静かな森に一陣の風が吹きぬけた。
木々のざわめきに空を仰ごうとすると、風は大木の葉を揺らして鳥達が一斉に飛び上がった。
だから、名を呼ぶことができなかったのだ。
君想う
1
空の民とシャンディアの民とではそもそも文化や慣習からして違うのだから、交流が始まれば目新しいお互いのそれに、人々はすぐに興味をそそられた。これから共にこの白い雲の上で生活をしていくのだから、それも当然の話なのだが、ワイパーはどうも釈然としない。
今日も今日とて、カマキリは空の民の、髪をピンと空に向けて毛先を丸めたあの特異な髪型をやってみようとしたが、自分の髪型では無理だと気付いちまってな、と傍らで肩を落としていた。
幾度目かの溜息をついた後にいい加減うんざりして、別にそれをする必要がないだろうと言えば、カマキリは顔を上げてワイパーの頭をじっと見た後に、その骨ばった手の平を刺青の入っていない左肩をぽん、と置いた。
「・・・どういう意味だ。」
「まァそんな顔すんなよ。あれだろ?お前も・・・」
「するか。」
「いいじゃねェか。素直になれよ。ま、ゲンボウに比べりゃ俺の方が・・・いや、お前こそその髪解いたら案外できるんじゃねェか?」
「くだらねェな」
「ラキがな」
突拍子もなく仲間の女の名前を口にして、カマキリは手を頭の後ろで組むとごろりと土の上に転がった。雲に慣れていたその仕草は、土の上でやるとどうも痛かったようで、言葉を続けることも忘れてもぞもぞと体勢を直しながら「いてェもんだな」と呟いた後にカマキリは丸いサングラスに青空を映して「羨ましいよなぁ」と言った。
「コニスちゃんとお揃いとか言ってんだぜ。羨ましいよな」
ワイパーに逡巡させる呟きを残したまま、カマキリはもう一度溜息を落とした。
その言葉に、羨ましいとはどういう意味だと聞けばカマキリのことだ。
すんなり答えは返ってくるだろう。
シャンディアの若者の中で空の民と今日はこんな事をしただの、こんな事を教えあっただのと、いわば共同作業をすることが彼らの中では流行している。
夜ごとに集まって仲間内で酒を呑めば、必ずその話題になるのだ。
先陣切って空の民に争いを仕掛けてきただけに、自ら空の民に接触しようと試みもしないワイパーにしてみれば、その話題を皆がするたびに歯痒い。しかも、彼らがまず欠かさない話題というのがある空の民の女のことで、あのエネルとの戦いの後に自分の看護をしていた彼女のことを、看護してもらって羨ましいだの、誕生日は聞いたかだのと半ば彼らも悪ノリして話に花を咲かせていた。
その度に、あんな女鬱陶しいだけだと何度も言ったのは、確かに自分がそうと感じたからだ。
何せちょっと体を起こしただけですぐにベッドの傍らに走り寄ってきて、どこか痛いのかと聞く。
外の空気でも吸おうかとベッドから降りれば、それこそ血相を変えて、どこかへ行くなら自分がついていくと言う。
頼んでもいないのに、自分の手をその細い肩に回させようとするものだから、その非力な手を振り払えば困ったように笑って、それでも後ろからずっとついてくる。おかげで建物の外に出てもどうも開放的な気分になれなかった。
だが、仲間達はそんな自分の立場が羨ましいと言って、愈々彼女に近付こうと躍起になっている。
ラキはその女と同性なのだから、別に気にしてもないだろうと思っていたのに、シャンディアの皆と喋っている彼女と話してみるといい子だね、と言っては仲間の会話に参加するようになった。
ついに今日は黒髪で三つ編みを結って、あの変なお団子頭をカマキリの前でして見せたらしい。
それを、カマキリが羨ましいと言う。
『それ』は、カマキリが仲間内で一歩コニスに近付いたラキを羨ましがっているのか、それとも別の感情からくる羨ましいなのか、ワイパーは暫く考えこんだ後に、やはり言葉が出ない自分に苛立って「くだらない」と吐き捨てるように言うと、足元の草葉を鳴らして立ち上がった。
付き合い悪ィ奴、と愚痴ったカマキリの声を背に青い緑を踏み進めていくと、その内建設中の町の喧騒は遠くなって先祖が守ったという遺跡の、戦いの痕跡を懸命に片付けようとしている人々の声が聞こえてくる。
やがて姿が見えれば、その内の一人が自分の姿に気付いて手を上げた。
正直、彼には若い頃から激情を以って接してきたからどんな顔をすれば良いのかわからない。
また神と呼ばれることになったガン・フォールは、挨拶も返さぬ自分に腹を立てた様子もなく、開いていた図面を閉じて会話の相手に手渡すと、こちらへと歩いてきた。
「体の調子は如何かな」
「見りゃわかるだろう」
「ふむ。お互いまだまだ包帯は取れぬらしい」
何がおかしいのか、愉快げに声をあげて笑ったガン・フォールは鎧を身に纏った姿でなく、白い衣を風にはためかせているただの好々爺にしか見えず、そうなるとワイパーもどこか警戒していた自分が馬鹿げている気がして「年寄りの方が治りが遅いだろう」と言った。
刺々しさがどこか失われた声音に、神は少し目を細めてじっとワイパーを見据えた。
「おぬしはやらぬのか。近頃、シャンディアの民の間ではなかなかに嬉しい流行があると聞くが」
「・・・やると思うか。」
「空の民も同じくである。シャンディアの者と同じ服を着る民が多くなった。喜ばしいとは思わぬか?」
「好きにすればいい。だが、俺はやらねェ」
「なに、それはおぬしの好きにすれば良い。しかし女性というのは服装や髪型を変えると随分と印象が違って見えるものである。先ほどなどは、あのシャンディアの女戦士も随分と雰囲気が変わっていてな。」
先刻、カマキリに聞かされたばかりのラキのことを思い出して「あぁ」と応えかけると、ガン・フォールは顎の髭を撫でながら「そしてまたコニスも随分と」と思い出すように呟いた。
「二人でけが人を看護してくれていたのだが、患者たちも喜んでおったよ」
勿論、我輩にも眼福であったなんて神の冗談を耳にしながら、足を、診療施設ともなっている遺跡へと向けた。
別に、今聞かされた話の所為ではない。
自分もあの戦いで怪我を負い、ずっとその遺跡の中に作られたベッドで寝食する生活なのだ。
今朝もそこで起きて、食事をした後に煩い女の目を盗んで出てきた。
昼食時だから、そこに戻るだけなのだ。
背には、ガン・フォールがまた愉快げに笑う声が空に響いていた。
NEXT>>>