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「ナミは来てねェのか?」
至極残念そうな声を出されてはわざわざ楽屋にまで顔を出したウソップにしてみても気分の良いものではない。ムッとしてそれでもつい先程自分の観念を根底から覆してくれたこの男に賞賛の言葉を述べたいという気持ちが先立って、その言を聞こえなかったことにしようと「良かったぜ」と話を切り替えた。
「俺ァよ・・・今までクラシックなんつーもんは毛嫌いしてたんだがな。あんたのテクは一流のギタリストに通じるもんがあったぜ、その速弾きにゃ・・・」
「ゾロ、ナミ来てねェってよ」
楽屋には練習用のピアノと、簡素なソファが置いてあるばかりでまさか他に人がいるとは思わなかったウソップは怪訝な表情でルフィが声を掛けた方へと顔を向けた。
見れば白いソファの向こうでのそりと緑髪の頭が起き上がる。
それこそクラシックには不似合いな風貌をした男は、ルフィと共に壇上にいた男で、彼の演奏にしたってクラシックのことなど詳しくもないウソップにしてみれば凄いものだろうと思えるものだった。
「え、えっと・・・あんた確かロロノア・ゾロだったな。俺は音楽雑誌の記者でウソップって・・・あ、名刺が確かここに・・・」
こんな演奏会なんかに顔を出すのは初めてで、同僚に聞けばそこまでフォーマルでなくて良いとも言うのだがカジュアル過ぎても浮くんじゃないかとも助言されて、結局迷った末にスーツを着てきたウソップは胸元のポケットから慣れぬ手付きで名刺入れを取り出してその中から一枚、白い紙片を手にしてゾロに手渡した。
節くれだった長い指でそれを受け取るとちらりと目を落としてゾロは頭をがりがり掻く。
こんな無骨な所作をする男が奏でた音は流れるようにやわらかく、それだけにウソップはシャツのボタンも外して、まるで家にいるかのように自分を飾ろうとしないゾロを眼前にして戸惑いを隠せなかった。
せめてルフィのように音と同じくして人当たりの良い男なのかと感じていたその予想は見事に裏切られて、ゾロは睨むような目で自分を見る。
「アイツは・・・」
ぽつりと出た言葉は、僅かながらに言葉尻が震えているようにも思える。
「・・・まぁ・・・アイツがどうかなるわけもねェか」
ぽいっと名刺を卓上に放り投げてゾロはまたごろりと横になる。
取り付く島もない男に困ってしまっているウソップを置いて、ルフィが天真爛漫な声で「ジュース買ってくる」と扉を開けた。
この男と二人きりになるのも居心地が悪いと感じたのだろう。
慌てたようにウソップがその後を追って部屋を出た。
軽く練習ができるように作られたこの楽屋は周りの音を遮断する。
まさに音一つない空間で暫し瞳を閉じていた。
「来るわけもねェ」
儚く消えていったのは、自分の声なのかとも思う。
さようならと言った彼女の姿こそが消えたのかもしれないと思う。
その証拠に今なお、自分の頭に過ぎるのはあの女のことばかりで──それもとびっきりの笑顔ばかりで、あの別れは嘘だったのではないかと。
だが彼女のいない時間ばかりが重なってそれは現実だったのだと知らしめる。
まるで夢見心地だと自嘲しては、偽の幸福感に酔い、真の絶望感に心の臓を掴まれたかのような痛みを覚える。
やるせなさに舌打ちすれば、瞼の裏で彼女がバカねと笑ったような気がした。
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「なぁ。何で今日ナミ来なかったんだ?」
どうもこのルフィという青年は今日が自分の演奏会であって客は皆自分を目当てに集まっているのだと気付いていないらしい。ステージ裏からそのままロビーに出ようとするものだから、ウソップが自分が買ってくるからと彼を引き止めて、慌てて買いに行って、オレンジジュースを彼に渡せばにぃっと笑った後にルフィはふと思い立ったのかそんな言葉を口にした。
「さぁ・・・俺に勉強して来いってチケットくれてよ。あぁでも何か様子が変だったかな」
う〜んと唸ってルフィがオレンジジュースを口に含んだまま考えこんでしまったから、何故と聞けば童顔の男はステージ裏の冷たい廊下をゆっくりと歩き出した。
「・・・ナミの奴、頑固だなぁ」
「あぁありゃ史上最大の頑固女だ。俺もあれほどまで言い出したら聞かないタイプの女は他に見たことがねェ!」
大きく頷くウソップにくるくる大きな瞳を向けて、ルフィが「ナミはいい奴だぞ」と真っ向から反論する。
「何だよ、今自分で頑固って言ったんじゃねェか」
「頑固なのはゾロとのこと言ってんだ」
「おいおい、まさかあの鬼編集長とさっきのアイツが何かあったとか言うなよ?いくら俺様だってそんなこと簡単に信用するほど・・・」
「けどあいつら付き合ってたのになぁ。何でか最近会ってねェみてェなんだ」
おぉっ。
言い切りやがった。
まさかあのナミと付き合える男がいるとも思えねェが・・・
あの男なら尚更うまくいくとも思えねェが・・・
「マジか?その話は・・・あんたの勘違いじゃねェのか?」
「知らねぇ。けど、ナミとゾロがケンカしてからナミ、俺んちにまで来なくなったんだ。担当だって変わっちまったしさ。この前の卒業演奏会だって、俺せっかくチケット送ったのに忙しいって言って来なかったしな。」
振り返ったルフィが不意に真摯な色を瞳に宿して、どことなく落ち着かぬ声音を漏らした。
「ナミに言っといてくんねェか。ゾロ、またどっか行っちまうんだ。今度は留学じゃなくてさ、向こうで暮らすって言ってんだ。働き口が見つかったとか言ってさ。」
「いやいや、待てよ。ナミの気持ちだってよくわかんねェのにゾロって奴の気持ちばっか押し付けてんじゃねェか、そりゃ・・・」
「ナミは頑固だからわかってねェんだ」
ほれ見ろ、やっぱりさっきもそう言ったんだろうと得意げになったウソップが胸を反らしたが、反応がない。
煩いぐらいにいつも明るく笑ってるルフィという男は、口を尖らせて押し黙ったっきり、ウソップをじぃと見つめるばかりで何の言も発しない。
「・・・な、何だよ。何が言いてェ?・・・いや、あのな。お前みてェにこの春大学を卒業したばっかの若者にはわからねェだろうがよ。大人の世界には色々あるんだぜ。周りは口出ししねェってのがルールってもんで・・・」
「もう一生会えなくなったら後悔するのはナミだ」
「俺んちに来ないのも、ゾロに会いたがらねェのも・・・ナミが後悔してるからだ。後悔したまんまなんかおかしいじゃねェか。」
「ナミに、ゾロに会いに行けって、伝えてくれ」
普段の彼からは想像もつかぬ雰囲気に気圧されて、ウソップは自分でも気付かぬ内に大きく頷いていた。
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ルフィのコンサートに行かせたことはどうやら莫大な功を奏したらしい。
休日を終えて仕事に復帰したウソップは途端に仕事への意欲を燃やして今度はあれこれ調べてはナミに逐一細かいことを聴いてくるものだから、逆にナミは自分の仕事が一向に進まなくなってしまって閉口する他なかった。
それでも、やはり自分の目に狂いはなかったのだという喜びもあって、では先日のルフィの講演会の感想を記事にしてみたらどうかと突発的に書かせてみればまるでその場で聴いているかのような臨場感溢れるそれは素晴らしい記事をウソップが仕上げてくれたものだから、ナミはご機嫌さながら鼻歌を歌いながら校正も兼ねて何度も何度もその文章を読み耽っていた。
「どーよ。俺様の実力がそろそろわかったみてェだな」
鼻の下を擦ってウソップが大見得切るのは、彼の照れ隠しであることは手に取るようにわかる。
その証拠に彼ときたら鼻を鳴らして笑っているくせに頬を少し赤らめている。
「そうね、よくやったわ。ウソップ。私の見込み通りの男だったわね、あんた」
「いや、まぁ俺様の実力から言や、こんなもんは・・・」
へへ、と嬉しそうに笑ってウソップがふと、ナミの顔を食い入るように見た。
この女。
なるほど、編集長としてこっ酷く自分を叱り飛ばす女か、仕事の後に豪快に酒を飲む姿しか知らなかったから先日のルフィの話は彼の勘違いかそれをする男とも思えないがホラだったかと疑念が残っていたのだが、今こうして自分の記事を読みながら時折優しい表情を見せるナミは確かにあの男と何らかの関係にあったのだろうと確信する。
ナミの視線はいつも記事の終わりに差し掛かって止まり、そこで彼女自身も気付いていなのだろうが、口元を僅かに緩める。
書いた自分だからわかる。
その部分はルフィのことではなく、共演したロロノア・ゾロという男に対する賛辞の言葉を並べ連ねた部分であるということを。
「・・・よく、できてるわね。ちゃんとロロノア・ゾロのことも書いてるし」
ウソップの視線に気付いたのか、ナミは顔を上げて慌てて数枚の書類を机の上に置いた。
言い出すなら今しかない。
ルフィとうんうん頭を捻りあった結果のあの企みを、今こそ実行する時だ。
「お、おぅ。それでよ・・・ちょっと興味が沸いたから一週間後に取材のアポも取っちまったんだ」
「取っちまったって・・・取れたんならいいじゃない。あんたが仕事にやる気出してるなら私としちゃそれだけで万々歳よ。」
どもってしまったウソップを訝しむような目で見ながらナミが苦笑した。
「いや、けどまだ俺も日が浅いじゃねェか。だからだな、お前にもついて来てもらおうと・・・ほら、この前のあのバイオリン小僧の時だってお前の取材を横で見ててよ、やっぱすげぇなーって・・・いや、別に俺が自信ねェってわけじゃねェぞ。だが、今回はちょっと俺の仕事っぷりを見せてやろうと・・・」
「ウソップ、私だって忙しいのよ。要件は短く言ってくれない?」
「いや、だから来週の火曜日によ、取材に同行してくれって・・・」
「火曜日?あんたねェ・・・もう何ヶ月この部署にいると思ってんの?まさか私がいなきゃ何もできないってわけもないでしょうし・・・ダメだわ。私、その日は休み取ってるもん。あんた一人で行きなさいよ。」
「だ、ダメだっ!」
叫んでしまえば、ナミは一層眉を顰めて何があるのかと疑いの眼を向けてくる。
心中冷や汗が大量に流れ出て、けれどもこの計画を実行させなければと思うのは、ついさっきまでのナミの微笑みに全てを悟ってしまったからだ。
ルフィの言葉の通り、きっとナミは今でもロロノア・ゾロという男に今でも未練を残しているのだと思う。
二人の間に何があったかは知らないが、あの男も自分がどこの会社のライターかを名刺で知って、ナミはどうしているかと聞いてきたのだから少なからず彼女を待ちわびる気持ちを持っているのかもしれない。
いや、自分よりもずっと彼の近くにいるルフィがそう言っているのだから間違いはないだろう。
別段ナミに対して今までの自分は特に何の恩義も感じていなかったし、寧ろこんなクラシック編集部なんかに自分を強引に連れてきたナミを恨みこそすれ、彼女のプライベートに何があろうと力を貸そうなどと思っていなかったというのに、あのルフィという男があまりにも真剣に頼み込むものだからつい了承してしまった。
それでもさっきのナミの何とも言えぬ柔らかな笑みを見てしまえば、歯痒くなってしまって僅かに心で二の足を踏んでいた筈のウソップは彼女をどうにかしてそこに連れていかなければならないと声を大にしていたのだ。
「・・・い、いや。」
はたと気付けば編集部中の人間の目は何事かと自分に集められていて、ウソップは頭を振った。
「そ、そりゃ悪いとは思うが・・・これが最初で最後だからよ。そっから先は俺だって休み返上でいくらだって働いてやるぜ。とにかく、来週の火曜日ばっかりはあんたに来てもらわねェと・・・」
「あんたの労働だけで、この私の貴重な休日が潰されてたまるもんですか。」
確かに。
自分は一記者であるのに対して、ナミは敏腕編集長で、尚且つ若い感性を持ったこの女は会社上層部からも大きな信頼と期待を手にしている。自分の代わりならばいくらだっているが、彼女の代わりなどそうそういない。その価値を彼女こそがおそらく一番よくわかっているのだ。
あっさりと言い放って、ナミは片手をひらひら振った。
もうこの話は終わりだ、という事なのだろう。
だが、引き下がるわけにもいかない。
「・・・飲み放題だ」
苦肉の策にナミがピクリと眉を動かした。
「あぁ!くそっ!!奢ってやるよ、いくらだって飲みやがれ!」
「そうこなくちゃ♪」
数ヶ月同じ職場にいただけでもナミが酒好きということぐらいはわかる。
しかも無類の酒好きで、一緒に飲みに行って自分だけが潰れては男のくせに情けない奴なんて揶揄されて帰るのが常で、その女に自分から奢るなんて言い出すことの屈辱ときたらそれはもう凄まじく、だがこの策しか思い浮かばないのだから諦める他ない。
一つだけ喜ぶべき点は、ナミが急に乗り気になって早速取材時間を聞いては手帳に書き込み、どこの誰に会いに行くのかと話を詰めようとしてくれたことだ。
こうなれば後はルフィとの打ち合わせ通り、適当な嘘を吐いてとにかく彼女を約束の場所まで連れて行けば自分の役目は終わりというわけなのだから、財布の痛手と何故自分がここまでしてやらなきゃいけないのかなんて考えることも忘れてウソップは内心で安堵の溜息をついた。
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