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冬の晴れの日は、夏の晴れの日よりもずっと暖かい気がする。

夏は暑いという感覚だからかもしれないけど、冬の透き通った青い空からどれだけ冷たい風が吹いてもその風が止んだ瞬間の陽射しは暖かい。
年が明けて、実家から一人で暮らすマンションに戻る道すがら、ナミはそんなことを考えてぴたっと足を止めた。

そういえば、帰省する前に冷蔵庫を空にしようと努めたのだから、家に帰ってもこの空腹を紛らわせてくれるようなものはない。
実家の母が作ってくれた料理を暖かいこたつを囲んで食べてはいたけど、お雑煮はいくら食べても飽きることはないと一度思うと口の中に今朝食べた母手製のお雑煮の味が蘇ってきて、「作ってみよう」と呟くと、ナミは視線を止めていたスーパーへと入っていった。

まだ年が明けて数日も経っていないからだろう。
輸入品も多く取り扱っているスーパーなのに和風に飾り付けられた店内がいつもと違う雰囲気を醸し出していて、籠を手に取りながらその様子を見渡しているとどこかワクワクしてしまう。

そうでなくてもスーパーというものはお店に入れば今の季節は蜜柑に苺が緑色の人口芝を置かれた棚の上に所狭しと陳列されていて購買意欲が沸くのだから、そこに紅白や金箔のディスプレイが加わればいっそう空腹が増した気がした。
帰省の交通費で懐がそう豊かなわけではないけど、明日から仕事が始まるのだから今日ぐらいはいいかなと程良い緑色の酢橘を一つ手に取って、後は思いつくままに食材を籠に入れていった。
お雑煮と同じ材料で、今日はお鍋にしよう。
実家では母の正統なお雑煮をたくさん食べたから、自分が作るのは少し味を変えてもいい。

お正月に売り出される特別なお野菜を使う以外はいつもと変わりないお鍋になりそうだけど、お雑煮風と言ったら気分が良くなるからお雑煮風のお鍋。
お鍋の材料は一人分だとたかが知れていて、少しだけ重く感じる籠を手にレジへと向かうと、三箇日も最後の日になって、買い物客の行列がレジの前に出来ていた。

食材を入れた籠よりも帰省の荷物の方がずっと重い。
母が宅配便で送ればいいのにって苦笑してたけど、もしも雪で遅延なんてことになったら、明日からは終日家に居ないし、受け取るのが遅くなってしまうからと自分の手で持ち帰ることにしたことを胸の中で後悔していると、ようやく自分が精算する順番が回ってきた。

レジは短い電子音を鳴らして鍋の材料の金額をディスプレイに提示していく。

(いつもより高いわ)

陳列されている食材を手にした時にも、その値札を見て高いと思ったけど、やっぱりこうして合計額を見てみると高い。

店員の手元を見ていると間違えているようには思えないし、お鍋にしなくても、帰省している間に十分美味しいものを食べたんだから今夜は適当に済ませても良かったな。

財布から予想外のお金が出ていく瞬間ってあんまり好きじゃないのよね。

ああ、私の千円札が3枚も飛んでっちゃった。

こうなったら存分に有難く、美味しく食べてやろうじゃないの。

あんた達覚悟してなさいよ、とびっきり美味しく料理してあげるんだから、って袋に入った野菜やお肉やお魚に心の中で言ってみたら、かさかさ鳴ってる袋の音が軽くなった気がした。

肩に掛けた鞄をよいしょって持ち直して、スーパーを出ると陽射しは暖かい。
かさかさ鳴ってる袋と一緒に家路を辿った。




♪          ♪          ♪





「あけましておめでとう、ナミさん。晴れて良かったわね」

「ロビン。聞いてよ。昨日ね───あ、うん。雪よりはね。」

年末には雪で朝の電車も遅延することが多く、ナミは一度だけ遅刻ギリギリにこのロッカールームに駆け込んできたことがある。それを言っているのだろうと慌てて言葉を返すと、同僚のロビンは愉快げにくすくすと笑った。

「今年もやっぱりナミさんはナミさんね。どう?お正月には帰省したんでしょう?ゆっくりしてきた?」

「まあね。でもそれよりね、聞いてよ。昨日・・・ああ、もう、憂鬱・・・!」

次に会った時にはどうしてやろうかしら、と呟きながらナミはコートを入れたロッカーを乱暴に閉めた。
冷たい鉄の扉がバタンと大きな音を立てると、その大きさがナミには予想外だったようで、細い肩をビクンと動かしてナミは慌ててもう一度ロッカーを開けると今度は静かに閉じてみせる。その様がロビンの目にはひどく可愛く映って、ロビンはまたふふっと笑った。ナミが拗ねたように「何よ」と唇を僅かに尖らせると、ロビンは「別に何でもないわ」と答えたけれど、その声がまだ微笑を含んでいるから、ナミは所在無い気持ちになってしまって、「このロッカー古いから、閉めにくいの」と言い訳じみた言葉を口にした。

「そうね。それで憂鬱って?」

「え?・・・あ、そうそう、それね。やんなっちゃうわ。華の独身生活だったのに。ロビン、今日夜空いてる?飲みに行かない?」

突然の誘いにロビンは少しの間首を傾げて考えていたけれど、もしも駄目な時にはロビンは考えることもなく無理だと言うから、これはきっと大丈夫ということなのだろうとナミは今度は確信を持って「行きましょ。二人で新年会」と僅かに口調を強めて返事を促した。
ロビンとは同期で入社して、部署が違う彼女と最初に話したきっかけは忘れてしまったけど、3年の間ほとんど毎日顔を見て、それから夜は一緒に食べに行ったり飲みに行ったりしているのだから気心も知れている。
大抵ナミが仕事や、私生活のことで愚痴をこぼしたくなった時に突拍子もなくロビンを誘って、彼女もまた艶のあるストレートの黒髪を一度揺らして首を傾けながら考えるだけで、大抵は「いいわ」と返す。
いつも私ばっかり話をしちゃって悪いわね、と以前ナミが言った時、ロビンは「楽しくなければ断るわ」とさも当然のように答えた。
その言葉に甘えるわけじゃないけど、確かにロビンは他の人と接している時にも嫌うことからそっと身を引いている気がするから、そんなロビンがいつも自分に付き合ってくれるというのがナミにとっては少し嬉しい。

まるで恋人が自分だけを大切にしてくれているような気持ちにもなってしまう。

かと言って、ロビンは異性ではないから恋に発展するとか、その気持ちで他の事がおざなりになるだとか、二人の間に気兼ねが生まれるということもないし、ましてや恋人でもないから休日まで一緒に居るわけではない。

その距離感もナミにとっては有難い。

「ナミさんと新年会も楽しそうね。」

あまり表情を表に出さないロビンが頬を緩ませると、あまり表情を出さないだけに至極あどけない面差しになる。

「決まりね!」と言うと、ロビンはコクンと頷いて「いつものお店でいつもの時間で大丈夫かしら」とナミに確認した。

「多分今日は大丈夫よ。定時に上がれると思うわ。」

「同じくね。じゃあ7時に。」

言って、片手を上げるとロビンはヒールを静かに鳴らしてロッカールームを出て行った。




♪          ♪          ♪





家の前まで来ると、荷物の重みが増す気がする。

それまでも重い重いと思っていたけど、見慣れたマンションのエントランスに立ってあともう少しで家に入れるかと思ったら肩に痛いぐらいの重みに変わった。
ダイレクトメールや、年賀状で賑わっている郵便箱はダイアルロック式で、くるくる回して開けると郵便物のいくつかが冷たい床に落ちた。

誰に言うでもなく、んもう、と呟いて拾い上げようとすると、どこからか近付いてきていた軽トラックの音がマンションの手前で止まった。
エンジン音だけが辺りに響いている。
拾った郵便物と、郵便受けに入っていた郵便物を合わせると相当な数になるからと目も通さずに買い物袋の中にしまいこんで何気なくエンジン音が響くマンションの前の道路に目を向けると、少しばかりの家具を乗せた軽トラックだった。
すぐに細身の男が降りてきて、長い鼻を空に向けると「おーい」と叫んだ。

「お前の荷物だろ。自分で運べよ!」

道向かいのマンションのどこか一室にあてて叫んだその声に、誰かが向かいのマンションに入居したんだなと思って、エレベーターのボタンを押した。
このマンションに入居するとなったら、多少興味が出ないわけでもないけど、それでも一人暮らしの人が多いこのマンション内では隣の住人ですらもほとんど顔を覚えてない。毎朝同じ時間に家を出る人はエレベーターが一緒になる確率が高いけど、それでもどこかお互いに遠慮があって、挨拶を交わすこともない。そもそも朝、家を出たら夜になるまで帰らないのだからいくら自分が住んでるからと言ってマンションの中の人間関係が希薄になることも仕方ないのだ。

当然、向かいのマンションの入居者の顔なんかは一切興味もなく、ナミは気にするでもなくエレベーターに乗り込むと、自分の部屋へと急いだ。

今はとにかく家に帰って、体に馴染むソファに座ってゆっくりと羽を伸ばしたい。
何せ、明日からまた仕事で今日が最後の休日なのだから、時間が惜しくなってしまう。

鍵穴に差し込んだ鍵がかちりと音を立てた。

重い扉を開けると締め切られた家は薄暗く、玄関から差し込んだ光の中しんと静まり返っていた。

空気もこもっているように思えた。

「疲れた」

そう漏らしてナミはキッチンに食材を置くと、窓辺へと向かった。
ワンルームマンションのこの部屋にベランダはない。
小さなラブソファに肩に負担を掛けていた鞄をどさりと置くと、微かに埃が舞った。
カーテンを開いたら、冬の強い陽射しに部屋の中の静寂たちが驚いているみたいだった。
風に押されてカタカタと震えた窓を開ける。

ひゅうっと入り込んできた風は冷たいけれどその清々しさが心地良い。

すぅっと深呼吸して、ナミはそこでようやくはたと動きを止めた。


「引越ししてきたのって・・・あの部屋?」




道を挟んだ向かいのマンションは、ナミの住むマンションと住民の住む部屋の窓同士も向かい合わせになる。
大通りに面しているわけじゃないから、その窓は、例えば宵のうちに互いのカーテンを閉めず家の中の電気を点けたらとても近いものにも思えるけど、昼間には遠くも感じる。
今までさして気にも留めなかったのは、ちょうど目の前の部屋が空き室だったからということもある。
窓に顔を近づけてその両隣を見れば誰かが住んでいるというのはわかるけど、ちょうどこの窓の真正面にある部屋に光が灯ることがなければ、いつも窓から見える景色は変わりなく季節だけが移ろっていく。

移ろっていくだけだったはずなのに。

今、この窓から見える真正面の部屋は、ダンボールや家具が運び込まれてその中にひょこひょこあの長っ鼻の男の姿が見えるから、新しい入居者が目の前の部屋に引っ越してきたということは文字通り目に見えて明らかだった。




「あら、それがいけないの?」

話を聞き終えてロビンが率直に問うと、ナミは「大問題だわ」と溜息を漏らした。

「だって、どうも男みたいなのよ。覗き見られたりしたら嫌じゃない?覗き見られないとしても見えないところに下着干さなきゃいけないし、昼間だって光の加減によっちゃこっちの部屋の中が丸見えよ!・・・多分。あ、ううん。見えるのよ。こっちから見えるってことは、きっと向こうからも見えるのよ。もし私の部屋ん中覗いてたりしたらそ怒鳴り込んでやらなきゃ!」

ナミはまだ起こってもいない事態を予測して自分の言葉に眉を顰めたり、首を振ったり、頷いたり、最後にはグラスを持った手にきゅっと力をこめて息巻いた。テーブルを挟んで対面に座っていたロビンはナミのその様をじっと見ていた後に「やっぱり、ナミさんは今年も変わらないわね」と言った。

「何なのよ、ロビン。」

「今年の抱負、ナミさんは決めた?」

「今年の抱負?そうねぇ・・・毎年これと言って思い浮かばないのよね。」

「彼氏は欲しくないの?」

「出来る時に出来るわよ・・・・・・・・あっ!」

「・・・・? どうしたの?」

「忘れてたわ!あけましておめでとう、ロビン!」

朝、ロビンが確か第一声に新年の挨拶をしてくれたのに、ロビンに話したいことが頭の中に在って、ついつい返事をおざなりにしていたと不意に思い出してナミはそう言うと、ふふっと笑った。

「今年もよろしくね」

悪びれずに朝の会話を今更ながらに続けた同僚は、くるくる変わる表情を笑顔で止めたまま自分を見ている。
ロビンはそんなナミを好んでいる。
だからナミの笑顔にロビンもまた笑顔を返して「今年もよろしく」とグラスを差し出した。

二人の手に持たれたグラスがかつんと小さな音を鳴らし合った。
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