10月 brillante - PAGE - 1 2 3 4 |
3 磨かれた窓ガラスを秋風がこんこんこん、と叩いていた。 何のことはない、街路樹の葉が時折落ちては透明なガラスにつんとぶつかり、落ちていくだけの、微々たる音だ。 それでも秋風が、と言った方が何とも詩的で様になる。 窓際に座っているエースは背に聞こえるガラスの音に時折耳を澄まし、そして決まって暇そうに欠伸をしては、企画部の面々と見渡した。 先月のクレームは致し方なかった。 ナミがそれを引き摺らず、かと言って開き直りであるとか、反省していないとかではなく、きっちりと受け止めながらもすぐに通常業務に戻ってくれたことは上司としては良い部下を持って嬉しくもあり、また、自分には女を見る目がある、と心躍る出来事だった。 仕事での失敗は誰にでもある。どれだけ気をつけていても、それはある。 決してナミがした事は正しいこととは言えないし、大切な商談の席で私情を絡めるなど上司としてはして欲しくない。 信じて任せた仕事なのだ。 裏切りにも似ている。 だが、ナミの真摯な表情を見ていると、あぁ、この女はもう全ての事由を考え、どうして自分が悪かったかとか、これから自分がどうすれば良いかと悟っている、と思ったのだから苦言を呈することなど出来なくなった。 要はそれをどう乗り越えるかだよなぁ、とエースは心中で呟いて、コビーと話しているナミをじっと見、人知れずふ、と笑った。 よいしょ、と小声を漏らして企画案に目を通す。 秋風がまたガラスをこんこんと叩いた。 外の空気が寒さを伴いながら澄んでいくと、会社の中までも間近に迫る冬に音を吸い取られたように、ふっと静まる時がある。 今、この瞬間こそがまさにその時だった。 春ののどかな日差しもいいが、秋の、窓ガラスの隙間から何となく入ってきているだけの僅かな澄んだ空気を背に暖房が付けられ始めた部屋で仕事をするのもなかなか、気分が良い。 読み終えた書類を置き、ふと顔を上げるとちょうどナミとコビーが話を終えて各々の席へ戻って行こうとするところだった。 おーいと気の抜けた声で手招きをすると、二人が顔を見合わせた後でどっちを呼んでいるのかとばかりに自分の顔を指差している。 「ナミ、ちょっと」と呼ぶと、コビーがぺこんとナミに挨拶をして自分の席に座った。 新しく届いたカタログで顔を隠しながら、こっちを見ているのは丸わかりだが、いつものことなのでさして気にも留めず、机の前に立ったナミに「どうだ、調子は?」と尋ねた。 「順調よ。明日の会議には・・・」 「違う違う、そっちじゃなくてさ。」 手を振ると、ナミはわかってたとばかりに唇を緩やかに曲げ、無邪気な笑顔を作った。 「最近そればっかりよ、エース。自分で気付いてる?」 「そりゃ誘いを蹴られてばっかじゃな。」 あの男と何かあったのかと内心、はらはらするってもんだ──という台詞が浮かんだが、これでは無粋そのものだ。 加えて、最近のナミは揺るぎが無い。 自分の誘いも巧みに交わしてそれで居て、距離感が同じなのだからエースとしては、何とも違和感を覚えてしまう。 せっかく見えたと思ったナミの本音がまた薄い霧で隠されているかの如くである。 どんな言葉を言っても、どれだけ誘っても笑顔でするりと交わすというのは、ナミが安定しているからではないか。 つまるところ、あの男との間に何かあったからではないか、というのがエースの結論だ。 かと言って、ナミが浮き足立っているような素振りは一切ない。 いつも通りなのだ。 もっと喜ぶもんじゃねェかな、普通、とエースは胸中首を傾げることもしばしば、気付けば誘い続けて早数週間。 既にあと数日で10月が終わろうとしていた。 「蹴ってるんじゃないわよ。本当に用事があるんだもん、仕方ないわ。」 あぁこれだ。 結局こうやって、営業用スマイルで鉄壁の守りに入っちまう。 「つれないねェ。ま、気が向いたらでいいさ。俺はいつでもいいぜ。あんたのための時間ならいつだって空いてるしな。」 事実、ナミと二人の時間を持てるならどんな無茶をしても時間を作る自信はある。 どんだけでも待てるさ、と言う代わりに笑顔を浮かべると、ナミは二度ほど瞬きをしてエースを見た後に、「・・・そうね。」と突然頷いた。 「いいわ、飲みましょ。私も話したいことがないってわけじゃないんだから。今夜は大丈夫?」 話したいことがある、という言葉にどきりと一瞬心臓が痛くなった。 あぁ、何かヤベェな、という危険信号だ。 「はー・・・情けねェ」と、突然我侭を言う子供のように机に突っ伏すと、ナミが目を丸くして驚いた。 「何よ、いきなり。」 結構繊細だったなァと思っちまってさ。 俺ん中にもそういう自分が居たことが情けねェ。 ああ、情けねェ。 一体何だってこんな俺になっちまったんだか。 不思議そうなナミに「今夜な」と突っ伏したまま言った。 「・・・ん、・・・・」 唇が離れた後、ゾロは合いかけた視線をすっと逸らした。 自分の部屋ではないということもある。 晴れた日に、ナミが窓を開け放していれば薄い色のカーテンが風に靡くその間にナミの部屋の中がちらりと見えることがあった。 ただ、自分が住んでいる部屋はナミの部屋より多少低い位置にある。 だから天井ぐらいしか見えない。 その天井の色も、別段興味があったわけでもなく、この部屋に入ってから初めてこんな天井だったのかと思ったぐらいだ。 ナミが赤いケトルでお湯を沸かしている間、窓際の丸いテーブルの傍らにちょこんと置かれた椅子に座って待っていると、この位置からは自分の部屋の中がよく見えるのだということに気付いた。 朝の自分は夜のことなど考えていなかったし、そもそも、留守をする時にカーテンを必ず閉めるだとかそういう事をゾロはあまり考えない。 自分がカーテンを閉め忘れた日はこのナミの部屋からはあの散らかった雑誌も脱ぎ捨てた服も見えるわけだ。 成る程成る程、とある考えに達して頷いているとナミは「変なの、一人で何してるの?」と言いながらコーヒーを持ってきた。 「酒じゃねェのかよ」と言うと至極冷たい視線だけが返ってきたので、大人しく焦げ茶色の液体が入ったマグカップを受け取った。 「バラティエであんなに飲んでまたお酒?」 「テメェだって飲んでただろ。おい、何ぼーっと突っ立ってんだ。」 「そこ、椅子が一つしかないのよ。私が座れないわ。」 「じゃ、床にすわ・・・」 バカ、とナミが言った。 その言いようがひどくか細く、愛しげに笑うものだから、ゾロは不意にぱっと窓の外に視線をやり、「昼なら見えんのか」と窓の向こうの己の部屋を指差した。 「こっからいつも俺んち見てたんだろ。お前。」 ニィと口角をあげる。 この女が照れるかと思い、少し意地悪な冗談でもと思った。 すると、ナミは照れた素振りも見せず、それどころか眉間に皺を寄せて呆れたようにため息をついた。 「あんたの家なんか見て何が楽しいのよ。」 強がってるのかと思いきや、そうでもないらしい。 ナミが持っていたマグカップを小さな丸いテーブルに置き、湯気の立つその傍らに白く細い指をついて窓の外を覗き込むと、ナミの鎖骨がちょうどゾロの視線にある。 「あんたの事を見てたの。」 こっから。 そこに座って、と今ゾロが座っている椅子を指した。 目の前の女が、だ。 少し動けば揺れるオレンジ色のその髪が、自分の鼻先を撫でるというほど眼前に迫った女が、それを言った。 「だって、あんたって──ん・・・・」 腕を僅かに引いただけですうと呼吸と同じぐらいゆっくりと、女の甘い息がゾロの唇に重なった。 顔を傾けることも忘れ、一つ一つの声を確認しているようにゆっくりと唇を開く。 ナミもまた、それに応えて額と鼻筋とをつけたまま、伏せた睫に縁取られた瞳をうっすらと潤ませ、その柔らかな唇を開き、吐息を漏らしては閉じ、ゾロのキスに恍惚としてまた開いた。 己の唇に比べ、なんと柔らかいのかとゾロは思い、記憶の中にあったナミの唇の感覚を思い出そうとした。 だが、出来ない。 あの日、どうだったかと今日まで幾度と無くあの感触を反芻し、思い出してはこの女を抱きたくなり、葛藤し、あの夜に拘泥する己を半ば後悔し、ただ、ナミという女を欲してきたというのに、出来ない。 今在る感触で全てが吹き飛んだと言うに等しい。 それほどに甘く、柔らかく、心地良い。 舌を絡ませず、唇を押し当てては離し、互いの唇同士を緩慢に啄ばむだけの行為だ。 それだけだと言うのにぎゅうと腹が締め付けられていく。 動物同士が鼻先を付き合わせ、親愛の表現を示しているようなものだ。 こりゃ、この女の親愛の証かと思ったところでナミはそっと顔を離した。 閉じきらない瞳は伏せられた睫の奥で潤み、甘いキスの余韻に浸ってゾロの唇を見、そしてあれだけ柔らかかった唇をきゅっと噛み締める。 ──途端に気恥ずかしくなる。 ゾロはぱっと顔を逸らすと、何だ今のは、と己に問うた。 唇をぐいと腕で拭く。 ナミに対して、ゾロはさも余韻を拭い去りたいかとばかりだ。 (何だ、今の。)と、もう一度考える。 たかが唇を重ねただけで、あれだけ気持ち良かったのは生まれて初めてだ。 ナミのすっと通った鼻筋の、その先が自分の鼻の頭に当たっただけで心臓のあたりが痛くなった。 重なった唇の動き一つ一つに、腹の中で何かが疼いた。 この女を抱きたいのに、このまま、このキスをずっと続けたくなった。 言いようのない快感が体中を支配し、じゃあここからどうすれば良いかということがすっぽりと頭から抜け落ちていた。 「・・・・ゾロ?」 ナミが問うように呼び掛けて、ようやく我に返る。 数秒の沈黙すらも重く長い。 ちりちりと肌に痛いナミの視線に、「あ」ととりあえず開いた唇から声を漏らして、次にゾロは、ずっとマグカップを持って熱くなった手に気付いた。 「熱ィ・・・───」 テーブルの上に慌てて置く。 跳ねたコーヒーは、それでもこぼれずに済んだ。 「飲まねェのかよ、それ」 「飲まない。」 ナミが言った。 「・・・ゾロは?」 「───後から。」 もう一度、キスをする。 今度は迷わず舌を深く入れる。 それでも時折は、ゾロもナミも先刻までのキスを思い出したようにふと顔を離してはすぐに唇を啄ばみ、そして今度は深くそれを合わせる。 ナミの肩を抱くようにして引き寄せると、その細くしなやかな体はゾロの膝に跨った。 短く刈られた髪に差し込まれた細い指は、くいっと掴んでは感触を楽しむようにすぅと浮いてゾロの髪を撫ぜた。 舌を絡ませたままで、あ、と肩を震わせる。 跨ったことで自由が利き辛くなった足をゾロの手が這っていった。 白い太ももに手の平をぴたりと付け、既に少し捲れかけていたスカートの裾から入り、ゆっくりと節くれだった長い指が下着の縁に掛かっていく。 ナミはもう一度、切なげな吐息を漏らした。 少しよじろうとした身も、肩を抱いたゾロの手がそうはさせまいと押しとどめている。 「・・・う・・・ん、ゾロ・・・─」 体を動かせず、唯一自由の利く顎を上げると、その項はゾロの欲情をそそる。 首筋に唇を置き、ゆっくりと舐める。 緑髪を掴んだ手が離れ、その指先がゾロの背を服の上からなぞっていく。 その指先に、今度はゾロの肩が僅かに震えた。 「あぁ、連れが来るんだ」と言うと、バーのマスターはこちらの言いたいことを察したようで、それ以上何も聞かず、冷えた水とおしぼりをことりとカウンターに置くと、自分の仕事に戻った。 ナミと二人で飲んだことがある店だ。 あの時はあの男が好きなのだと聞かされた。 今回も同じ話じゃないかと直感的に感じたが、だがエースは前向きに考えることに努めた。 あの時だって、自分は諦めなかった。 その結果、ナミに少しずつでも近付いていると思う。 今ははっきりとナミだってこっちの気持ちをわかっているだろうし、だとしたら、あの男の事だけを考えているわけじゃない。少しずつでも自分のこと考えてくれるようになっているなら、前進だろう。 少々強引だったかもなとも思うのだが、そうでもしなければ、じゃあ、どんな方法があったかと自問自答してみれば、やはり好きな女が目の前に居て、毎日その顔を見てるのに我慢なんか出来なかったろうという答えに辿り着く。 あの男は随分とナミに手粗い。 自分なら、惚れた女にそんな馬鹿な真似はしない。 ナミが望む通り、いくらだって愛してやるさ。 いつだってナミが笑顔で居られるように─── ここまで考えて、エースははっと気付いた。 いつからか。 あのクレームの頃だ。 ナミはずっと、俺の前だって、誰の前でだって笑顔じゃねェか。 「待たせちゃったわね、ごめん。」 振り返ると、ナミが悪びれずに笑った。 |
<< BACK NEXT(R18) >> back to top |