全作品リスト>短編〜中編パラレル,原作ベースリスト>やさしい風
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すたすたと出て行ったゾロの背を追って校門を惜しむ心でくぐる。
何度目かに彼の名を呼べば、ゾロは人ごみも途切れた公園に入ってからおもむろに振り返った。

「何で今日来た?」

「何でって・・・言ったじゃない。私だってあんたがいるって知らなかったのよ」

「じゃなくて・・・」

あぁっと焦れたように呟いてゾロは刈り上げられた緑髪の頭を乱暴に掻き毟った。
口下手な彼の癖だ。
こんなときにこちらから口を挟んでしまえば、このゾロという男は途端にへそを曲げてそれ以上の言葉を紡ぐこともせずに黙って睨みつけるばかりということはよく知っている。

次の言葉を待って、ナミは青い芝の上に腰を下ろした。
木陰にもなったその芝は梢から漏れる夏の陽射しを時折受けて彼の左耳につけられた金色のピアスのようにその際を輝かせる。
あんたも座りなさいよ、と隣の芝をぽんぽん叩けば、ゾロは渋々といった面持ちも隠さずにどっかと腰を下ろした。

「・・・てめェに会うと思わなかった」

ぽつりと漏れた言葉には彼らしからぬ弱さが見え隠れしてナミはまだ耳に残る彼の音を思い出す。

「何よ。何か迷ってんの?それを私の所為にしようってわけ。ふぅん・・・とんだとばっちりね。」

「いや、だから・・・」

やはり言葉が見つからないのだろう。
小さく舌を打ち鳴らしてゾロは「ドイツに行く」と言い放った。

「大学の頃の教授が今向こうで教えてんだ。誘われて・・・」

「また、留学?」

いや、と遠慮がちに言って続いた言葉は不意に通り抜けた一陣の風に掻き消された。


「・・・だから。てめェには会わねェままの方が・・・いいとは思ってたんだが」


ああ、だから。
彼の奏でた音色にはどこか迷いが浮かび上がって。

じゃあどうして。


「どうして、あんな演奏するのよ」

「・・・・・・はァ?」

何の話だと言わんばかりにゾロが眉を思い切り顰めた。

「どうして・・・あんな・・・」

言葉にできないのは自分だ。
ついさっきまで聴いていた彼の音に確かに感じた彼の思いを独りよがりに幸せの余韻に身を委ね、まるで彼もそうだったのだと思ってしまったと、言えるわけもなくナミは唇を固く結んだ。

風に舞った橙の髪がはらりと落ちて力なく揺れる。

俯いてしまった女が何故急に暗い顔をしたかなどと無骨な男にわかるわけもない。

慌てて、おい、と声を掛けてその顔を覗きこんでみれば、ナミはふいと顔を逸らして決して目を合わせようとしない。


「いつ・・・?」

小さな小さな彼女の声をしっかりと聞き取ってゾロは「明後日の便で」と答える。
あっけなくも答えた彼の声はやけにあっけらかんとしていて、ナミは隠した涙を抑えることが出来ずに彼から逃げるように立ち上がった。
芝を払い落として「元気で」と言ったはずなのに、言葉尻は僅かに震えて、もう堪え切れなくなる。

「・・・ちょっと待て。てめェ人の話は最後まで・・・───」
「私に何を話すって言うのよ?もうゾロと私は何の関係もないんだから・・・元気でね」

ずきりと腹が痛むのは、この女の二度と見たくもない姿を今まさに、目にするのだと直感が告げてしまったからだ。
聞きたくもなかった女の震える声を耳にしてしまったからだ。

だが、女はもう以前のように振り返ることすらせずに走り去っていく。

真夏の陽はナミの髪を不釣合いなほどに眩しく照らして、ゾロの瞳にその残像を焼き付けた。


あの曲を弾きたくなったのは何故かはわからぬ。
ショパンなどは到底練習曲でもなければ手を出すものではなかった。
だがあの懐かしい部屋で手持ち無沙汰に来訪者を待っていた時、ふとナミのことを思い出してそれを弾いていた。

弾き終わればその意味は深く心に刻まれた。

己はナミという女を恋い、だがその存在を振り切って旅立とうとしたこの時に彼女に再び会ってしまった。
葛藤という他はない。

隣にいる女との日々を取り戻したいと願い、けれども出発を目前にして彼女と再び抱き合う仲になるわけにもいかないと思う。

彼女には彼女の生活があって、自分がそこに介入できる余地もない。
ルフィに聞いた話では、彼女はもうそれなりの地位を得ているというではないか。

付いて来いと一言言うことは簡単な筈なのになかなかそれを口に出せなかったのは、一度経た別れでまた彼女を傷つけてしまうことを怖れている何とも情けない自分が確かに心に存在するからだ。


そんな自分へのやるせなさばかりが胸を衝いて、苦しげに俯いたっきりゾロは拳を握り締めてその場に立ち尽くしていた。




*********************




バラードが頭から離れない。
彼の生み出した一音一音は深く心に刻まれて、柔らかな旋律も激しく重なった和音にしたって。
いくら頭を振ったって消えるどころか忘れなければと思う度に強く強く鳴り響いていく。
翌日には少し思わしげな笑みを浮かべたウソップが「昨日はどうだった」と聞いてきたけれど、それを叱咤する気力もないほどにナミは落ち込んでいて、心配したウソップがルフィに電話してみればゾロも同じように妙に苛立っているのだと言う。

「じゃ、やっぱケンカしちまったかな?」

『・・・さぁなー。それより、ナミに明日15時成田発だって言っとけよ。』

「お・・・?おぉ、そうだな。で、どの便だ?」

『さぁ?』

「便名わからなくて広い空港ん中で会えるか、阿呆ッ!」

『おー!耳が痛ェ!!ウソップ声楽部の奴らにも負けてねーな。』

あっはっはと明るく笑ったルフィにウソップがもはや何も言うまいと別れを告げて電話を切った。
見れば編集長はデスクに片肘ついてぼんやりと宙を見つめている。

(しょうがねぇな。ここは男ウソップ様の出番だろ!)

おもむろに立ち上がってナミの前に立った男はコホンと一つ咳払いをして「あのゾロって奴・・・」と切り出した。
途端にぼんやりしていた彼女の瞳が鋭く輝いてぎっと睨んでくる。
やはりケンカしたことは間違いないらしい。

「お、俺を睨むなよッ!お前らがケンカしたのは俺の所為じゃ・・・」
「誰もケンカなんかしてないわよ。・・・ウソップ。昨日私を騙した罪は重いわよ?」
「いや・・・俺はあのルフィって奴にそそのかされて・・・」

やっぱり、と呆れ顔で溜息ついてナミは机上の書類を片付け始めた。
今日はどうにもやる気が起きない。

どうしたって頭の中にゾロの音がこびりついて離れてくれないのだ。

何故かしら思い出してしまうのは彼と過ごした短い期間の甘さばかりで、辛かった筈の別れも責め苦に苦しんだこの一年半のことにしたってすっぽりと記憶から抜け落ちてしまっているのは、彼の音があまりにも優しかったからだ。

「そ、それより・・・明日3時の便で出発するらしいんだが・・・」
「何の話よ」
「だからそのゾロって奴が・・・ま、待てっ!俺を殺すなっ!」
「誰が誰を殺すのよ?」

射殺すような視線を送ってきたくせに、ナミは平然とそれを覆して冷たく笑う。

「ルフィがお前に伝えてくれって言ってたんだからな、俺は伝えたぜ!」

言うが早いかウソップはくるりと踵を返して自分のデスクに戻ろうとする。

「・・・ウソップ。私用電話の罰としてこの特集。あんた一人でやんなさい」

後ろから投げつけられた資料の束が彼の後頭部にばさりと当たって、はらりと落ちた。




*********************




苛立ちを隠すことは得意じゃない。



───ゾロのことなら尚更。



私の中で彼の存在はまだ、こうも大きかったのかと思えば優しい音色が途端に福音のように鳴り響いて彼を求めなさいと甘く囁いては消えていく。
そうはできないとわかっている筈。
彼に関わった時、私は全ての理性を失って心地良い音の波に揺られては子供のように喚くことしかできなくなる。

ゾロを私だけの物にしてしまいたい衝動に駆られては、恋も知らぬ少女のように我侭な言葉を口にして、こんなはずではなかったと後悔に責められる。

そんな自分に嫌気が差して、そんな自分に振り回される彼が愛おしくてけれども彼を困らせる自分への罪責の念はどうしたって拭い去ることはできない。

だから離れたのでしょう。

どれだけゾロが私を激しく求めたあの夜を恋しく思っても、私の髪を慈しむように梳いたあの指を忘れられなくても、その思い出すらもなかったことにしようと決めたのでしょう。

だと言うのに、昨日よりもずっと、バラードは頭から離れていこうとしない。
思い出すのは彼の優しさばかりで戻りたいと叫ぶ心に今にもデスクを離れて彼の元まで走って行きたいと思う自分がいるのだ。

昼食も摂らずに机と向き合ってみたところでいつもの3分の1も進まない仕事に疲れ果てて、パソコンのディスプレイから目を離すと不安げな顔で自分を見るウソップがいた。

指で時計を指した彼は今2時だと、言いたいのだろう。

そんなこととっくに分かっている。
時間ばかりを気にして、だから、仕事が進まないのだから。

でも行ってどうなるの?

私という通り過ぎた過去の女に会って彼は何も思いやしない。

あぁ、不協和音が響いていく。
頭が痛いわ。

何でこんなことになったのかしらね。


ゾロ。

あの時、もしも私が離れなければ今もまだ私があんたの女だったら。

特別な存在だったら。


あんたは私に何て言ったかしらね。

ううん、そうじゃないわね。あんたなら例え一年半前の別れがあったとしても今まだ私を特別だと認めてくれているなら、何をどうしても私に付いて来いなんて殊勝なこと言ったでしょう。

言わなかったということが全て。
私の心に大きな傷だけを残して。あんたはそうやって私の前から居なくなるのね。
やがては私のことも忘れてきっといつものようにマイペースに自分の生活を在るがままに暮らして・・・

私ではない女を愛するの?


(そんなの・・・───)


「ナミ。」

はっと我に返って顔を上げると、いつしかデスクの前に立っていたウソップがポリポリ鼻の頭を掻いてやけにゆっくりとした口調で、一つ一つの言葉を区切るように言う。


「俺はお前と、まだ付き合いは短いがよ。・・・でも、お前は・・・その。いや、何て言うか、そんな悩むぐれェなら行きゃいいじゃねェか」

仕事中じゃないと言い返そうとしたのに口は動かない。

「お前らしくねェというかな・・・何があったかは知らねェが、そんなウジウジしてるぐれェなら・・・会ってはっきりしてくるとかよ。そっちの方がお前らしいって言うか・・・」

しどろもどろにけれどもそこまで言って、思いを伝えきったことに満足したのかウソップはふぅと息を吐いて、最後に「行ってこいよ」と軽い口調で付け足した。




*********************




国際線の各社カウンターが連なるロビーは平日だと言うのに人も多く、その波をかき分けて彼の姿を捜す。
腕時計に目をやれば時刻は既に2時50分。
もう出発ロビーの中にいてもおかしくない時間。
そこから先は自分の目で確かめることなどできないし館内放送で呼び出してもらおうにも至極個人的なことに対応をしてくれるとも思えないと諦めが胸に沸く。
ヒールを鳴らして、それでも小走りに彼の姿を追い求めていれば頭の中に鳴っているバラードの4番は深く激しい音色を奏でて自分を急かす。
何故。
何故、彼にあの時伝えなかったのだろう。

あの曲を聴いた時、確かに私は彼との日々に戻りたいと感じていたと言うのに。

何が全てと言うならば、それこそが全てだったんじゃないの?

そう感じたことが全てだったんじゃないの?

ゾロの気持ちは、全てあの音に託されて私の胸に届いたはずだった。
それなのに、傷つくことも傷つけることも怖れて、その場から動けなかった私は何て臆病者だったのだろう。


「・・・ゾロ・・・───ッ!」

彼の名を呟くように、けれども決して揺らぎのない声で呼ぶ。

本当はこうして彼を呼びたいと願っていた。

何も考えずに彼の音に包まれていることの幸せを願っていた。


「言わなきゃ・・・ダメ」

音の洪水は頭の中で鳴り響く。


振り切るように一声、ナミは大きく彼の名を叫んだ。


「ゾロ・・・!!」




一際高く響いた声に見知らぬ人間が一斉に振り返る。
けれどもどれだけ探してもその中に彼はいない。

いつしか額に浮かんでいた汗の粒がすぅと頬を伝って落ちた。
開いた唇からは熱い吐息が幾度となく漏れて、けれどもそんな事はどうでも良いとばかりにナミはオレンジの髪を揺らし彼の姿を捜し求めた。

3時まであと僅か。

3分。

2分。

1分───




曲は終盤に差し掛かり物憂くも激しく、哀しくも鮮烈なアルペジオ。



彼は何を想ってこの音を私に残していったのだろう。
涙に歪んだ視界にはもう手には届かない彼の姿が映るはずもなく、ナミは真夏だと言うのにどこか寒々しく感じる空気を肌で感じ取り、力なく二の腕をきゅっと掴んだ。


ついに溢れ出した涙は俯いた顔から惜しみもせずに零れて、冷たく磨かれた床の上にぱたっと落ちる。








「・・・だから何でてめェは・・・」

不意に雑音が事切れたその一瞬。
背中に掛けられた声にナミは息を呑んだ。

ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。
涙を拭うことすらも忘れておそるおそる振り返れば。

ピクッと眉を上げた彼は何とも不思議そうな眼で、いつもと同じように腕組みしたまま自分を見下ろしていた。

「あ・・・あんた・・・3時の飛行機じゃ・・・」
「あ?あぁ、搭乗時間に間に合わなかったから変えた。ギリギリにここに着いちまって・・・」

ああ、忘れてた。
付き合っている時だってどれだけこの彼の方向音痴に悩まされたか。
早めに家を出なさいって言ってるのに、彼ときたら何故かいつも自信たっぷりで私がどれだけ言ったって・・・───

「ゾロ・・・」

吸い寄せられるように差し伸べた手で彼のシャツを掴んだ。

重い鞄が落ちる音がして、ゾロの体が一瞬にして強張ったことだってもうどうだっていい。

彼の胸に顔を埋めて。
彼の熱を感じて、私は瞳を閉じる。

福音が重なってあれだけ自分を苛んだ彼の音色は私をやわらかく包む。

肩に彼の手を感じた時、求め続けた彼の声が優しくこだました。

「ナミ」



ごめんなさい。

ゾロ、ごめんなさい。

私は何てワガママなんだろう。


あんなにも意地を張って、突き放そうとしたあんたの声。
身勝手な私は今それを手放したくないなどと考えている。


あんたと離れていた時間は音一つない暗闇だったと言うのに。
今はこうしてあんたの音が私を包むことの幸福に甘い眩暈を覚えている。


ぎゅうと強く、強く抱きしめられて、彼のシャツを握っていた両の掌をゆっくりと彼の輪郭をなぞるようにその背に回せば忘れていた熱は肌からじわりと伝わって、哀しみにくれていた音はいつしか喜びの歌となって舞い散った。



「タイミングが悪ィんだ。てめェは・・・」

「迷わないでよ。あんたは自分の好きにすればいいだけ。」

「じゃあ・・・なんでテメェはここに来た?」






奏でられる旋律は草原を渡る風のように優しく心を撫でていく。

ナミはふわりと微笑んで彼の耳元で囁いた。




「・・・好きにしろ」


ぶっきらぼうに言ったところでゾロは決して腕の力を緩めようとしない。


今腕の中にいる彼女を確かめるように力を込める。





───もうあんたから離れられないってわかっちゃったから。



彼女の音色は長調。



明るく、燦然と輝いては心の奥底にじわりと溶けた。




---Fin---

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