているのだけれど。
「ああ、下がってるな。」
けれど、やっぱりゾロはお父さんなんかじゃなかった。 熱を確認し終えると、太くて温かい腕がナミの細い腰に回される。 すっと額が離されたかと思うと、今度はすばやく唇を塞がれた。ん、とナミの息が詰まる。 始めは触れるだけの動作から、ゾロの舌先が乾いたナミの唇を何度も辿り、湿らせていく。その動きはひどく官能的だ。 次に角度を変えて合わせられる。唇の合わせ目がわずかに割られて、するりと舌が滑り込んでくる。 出会ったばかりの頃よりも、ゾロはキスがずっと上手くなった―――と思う。 奔放にじっくりと味わうようにナミの口内でゾロの舌がうごめく。ナミも抵抗することなく、むしろ積極的に受け入れる。 段々と舌の動きに思考は翻弄されて、身体は熱を帯び、受け止めるのが精一杯になる。 そうしている内に、ゾロの手はいつの間にかナミの胸元に置かれて、ナミのパジャマの前ボタンを、上から一つずつ外していった。
「ん・・・・ああっ、ああ・・・・」
暗闇の中でナミの声、ゾロの息遣い、湿った音だけが響く。 ゾロはナミの中に身体を深く沈めて、律動を繰り返す。 ゾロの両手はナミの手と指を絡めて握り合って、ナミの顔の横についている。 頬を上気させて口を半開きにして、しきりに喘ぎ声を漏らすナミの表情が艶めかしい。 ゾロがナミの奥を突く度に、目の前で揺れる胸はゾロの目を愉しませた。
胸の内のわだかまりが無くなって、ゾロと一つになるときナミはまた燃えるようになった。 恥ずかしいほどに声が出てしまう。 押し広げられて、入れられて、搾り取ろうとする。 大きくて切なくて身もだえするような波が間段なく打ち寄せてきて、あっという間にナミの意識をさらう。 でも、たまならい快感の背後に何かが隠れている。 それを目にしたくないから、余計に心を無にしてゾロに全てをぶつける。
ナミに煽られるように、ゾロも熱くなってナミを攻め立てる。 やがてナミが一際高く叫び声を上げると、ナミの中が一気に収縮し、ゾロは耐え切れずに達した。 身体を離すとナミは今宵の自分の乱れようを恥らって、ゾロに背を向ける。 ゾロはそんなナミの身体を後ろからすっぽりと抱き込み、眠りに落ちていった。
夢を見た。
さら、さら、さら、さら・・・・
何の音だろう。ああ、砂時計だ。
ゆっくりと、でも確実に砂が落ちていく。
砂は、時間。
二人で過ごす時間。
初めて二人で迎えるクリスマス―――そして次はいつ共に過ごせるか分からないクリスマスは、ゾロの引越しと海外行きの準備に当てられた。 部屋にいれば、片付けて、荷物を少しずつダンボールに詰めていく。 外に出掛ければ、ゾロの出発に必要なものを買い揃える。 全然ロマンチックではないけれど、ゾロの夢に少しでも貢献しているような気持ちになれて、ナミは嬉しかった。せめて今だけでも、ゾロのために尽くしたいから。 ナミはゾロに旅行用にと大きなキャリーケースを買ってあげた。一緒に店に行って、ゾロに選んでもらった。 一方、ゾロからナミへのプレゼントは―――
「モデム?そんなのでいいのか?」 「うん、うちでもネットできるようになったらいいなって。ゾロが世界中のどこを飛び回っても、メールを受け取れるでしょ?」 「まぁそれでいいんならそうするが。」
てっきり貴金属系かと思った。具体的に言えば・・・・指輪とか。 過去に付き合った女に、クリスマスプレゼントとしてねだられた経験があったので。
「だって、もったいないじゃない!!お金はこれからいくらでも入り用なのよ。ちゃんと今から節約していかないとダメよ!」
案外、所帯じみたことを言う。 しかし、パソコンのメールなら、大きな写真も送ってやることもできる。ゾロもパソコンのメールの方が打ちやすいし、ナミがネット環境を整えてくれるのは歓迎だった。 クリスマスディナーにおいてもナミは守銭奴ぶりを発揮して、ゾロの誕生日の時と同様、ナミは手料理を振る舞ったが少々失敗。 ナミはよりによって今日失敗するなんてとたいそう嘆いたが、強気なナミが涙目になって拗ねているのは可愛かったし、そんなナミをからかったり慰めたりしながらの食事は、ゾロにはけっこう楽しかった。
外気は寒くても、二人の入るベッドの中は蒸せるように温かい。 事後の独特の気だるさに、しばし身を任せてまどろむ。 ナミに腕を枕をしてやりながら仰向けに寝ているゾロの傍らにはナミがぴったりと寄り添っている。ゾロの裸の胸からへその辺りまで、ナミの指先が何度も辿るのが、なんとも言えずくすぐったい。 いつも終わった後はすぐに寝てしまうナミが、いつまでもいつまでも、飽きることなくそれを繰り返している。 ゾロもオレンジの髪に指を絡めて撫でながら暗闇で見えもしない天井を見つめ、ナミのしたいようにまかせていた。
さら、さら、さら、さら。
砂が落ちていく。
残り時間はもうわずか。
♪ ♪ ♪
そうして、とうとう砂が全部落ちてしまった。
世間的には仕事納めであるその日、ナミは午前中だけ半休を取って引越しの手伝いをすることにした。 とはいっても、前夜も一緒に荷造りしたので、ほとんどできてあがっていた。後は運び出すだけ。 しかもウソップも手伝いに来ていたので、3人であっという間にレンタカーの軽トラックに荷物が積み込まれた。 全てが積み終わった頃、見計らったようにサンジが車でやってきた。いつもゾロが借りていた濃紺のレクレーショナル・ビーグル。ナミはこの車を持ち主であるサンジが運転するところを初めて見た。 バタンと車のドアを閉じて降りてきたサンジに、ウソップがつっかかる。
「てめぇ〜〜!なんで終わった頃に来やがる!来るんなら、ちゃんと手伝える時間に来いや!!お前、前の時もまんまとサボりやがって!」
ん?そうだっけ?とサンジは特に悪びれた様子も見せず、手土産の大きめの紙袋をゾロに押し付ける。 中を見ると、バラティエの焼き菓子の詰め合わせと思しき箱が入っていた。
「お姉様に、だぞ。間違ってもテメェのためじゃねぇからな。それからナミさん、こちらは貴女に。」
恭しくお辞儀してサンジはにっこり微笑むと、ナミにも同じものを手渡した。 ちらっとナミがゾロに目を向けると、面白くなさそうに仏頂面をしている。
「オイオイオイオイ、なにやってんだお前ら。ナミはゾロの恋人なんだからな。サンジ、手ぇ出したりすんなよ!」
行事役のように、ウソップがサンジとナミの間に割って入る。
「ゾロ、心配すんな。ナミが浮気しないよう、俺がしっかり見張っててやるからな!」 「ちょっと、冗談じゃないわよ!」 「スミマセン、今のは無しの方向で。」 「ナミさん、こいつがいなくなっても、関係なくうちに食べに来てね!」 「おい、俺への言葉は無ぇのかよ。」
一応今日は俺が主役のハズなのにと、ゾロが口を挟む。
「はッ、てめーなんかガラパゴスのイグアナにでも食われちまえ!二度と帰ってこなくてもいいぞ!・・・・それにしても、この部屋とは短い付き合いだったな。」
サンジが胸ポケットからタバコを取り出して咥えながら、改めてゾロの部屋を見やった。それに釣られるようにしてナミ達も顔を上げて、ゾロの部屋であった窓を見上げる。
「ああ、結局1年足らず、だったな。」
今年の1月、ナミが正月休みを終えて、実家からマンションに戻ってきたその日に、ゾロは引っ越してきた。 今日のようにこんな風に軽トラックが道に止まっていた。そうだ、あの時はウソップが軽トラを運転していたのだった。 あの時は、ナミの真向かいの部屋に人が入居したと分かって、随分と憤慨したものだ。静かな生活が乱されると思って。 でも、その人と恋に落ちるんだから世の中ってわからない。ナミは胸の内でこっそりと笑う。
「さぁて、そろそろお暇するか。」 「そろそろって、お前は今来たばっかじゃねぇか。」
ウソップが口を尖らせて突っ込むも、サンジに首根っこを押さえられて何も言えなくなり、なすがままに引きずられていく。 サンジはゾロに後ろ手を振りながら達者でなと言い、ふと思い出したように一度振り向いて、今度はナミに向かって「きっとまた来てくださいね」と笑顔を振りまくと、車にウソップを詰め込んで走り去った。 慌しく去って行った二人を見て、取り残されたナミはゾロと顔を見合わせる。
「気を遣わせちゃったかしら。」 「察しのイイのだけがあいつのとりえだからな。」 「・・・・・。」 「じゃ、行くな。」 「うん。」 「長野に着いたら、電話すっから。」 「うん。」 「・・・・・毎日、電話すっから。」 「うん」 「お前もしろよ?」 「うん」 「出発の前日には東京に出てくるから、その日は開けとけよ。」 「うん」 「うん以外に何か言えねぇのかよ。」
無理よ。 だって、それ以外のことを言おうとしたら、涙が溢れてしまいそうなんだもの。 そんな私にゾロは頭を掻いてハァとため息をつく。
なによ、その態度。 きっと女々しいって思ってるんだわ。
さっきまでは平気だったのよ。 ウソップ達がいたからっていうのもあるかもしれないけど。 でも、二人きりになったら、なんだか急に離れることの意味を実感しちゃって。 上手く喩えられないけれど断頭台に上がる前の心境とでもいうのかしら、身を引き裂かれるような気持ちなの。 それなのに反則よ。 頬に触れてきて、顎を掬い上げて、今までに見たことないくらい優しい瞳をして、キスしてくるなんて。 私がそれぐらいでほだされると思ったら大間違いよ。 だってあなたは行ってしまうのに。
「ゴールデンウィーク辺り、お前も来いよ。」
えっと目を瞬かせてゾロを見る。
「ガラパゴスに。」
「待ってっから。」
「それまでには、お前もちょっとは英語やっとけよ。」
からかうようにそう言って、ゾロはナミの両肩を掴み、再び顔を寄せてきた。 間近でゾロと目を合わせる。いつもの切れ長でちょっと恐くて澄んだ瞳。その目が少し困っている。ナミが泣きそうだから。 ナミの瞳は涙で凝っていて、目の前のゾロがぼやけて見える。それでも網膜に焼き付けるように必死でゾロを見つめた。 顔が更に近づき、ゾロの息がナミの唇の上にかかる。 やがて、ナミもまぶたを閉じる。 その瞬間、ぽろぽろと涙が零れ出た。
別れ際にいつもするキス。
唇を触れ合わせて、口を開いて、一瞬舌を絡ませて。
1回、そして2回。
切なげな息がどちらからともなく漏れて。
そして、唇が離れた。
♪ ♪ ♪
午後からは会社に出た。ナミの会社の休みは30日からなので、あともう少しだけ年末の忙しさが続く。 企画課に入っていくと、席についていたのはエースだけだった。まずは忙しい時期の半休を詫びる。すると、だいじょうぶかと逆に問い返された。それには曖昧に笑って答えた。
「ルフィを紹介してくれてありがとう。とても力になってくれたわ。」 「ああ、ヤツからも聞いたよ。すっかりナミと意気投合したってな。」 「不思議な人ね・・・・ルフィって。」
不思議よりももっと別の言い方はないかと思うのだけれど、ルフィをうまく表現できる言葉が思いつかない。 けれど、今なら分かる。マキノが言っていた言葉の意味が。
―――希望を与えてくれるっていうのかしら。そういう子なのよ昔っから、ルフィって
その通り、ルフィはナミに希望を与えてくれた。 離れ離れになっても、心が繋がっていれば大丈夫だと断言したルフィ。
そうよ、離れてたって心は繋がってるんだもの。 だから、だいじょうぶ。 だいじょうぶなの。
「ゾロにもルフィのこと話したら、向こうへ行ったら連絡取ってみるって言ってたわ。」 「そうかい。じゃあ俺もルフィに話しておこう。ゾロって奴から連絡が来たら、容赦するなってな。」
そう言ってエースは口の端で笑う。 何を言い出すのかと、ナミは一瞬慌てる。
「ちょ、ちょっとエース。」 「言っておくけど、俺の弟はスゲェからね。きっとそう遠くない日に、ゾロはルフィにひれ伏すことになると思うぜ。いやー楽しみだ。兄に為し得なかったことを、弟には是非やってほしい。」
そうすれば俺の溜飲も少しは下がるってもんだと、人の悪い笑みを浮かべて片目を瞑る。 もう、とナミは困ったように肩を竦めた。
仕事を終えて、バスに乗って帰る。 座席に座って、窓に写りこむ自分の顔を見ながら、ぼんやりと思い出す。
(このバスの中で初めて言葉を交わした)
バスの中で押されて、ゾロの背中に倒れこんだのだ。その拍子に足も思いっきり踏んづけてしまって。 だから第一声が「ごめんなさい」って、最悪じゃない。でも、あの時のゾロはぶっきらぼうだったけど、席を譲ってくれたりして優しかった。 バスを下りると、バス停前のブラッスリーがまだ開いていた。それだけ今夜は早く帰って来ることができたのだと思う。最近はここが開いている時間には、まず帰ってこれなかったから。
(ここで初めて目が合った)
それはほんの偶然の出来事。運命のいたずらのような瞬間だった。 それまでは窓からそっと見つめて目で追うだけだったから。 目が合った時、ひどく安心したことをよく覚えている。 久しぶりにブラッスリーに入っみる。変わらずに奥さんが温かく応対してくれた。明日の朝食用にとバゲットを買い込んで、良いお年をと年末の挨拶をして店を出た。そこから家までのわずかな道のりを歩いていく。
ナミのマンションの前まで来ても、ゾロの部屋は意識して見上げなかった。真っ暗な部屋を見るのは、分かってはいても今は忍びない。 マンションのエントランスをくぐり、ちょうど1階にエレベーターが来ていたので乗り込む。 「閉める」のボタンを押そうとして、手が止まる。
(ここでキスした・・・・)
エースと一緒にいるところを見られた時と、初めて想いを通じ合わせた時。 どちらの時もゾロに唇を激しく奪われた。心を根こそぎもっていかれそうなほどのキス。 半ば密室のような世界で、二人の唇の音だけが耳に届き、のぼせ上がりそうだった。 今思い出しても、身体の芯がぼうっと熱くなる。
いざ部屋に入れば、そこかしこにゾロの面影がまだ残っている。ゾロは自室での生活用具をさっさと荷造りしてしまったので、最後の数日をナミの家で過ごしたのだ。 テーブルに、洗面所に、ゾロお気に入りのお風呂に、そしてベッドに。 だから、振り返ればまだゾロがいるみたいな気がして―――もちろん、もうゾロはここにはいない。ナミの手の届く範囲から遠く離れてしまった。今はもう長野に着いているはず。
カバンを力なく肩から落とし、ベッドの上に置いた。その時、何かに足が当たったと思ったら、それはゾロのCDラジカセだった。ゾロは最後の日までこれで英会話のCDを聞いていた。そのために置き忘れてしまったらしい。しかしこれすらも、今はゾロの思い出のよすがとなる。 キッチンに向かい、夕食を作りに取り掛かろうとするものの、ゾロがいる時にはあんなに張り切っていたのに、一人になるとまるでやる気が起きない。でも食べないわけにはいかないから、その気になれない身体に鞭打って、在り合わせの具材でなんとか作った。 窓側のテーブルにつき、食べてみるものの美味しくない。一人の食事はこんなに味気ないものだったのかと思い知る。 恨めしげに向かいの窓を見つめる。明かりの灯っていない窓を。
何度この仕草をしたことだろう。 向かいの窓を見つめ続けた1年だった。 素っ気無かった窓はやがてこちらに向けて開かれるようになった。 優しく明かりが灯り、まるで道しるべのようにナミのために光を放つようになった。
あの日、あの窓にゾロが立っていて。 私はこっちの窓に立って。 お互い思いのたけを叫びあった。
―――好きって言ったのよ!悪い?!
―――お前が好きだって言ったんだ
ああ、それなのに、もう光が見えないわ。
もう何も見えない。
顔を両手に埋めて必死で堪える。
(泣いちゃダメ)
(まだゾロはこの国にいるのよ)
(もっと遠く離れるのは、まだこれからなのに)
(今泣いてどうするの)
懸命に自分を叱咤しても、こみ上げてくるものを止められない。
その時、携帯が鳴り始めた。 ハッと息を呑む。 この着信音は、ゾロからだ。 ベッドの上に落としていたカバンに飛びついて、中から携帯を取り出した。 通信ボタンを押すのももどかしい。
「もしもし!?」 『着いたぞ。』
ああそういえば、長野に着いたら連絡すると、言っていた。 ゾロの声を聞くだけで嬉しくて涙も少し止まる。スンと鼻をすする。泣いているのを気取られたくなかった。きっとゾロは気にするだろうから。
『どうした?』 「なんでもないわ・・・・疲れたでしょ?」 『ああ、さすがに長時間の移動は堪えるな。』 「お疲れ様でした。荷物の片付けは?もう済んだの?」 『あーっと、とりあえず出迎えを頼むわ。』 「え?」
そこでプツッと通話が途切れる。 しばし呆然と携帯を見つめる。 続いて、ピンポーンとインターホンが鳴ったので、飛び上がるくらい驚いた。 かすかな予感に足が震える。 そんな嘘よ、まさかそんなことと、混乱した頭のままふらふらとした足取りで玄関先に向かう。 覗き窓を覗くこともせず、鍵を開ける。 押し開いたドアの向こうに、ゾロの姿が現れた。 ゾロは少し照れくさそうな顔をして、携帯を握り締めて立っていた。そして、ナミに向けて両手を広げた。
「ナミ・・・・」
「ゾロ!!」
ゾロの胸に飛び込んだナミの身体を、ゾロがしっかりと抱きとめる。 ナミはゾロの首に両腕を回してしがみつく。 ゾロも、そんなナミの背中に腕を回し、何度か撫でて、その存在を確かめながらゆっくりと抱きしめる。
「国内にいる間は、お前とずっと一緒にいることにした。」
出発の日まで厄介になるぞとオレンジの髪に顔を埋めて、ゾロは低く囁く。 ナミは何度も何度も頷き、ますますゾロにしがみつく。
ゾロはナミを抱きかかえるともつれる足で靴を脱ぎ捨て、そのままベッドへ向かおうとしたら、足元のCDラジカセにけつまづいた。 その拍子でスイッチがONになってしまったようだ。 またもや難解な英会話が流れ出す。 しかも耳を塞ぎたくなるような大音量で。 さすがに二人とも驚いて、呆気に取られながらも、CDラジカセに目を向ける。 ガンガンと鳴り響く意味不明な英会話に、次の瞬間には笑いがこみ上げて来て、同時に吹き出した。 ナミがゾロから身体を離し、音のボリュームを絞ってラジオに切り替えると、今度は静かな音楽が流れ出す。 そして、あらためてベッドに腰を下ろし、ゾロと向き合った。
いつ戻ってこようって思ってたの?
お前に泣かれた時、かな。長野に荷物だけ置いてトンボ帰りだ
お姉さん、さぞかしびっくりされたでしょ
いや、うちの姉貴はそんなヤワじゃねぇんで
ふふっ
なんだよ?
私、お正月は実家に帰るの。当然、ゾロも一緒ね
・・・・・マジかよ
ベルメールさん―――お母さんに、挨拶してくれるわよね?
・・・・・・・
・・・・・ね??
あー、分かった、分かりました!
よろしい。・・・・ゾロ
あ?
これからも、よろしくね
ラジオからは静かで穏やかな曲が流れてくる。
そう、この曲のようにいつまでも・・・・・
andante―――歩く早さで ゆるやかに
あなたと共に人生を。
Fin
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