10月 brillante      - PAGE - 1 2 3 4
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バラティエがある住宅街でバスを降りたのは空がピンク色に染まりかけた、少し早い時間だった。
もしかしたらあの空は既に紫色を混じらせ、一番星が輝いていた時刻だったのかもしれないが、ゾロはよく覚えていない。
兎に角も、周辺の住宅地で、明かりがぽつりぽつりと灯されその光がふわふわと頭上の雲を優しく照らしているように感じた。
まるで少女趣味な感覚ではあったが、実際、周りの光が浮いているように見えたのだ。
ただ、ナミがその自分をつかまえて人の話聞いてないんだから、とつまらなそうに言う度にぼんやりしていた意識がはっと元に戻った。
そして馬鹿みたいに高揚した己を恥じ入っては閉じた唇の裏で歯を噛み締める。
朝から感じていた居心地の悪さはいつしか消えていた。
代わりにとばかりに妙に落ち着き払った心でありながら、耳には自分の体内で脈打つ鼓動が強く聞こえた。
呼吸は意識しているつもりでもないのに、自らの口を通る冷たい空気と、そして考えなければ出せない吐息とでどこかぎこちなく──静かだと言うのに冷静ではなかった。

あともう少しでバラティエが見えるという所まで来た時、ナミが小さく「さすがに夜になると寒いわよね」と呟いた。

あぁ、と曖昧に相槌を打つと、じわりと手に暖かさを感じた。
ナミが後ろから手を繋いできたのだと知るや否や、浮き足立っていた心がすっと潜められていく。

不思議だ。

普通なら逆じゃないか、とゾロは繋いだ手に、人知れず眉間の皺を僅かに深くした。

手を繋いだ途端、考えるのも照れくさいのだが、その瞬間から浮き足立つならまだしも、と思う。

それが全く反対でナミの体温を感じた瞬間にいわば空を彷徨っていたような己の意識がふっと地に降りる。

やっと人心地ついた。

ゾロはそう思った瞬間に、強張っていた肩の力をふっと抜いた。

ナミが痛い、と言う。

繋いだ手にぎゅっと力をこめていた。
オレンジ色の暖かい光が漏れるそのレストランの前に立った時、空は一層明るく染まって見えた。



♭          ♭          ♭



「ナミすゎんっ♪」

入るなり駆けつけてきた店員は、するりと流れる金髪を揺らし顔をほころばせた。
案の定、この男の視界には女しか入らないような構造になっているらしい。

来ていただけるなんて幸せだ、なんて甘い声を出すのを、ナミの後ろで聞いているだけで鳥肌が立つ。

「・・・?」そのサンジが不思議そうにぱちぱちっと瞬きをして俺に気付いた。

「何でテメェがナミさ・・・」

「こんばんは。今日は友達と待ち合わせしてるんだけど・・・」
「あ・・・はい、勿論伺って──ねぇナミさん、何でアイツと・・・」と言い掛けて、サンジは「ははァん」と顎に手を当てて頷いてみせた。

「おかしいと思ったぜ。ナミさんが彼氏連れてくるなんて・・・テメェ、ウソップ達は騙せても俺に嘘が通じると思うなよ、クソマリモ。」

要は、この数秒の間にこのコックの頭の中で俺がウソップ達にナミと付き合っていると吹聴したことになっているらしい。
どこから訂正すれば良いか迷うほどの勘違いっぷりだ。
とは言え、こいつには春先、ナミを送れと車を貸してもらった恩がある。
恩義と言うには軽い気持ちだが、感謝していないということでもない。

コックにさてどうやって説明しようかと思っているとナミが「あ、いた!」と店内の隅に向かって手を振った。

「ただいまご案内致しますv」

ころりと態度を変えてすっと俺の前から居なくなった男がナミの傍らに立ち、恭しい立ち居振る舞いでナミをエスコートしようとすると、ナミが微かに笑いながら「嘘じゃないのよ。」と言った。
その声は弾んでいる。

は、と目を丸くしたサンジにもう一度「カヤ達に今日彼氏とデートしてるから夜は4人でご飯食べようって誘ったの、私なんだから」とわざわざ説明して、俺に振り向くと「ねっ!」と同意を促した。

「・・・・まァ、違いはねェが。」

その通りだ。その通りなんだが、おそらくナミの胸中と自分の胸中とは大分違う。
明るく同意を促されても、低く返さざるを得ない。



昼頃ナミに来たメールは、ウソップの女からだった。
今、ウソップと居るところで夜には三人で食事をしないかという誘いだったのだ。
その後2〜3度のやり取りをしてナミは俺に「バラティエでカヤ達も一緒に食事することになったわ」と言った。
有難いような有難くないような気分のまま、今に至る。

今日はナミと二人で居たい気がした。
その直前に、この女が期待を持たせるようなことを口走ってくれたからだ。
一方で、どうにも慣れない甘い空気が腹にむず痒く、誰かが居た方が──ウソップなら尚更付き合いも長く気が置けない人物でもあるのだから──まだましだ、と思う自分が居たこともあり、結局流れに任せた。

だが、こうして今から4人で食事となるとその時間が勿体無い。
そもそもバラティエに来ることを思いついたこと自体、過ちであった気がする。
適当に家の近くで食べるか、家で食うかしていればすぐにでもナミを抱けた。
この女にしたって何で朝一番にそれを言わねェのか、とも思うまで至ったところでウソップが「ゾロ!?」と素っ頓狂な声で椅子から飛び上がるように立ち上がった。

「どいつもこいつも俺がコイツと居たら何か文句あんのかよ」と返していると、ナミの座ろうとした椅子を引き、彼女を座らせた後にサンジは反論しようと口を開きかけたが、何せ勤務中である。
別席の客に呼ばれて俺にだけ聞こえるようにすれ違い様、ちっと舌を鳴らして「後から説明しろよ、クソマリモ」と言って入り口近くの席へと向かい、二言三言話してすぐに厨房へと引っ込んだ。

「文句っつーか・・・いや、けどゾロ、お前本当にこの女と・・・その・・・?」

もごもごと口ごもりながらウソップはそれだけ言うと、隣からつんとカヤに袖を引かれ、渋々ともう一度腰を下ろした。
自分だけが立っているのも馬鹿馬鹿しい。
最後に空いた席に腰を下ろすと、ナミが口を開いた。

「コイツと私が付き合ってちゃ悪い?」

ごくごく自然に、何の裏もなく発せられた言葉である。
怒りを含んでいるわけでもない。
ただ、強い疑問というわけでもなさそうだ。
何とはなしに聞いた、という部類の質問だ。

その邪気の無い質問にウソップも少し落ち着いたのか「いや!」とすぐさま否定した。

「けどあんた、確か」と俺をちらと見た後で「あのエースって奴と」と言葉を濁してまた俺を見る。

わざわざ掘り返す必要もねェことをほじくり返してくれるものだから俺まであいつを思い出してしまう。

ウソップはあの男の名前を出したことで俺の機嫌を伺わねばと思ったのか挙動不審な仕草で俺とナミを見た。

「エースはただの上司よ。どうして?」

そしてナミは未だ御機嫌で首を傾げて心底不思議そうに問い返す。
ナミがそう言うのだから俺もまたそれに従うしかない。

「だそうだ。」

「だそうだ、ってゾロ、お前なァ。俺ァお前のことが心配で・・・」

ウソップが呆れて溜息を零す様を隣で見ていたカヤが「だから大丈夫って言ったのに」と苦笑まじりに言った。

「けどな・・・──」

長い鼻の舌か漏れる声が不意に押し殺されたたところで酒が運ばれてきた。
注文する前に出された酒だがおそらくはサンジがあのテーブルに持っていけと言ったのだろう。
俺やウソップに合わせたとも思えぬ芳醇なワインの香りがテーブルの上に満ちる。
店員が去ってすぐに、ウソップが言葉を続けていく。

「はっきり言・・・・・言わせてもらうけどよ。」

グラスを手に持つこともなく、ウソップは至極真剣な眼差しをナミに向けている。
そういやァ先月、ナミの事を誤解していると思えるようなことを俺の耳にも入れていた。
そんなことは俺が違うとわかっていればいいだけの話で、取り立てて俺から何も言わなかず、まァ聞くまでもないと思ったから電話を切ったのだが、ウソップはそれでは満足出来なかったのだろう。

「あんた、二股かけてんじゃねェか?」

ここで俺が俺はそうは思っていない、というのも妙だ。
カヤって女も自分が口を出すべき空気でないと思ったのか、それでも不安げにウソップの顔を見ている。
俺の隣に座っているナミは、ウソップの問い掛けにグラスを持とうとした手を止めた。

一瞬沈黙が下りる。

そしてまた刻々と静寂が重くなる。

店内にBGMは流れているし、厨房から聞こえるコックの声や、他の客の声なんかも在るというのに、全ての音が一色汰になって少しずつ遠ざかっているんじゃないかと思える。

つまり、どうも苦手な空気になってきたな、とゾロは考え、乾杯も待たず無意識の内にグラスに口をつけていた。

「ゾロ!勝手に一人で先に飲んで!」

今日は文句は言わないという取り決めを提案した女が真っ先に注意すると、それに続いてウソップの女が「先に乾杯しましょうか」と取り成した。

「何に乾杯するんだ?」

「バッカねぇ。もちろん私たちとカヤ達がこれから上手くいきますように、よ。やだ、こんな照れること言わせないでよ。」

そう言ってナミは頬を赤らめて俺の背をバンと叩くと、鼻歌にも似た声で「じゃあ乾杯ね」とグラスを手に取った。

釈然としないのは、相棒のカメラマンだ。
さっきの質問の答えが気になって堪らないのか、けど、と言い掛けた。
それもまた隣に座る女に「ウソップさんも」と促され、渋々とグラスを手に持つ。

4人でグラスを鳴らしあう。

俺は酒が飲めればそれでいい。
目の前に座っていたウソップのグラスと音を鳴らせばそれで十分だ。
グラスに口を付けると、カヤと楽しげにグラスを鳴らし合わせ、続いてウソップのグラスにもこつんと合わせたナミが「んもうっ」と言いながら飲もうと傾けた俺のワイングラスに軽く、自分のグラスを合わせた。
それから、待ちきれなかったのか嬉しそうにくいと、口に酒を含む。

「美味しい!あ、料理はどうしたの?注文した?」

「いいえ。サンジさんが任せてくださいって仰ってたけど・・・」

「そう。じゃあ頼まなくてもいいのかしら。」

「揃ったらご用意しますって。」

「さすがね。気が利・・・」

「なァ、二股・・・じゃ、ねェのか?」

珍しい。

ウソップが食い下がっている。


ウソップは、一言で言えば臆病な気質を多分に持った性格だ。

臆病だけでないことは知っているが、例えば、俺を怒らせることで仕事が行き詰ったりすることを極端に嫌がる。
職場でも女連中に口うるさく言われれば真っ青な顔で謝る必要もないのに謝ることがある。
なるべく、この場が悪い方向へ向かわないようにと気を使う節があり、俺には到底真似出来ない低姿勢を取材先でも見せるのだから有難い。
まァ大抵は謝りに謝ったその後で、二人きりになった途端、俺が態度悪いように見えるだの、一緒に機嫌悪くなってどうすんだよだの、俺と仕事してたら絶対将来禿げちまうだのと愚痴を零すのだが。

そのウソップが唯一譲れないものがあるとすればカメラだ。
カメラについては頑として譲らない時があり、そんな時は先の悪いことを予想して臆病になることも忘れ、真っ向から相手と対立することもある。

この状況で言うならば、つまり、カメラ絡みの話でないのだからウソップが食い下がる状況ではない筈だ。

そのウソップが未だナミに食い下がっている。

いつも酒の席を盛り上げることに務めている男が、珍しい。

「何なのよ、さっきから二股二股って。」
「だってあんた、この前いくら聞いてもゾロと付き合ってるなんて一言も言わなかったじゃねェか。」と言って、ウソップは怪訝そうに眉を潜めた。

「ゾロはしっかりしてるように見えてどっか抜けてっからな。」

「何だそりゃ。」

呆れて一気に力が抜けた。
俺のどこが抜けてんだ。
いや、今確かに力は抜けたがそういう意味じゃなく、俺のどこが抜けて・・・同じことしか思いつかねェ。
つまり俺のどこが抜けているというのか全くわからない。

「だからお前のそういうとこがよ、抜けてるっつーか・・・普通、他の男と一泊とかしてたら疑うとこじゃねェか。」

「あぁ、確かにゾロって抜けてるわ。常識がないって言うのかしら。だって、今日のお昼にどこに連れてってもらったと思う?牛丼よ、牛丼。安くて旨い店があるからって散々歩かせて辿り着いた先が牛丼なのよ。数ヶ月ぶりのデートって言うのに牛丼!」

「牛丼?って、あの編集部の隣の?」

まさかその話を蒸し返されるとは。
職場に近くにあって、俺が良く行く店で、しかも旨くて安いといったらあの店しかないだろうとナミを連れて行ってその後は笑顔ながらもちくちくと何故久しぶりのデートで牛丼なのか、と責められたのだ。しかも数十分おきに。そうまでされてようやく、ナミは牛丼を歓迎していなかった気がしてきたのだが、せっかく晩飯の頃合が近づいて、ナミがその話をしなくなったと言うのに、よりによってまた牛丼の話題に出てくるとは思わなかった。

「・・・旨ェじゃねェか。」

「そりゃ美味ェけど──けど、お前デートで牛丼って学生ならともかく・・・」

「じゃ、テメェらはどこ行ったんだよ。」

どうせウソップの気に入ってる店っつったらラーメンか立ち食いそばだろう、と踏んで聞き返してみると、ウソップの隣から「今日は」ともじもじと会話に割って入った女が「私がお弁当を作ったんです」と言った。

ウソップがでれんと相好を崩して、すぐにまた俺を見てふふんと鼻を鳴らす。

「そりゃもう、う、う、美味ェの何のって・・・カヤのああ、あ、愛情!がこもっててよ、おにぎりなんか全部具が違うんだぜ。おかずも俺の好きなモンばっかりで・・・」

照れ隠しにどもった。

それなりにうまくやっているようで何よりだ。
いや、うまくやっているのは仕事中散々惚気られてっから知ってはいたので今更新鮮な感動を覚えるまでもねェが。

「いいわね。手作り弁当。」

ナミはそう言うと「私たちもやりたいわね。」と俺を見た。

「やるって、いつ。」

「んん・・・あんたの仕事次第じゃない?不定休なんだから。」

「お前料理できんのかよ。」

「何で私が作ることになってんのよ?不公平だわ、女が作らなきゃいけないなんて。」

「俺が作れるとでも思ってんのか。」

「思ってないわよ。だから私、教えてあげる。あんたは手を動かす係。どう?」

どうって・・・──それならコンビニ弁当でも買ってきゃいいんじゃねェか?
俺の反応を見ていたナミは満足げに「冗談に決まってるじゃない」と笑った。

「でもいいわね、手作りお弁当持ってピクニック。寒くならない内に行きたいわ。ほら、前にお花見したところ。あぁ、でも雪見もいいわよね。しっかり着込んで寒い中でお弁当食べるのも、なかなか乙だと思わない?」

「思わねェ。寒いだけだろ。」

「そういうとこが、あんたって女心わかってないのよ。」

「───あァ?」

「あ、そ、その・・・寒くっても、二人でいれば暖かいから・・・」と、ウソップの隣から懸命なフォローが入ったところで前菜が運ばれてきた。
いつも食わせてもらう飯と全く違う、まさにナミとカヤのために彩られた一皿だ。
あのコックの、この二人の女を持て成す気力が漲ってる一皿だ。

(高ェんじゃねェか、これ・・・)

口に運べばこれまた美味い。
あいつの料理の腕は認めちゃいるが、俺とウソップ二人で来店した時は一皿目からここまで豪勢な盛り付けをしなかった。
ウソップも同じことを考えたのかいつも俺らの懐を考えて出される料理とあまりに違うこの皿に、冷や汗をたらりと流している。

「さっきのことだけど」と突然ナミが切り出した。

「二股って、難しいわよ、ウソップ。」

まるで肯定的なことを言い出す。一体何を考えているのかさっぱりわからないので、とりあえず口を挟まずに聞くことにする。
が、ウソップは俺と違う結論に達してすぐに口を開いた。

「そ、そりゃあんた二股ってことか?ゾロ、お前も何か言ってやれ!お前が何も言わねェから・・・あぁクソ、不安的中だぜ!いいか、ゾロの事傷つけたらこの俺様が許さねェからな!」

「何よ、あんたが二股してるかどうか聞いてきたんじゃない。話は最後まで聞きなさいよ。」

意気込むウソップを一言で諌めると、ナミはくすくすと笑った。

「難しいわよ。だって。
 私、ゾロのことがずっと好きだったんだもん。」

どうやってあと一人、好きになれんのよと言ったナミにウソップはぱちぱちっと瞬きをしてみせた。



バカじゃねェか、この女。

そういう事言うか普通。

バカじゃねェか。

そんなわかりきった事今更言うかよ普通。





けど、まァ・・・

気分を害したわけじゃない。




早く抱きてェと思っていたら、二皿目を置くウェイターの手にウソップとカヤの顔がちらちらと隠れた時、ナミが「こういう事言うのって、恥ずかしいわね」と囁いてきた。

浮かれた声に、ナミが今日という日をどれだけ待っていたのかと思えば、いちいち思い悩んだ自分が情けない。

俺がぼんやりと空を見ていた時、あまり話さず傍らを歩いていた女も、きっと同じだったろうと思う。

それは、居心地の悪さではなく。

急いているわけでもなく。

この女の隣に居ることが、嬉しかったんだと改めて知る。



女があんまり楽しげに笑顔まじりの軽口を叩くから、その内、ウソップは疑心暗鬼になっていた事も忘れ冗談を言っては笑った。
当然のようにいちいち俺を見る女につられて俺も笑う。

あァ、解れるってェのはこういうことか。

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