6月 loco      - PAGE - 1 2 3 4 5
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部屋の電気をつけて、少し気分は晴れた。

あぁ、疲れた。

今日はもうたくさん食べる気力がない。
料理をする気力も全然ないわ。
こんな時、実家に住んでたら母さんがもう大人のくせにって笑いながら食事を用意してくれるんだろうな。

ナミは短い溜息を吐きながら冷蔵庫を開けた。
梅雨の前、不安定な天気に昼に蒸し暑かった空気は夜ともなるとさすがに春冷えの様相を見せ、ぶぅんと静かに振動音を響かせ続ける冷蔵庫から漏れ出した空気に身が一瞬震えた。

ただでさえ疲れたなどと溜息を吐いたナミにとってはそれだけで十分だった。

今日はもう何も食べなくてもいい、と諦めると、せめて暖かいお茶でも飲んで気を紛らわせようと棚を開け、ジャスミン茶の葉が入ったキャニスターを取り出すと、一回分にも満たないほどの崩れた葉の欠片が厚いガラス瓶の中、虚しくさわさわと動いた。

「ついてないのかしら。」

落ち込んだ気分で水道水をコップに汲み、美味しくもない水を飲みながら窓際の椅子に腰を下ろした。

窓の向こうに明かりが見える。

帰ってきているのだろう。

もう一月も経って、ナミはもうあの時どうしてあれだけ自分が声を荒げてしまったのかということを忘れる瞬間がある。
彼が仕事だったなら仕方ないと思うことも出来ただろうに、と考えて、ナミは少しあの日に気持ちを戻す。
そうすると自分はゾロが仕事だと言ってすぐにあぁそうだったの、とあっさりと頷いて、携帯電話を忘れるなんてバカねってちくりと棘を刺しながら、だけどずっと待っていた彼の体温を感じようとあの胸に飛び込む。
通り過ぎてしまった時間の起こらなかった事柄を想像するのは幸せだとナミは思った。
その日のことを忘れることが出来る自分なら、無知でエゴイスティックで浅はかなこの幸せに浸ることが出来るのに。

彼の部屋は時間のずれはあれども毎日明かりがつけられる。

階下、路上に並ぶ街灯の光が自分たちの部屋までぼんやりと届く。

仄かな光の上に煌々と浮いた明かりがゾロの部屋の窓だ。


ナミは「ふん。何よそれ。」と鼻を鳴らして呟くと、グラスに半分も残った水を一気に飲み干した。
まるで彼の部屋の明かりは街灯の光よりずっと明るいから、灯台にも見えてならない。
謝りに来るならここだぞって、道しるべに見えてならない。


「誰が謝るもんですか。」


そうよ。

結局は一ヶ月もほったらかしにしたあんたが悪いのよ。

ごめんって一言言えば、私はいつだって許してあげてもいいと思ってたのにもう一月も時が流れてしまった。

携帯電話の留守電は、相変わらず何も入ってない。
着信履歴にあいつの名前もない。

あぁ、なんてひどい気分。

疲れてるからだわ、きっと。


シャワーは明日の朝でいい。

だってどうせ最近よく眠れないから、朝はすぐに目が覚める。

化粧だけは落とさなきゃと立ち上がると、足が重い。


どうしたんだろう。

このところずっと、自分の中で何かが張り詰めている。

カーテンを閉めると、また一つ、心の奥がきゅうと鳴いた。

仕事で大きな失敗をしたよりもずっと、惨めな気持ちになった。




♪          ♪          ♪




「え?そ、そうでしょうか?」

コビーは大きく丸い黒縁眼鏡を丁寧に指で押し上げながら上司の顔をじぃと見た。
彼の言うことを鼻から疑うわけでもないけれど、どうしてそれを彼から言い出すのだろうと、不審というよりは好奇心を持った顔だった。かと言って憎めない、素直な表情だからエースは元から好感を持っていたこの部下に、嬉しげな笑みを返した。

「どうかな。どう思う?」

「・・・僕はそう思わなかったけど・・・」とコビーは困ったように眉を潜めると、「うーん」と唸ったきり俯いて何事か考えこんでしまった。
手に持った書類はナミに言い渡された書類で、他の部署に早急に届けなければいけないというのに、すっかりその役目を忘れてしまっているようだ。

「いやいや、悪ィな。仕事中だろ。別に何もないならそれでいいさ。」

「あ、そうだ!5分以内に帰らないと、そのナミさんに・・・」

ナミに何をされるというのか、肝心なところを聞き逃してしまったが、もはや遠ざかっていくコビーに問いただす気にはなれず、エースは何気なく部下の背を見送ると窓辺の自分の席へと戻った。

デスクに座れば仕事は山とある。
だが、エースにとってそういった紙面と向き合う仕事というのは、気分が乗らなければなるべくやりたくない仕事だった。
彼はさも仕事をしているかのようにパソコンに体を向け、目だけで同じ部屋に居る部下たちを見ることが好きだった。
これも課長の一つの職務の内なのであるから、エースにとっては願ったり叶ったりな引き抜きだったと、心の内で自分の選択に満足する。

このイースト・ブルー社の社長を名乗るシャンクスとは弟を介して知り合ったが、初めて会った晩に早速俺のところに来ないかと求婚にも似た誘いを受けた時は、あまりに突飛な誘いだったものだから社長というのも信じられなかったのだが、二度、三度と会う内に彼の人柄に惚れた。転職は然程珍しくない社会になっても、やはり大きな決断は必要だとわかってはいたけれど、彼が買っている自分というものを試してみたい気にもなって、この会社に来ることを決めた。
役職は以前の会社に居る時と同じようなものだからと思っていたが、別の会社に行けば随分と勝手が違う。

ここで企画課を自分が前に居た会社の部署の色に染まるよう、部下を導くことは容易い。
要は自分のやりやすいように指揮すればいいだけだ。

だが、エースは何が自分に向かないかということをよく知っている男だった。
無理はせず、だが努力をしないわけではない。

兎に角も、エースという男はわざわざ周囲に自分を合わせるよりは、自分がこの場に馴染んだ方が誰にとっても楽だろう、と一日目が終えたその夜には即決した。だから敢えて自分からどうこうすることもない。それだけこの企画課が前任者の力もあるのか、適材適所に人材が配置され、ましてや下手に口を挟んではいけないだろうと思わせる安定感を感じ取ったのだ。

つまり、エースが一番初めに手がけた仕事は、ゲンのように企画課の皆に慕われる課長を目指そうとしたことではなく、この企画課の皆が適材適所で動いているならば、働きやすい環境を守ることが自分の務めなのだと自覚し、まずは企画課の人たちを良く知ろうとしたことだった。

通常の業務をこなしながら──これは、企画課である以上、個々の企画案や仕事の進捗状況を具体的に把握し、経験から、作業を中断させた方が良いと思えば口に出さなければいけないから、前任者との違いを考える暇はなかったが──企画課の中で働く、いわば自分の部下となる彼らを観察した。

ん?そういえば、この席は窓際だな。

ぼんやりとパソコンに向かっている振りをして、その実人を見ているだけとは、一昔前に流行った窓際族でもあるまいし、とエースは内心で自嘲しながら、この業務を続けた。

その内、いくらか経ってからだったのか、もしくは初日から彼女の存在に自分は気をとらわれていたのかはわからないが、無性にナミという部下が気になるようになった。

話しかければいかにも慇懃な態度で接してくるのだから、本当はもっとさっぱりした気性の女なのだろうということは想像に難くない。

それは自分に「猫を被ってる私の本性を見抜くことが出来る?」と問いかけるも同然だ、とエースは俄然やる気になって彼女の観察を始めた。

歩くときに、無駄な所作があまりない。
それだけでもエースは嬉しくなった。
無駄な動きを見せない歩き方というのは、見ていて飽きない。

しかもナミは、いわゆる美人の類だ。

肩に下ろした髪がふわりと揺れる様が見たくて彼女の名を呼ぶ。
自分に呼ばれて机を離れ、好む歩き方をする女が近づいてくる。
とんでもなく満足感を覚えるから、些細な会話を持ちかけてみれば、ナミは呆れ顔をちらりと見せる。

そうすると、エースは、ナミの本性を垣間見れたからと内心で喜んだ。

また、ある日、5月とは思えぬ陽気の下、ナミはいつもは下ろしている髪を後ろでまとめ上げ、出社してきた。
今日は暑いわと同僚たちと話す彼女の、その白いうなじに面食らった。

今まで自分が見てきたナミなどは、所詮表面でしかなかったのだと思い、エースは愈々この女の素顔を見たくて堪らなくなった。

この調子でナミを見ていることを、自分ではナミとの賭けだと信じ込んでいた。

だからナミがとうとう6月に入ったその日、ついに敬語で言葉を飾ることも笑顔を作って慇懃な態度を見せることも忘れて自分を怒鳴った時にエースは、素直に心中で喜んでいた。
己の心がわくわくと弾んだことを感じ、そしてそのまま機嫌に合わせて旨い酒を飲み、家に帰ってついにやった、と心地良い気分で体を横たえた。深夜の帰宅だと言うのに、疲れを感じてはいない。

そしてここまで来て、ようやく、あぁ俺はあの女に何て惚れこんじまったんだか、と、誰に聞かせるでもなく呟いた。

そうだ、惚れてるんだ。

飾る女の飾らない顔が見たいというのは単なるきっかけだろう。

きっかけなんかはどうでもいい。

要は今日の俺がナミを見て喜んでいるかどうかだ。


喜んでるさ。
あいつの顔を見ただけで次はどんな顔にさせてやろうと考えるだけで心躍る。
世間は梅雨入りしそうだってのに、この晴れた気分はどうだ。

乱雑な部屋の中、ベッドの上で寝転んだまま自分の手を見てみる。

この手で彼女の肌に触れたら、今度はどんな顔を見せてくれるだろうかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。

「ナミ、か。」

いい名だ。

いい名だ。

何度も繰り返し呟けば、気分は最高潮。

やはり転職は正解だった。

会社が変わったことも、その会社で女に惚れたことも、運命とか言うつもりはない。

エースは、今日の日の中で見出した喜びを一人楽しみ、手を空中で握ったり開いたりしてもう一度「ナミ」と言った。

心地良い眠りが彼を誘った。




この調子で一週間が過ぎた。
各地で梅雨入りしたというニュースが毎晩、テレビを付けるたびに流れる。
だが、企画課の室内は元来明るい気性のエースが殊更機嫌良く、社員たちに明るい声音で話しかけ、明るい笑顔で冗談を交わし、それでいて仕事はスムーズに進んでいっていたから、窓の外は梅雨であるということを忘れそうな雰囲気が続いていた。

月末に初夏の新商品が店頭に出されるまでの準備に、翌週からは忙しくなるだろうことをお互いに察していたからかもしれない。
この一週間はせめて楽しもうとする空気が部署内に流れていたのだろう。
エースはそれを知ってはいたが、大きな仕事に向けて張り詰めていくというものは彼の嫌いなことではない。
むしろ、それを達成した時の喜びは仕事をすることによって何よりも価値を持っていることを知っているから、さして口を挟む気もなく、いつもの通り部署内の人間観察を、上辺では茫洋としながらも、窓際の雨音が良く聴こえる席で今も尚続けていた。

そしてふと、気付いてしまったのだ。

ナミがコビーに何かを言いつけて、自分は席を立った隙にコビーの後を追ってエースもまた席を立った。
部屋を出て行こうとしたコビーの肩に手を掛けると、不思議そうに振り返った彼に開口一番、エースは「ナミはどうした」と尋ねた。

「ナミさんですか?」

「あぁ、いつもの覇気がな。ないと思わねェか?」


エースの目に、ナミは困憊しきって見えた。
ただ、声はいつもの調子で厳しく、時折優しく、時折弾む。
それだけに見ていて痛々しい。
先月コビーが仕事でクライアント先に迷惑をかけた時、エースが気付けばナミはもう部下の失敗を払拭するために動き出していた。彼女は仕事に対してえらく真摯で、そこもまたエースが気に入った由縁でもある。だからすぐにエースの頭にナミが今、疲労して見えるのは彼女の携わる職務の内に何か悩みか心配事があるのかという、勤めて課長的な危惧が浮かんだ。
自分に報告がないというのもおかしな話だが、最近ナミにちょっかいを出し過ぎた自分を省みて、ならば、あの気性の女が言い出し辛いこともあるのかもしれないと、先にコビーに問いただしてみたが、コビーは一切思い当たる節がないらしく、むしろ自分に「そうでしょうか?」と返してくる。


(・・・違うのか)

じゃあ、プライベートなことだ、とエースは即考えを直すと、改めてナミの様子を今度は注意深く見守った。

仕事には何の支障もない。
支障もないどころか課の中では新商品の企画のため、中心となって張り切って皆を引っ張っている。
そう人数が多くもない企画課の中でも、ここまで一人が頑張れば他の皆も追随して無駄口を止め、熱心に手を動かしている。

エースは背の傍に在る窓ガラスを叩く雨音と同時に溜息を吐いた。

やれやれ、といった具合の軽い溜息である。

賭けなどと考えていた自分がばかばかしくなったのだ。


「どうも、まだまだわかってないね」


あぁ、けどもう梅雨入りしてるんだ。
誰だってアンニュイにもなるさ、と自らを励ました。

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