その時のことはなぜか鮮明に覚えている。
その時のことばかりはなぜか鮮明に覚えている。
きっとずっと、忘れない。
私達の中にある時を、限りない優しさに変えて。
夜の海に君をのぞむ
22222HIT踏んでくださった東沙夜様に捧げます。
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暗闇に真白な雪が降り出した。道理で冷えるはずだと呟いて、湯気の立つマグカップを手に給湯室の小さな窓に近付いて彼女は額にかかった髪を払った。眼下に走る車のライトは時折赤く染まってどこか忙しい。ガラス戸にそっと触れると指先からつぅと寒さが染み渡って、慌てて白い湯気をゆらりと吐くコーヒーに口を付けた。
「ナミさんはまだ仕事?」
落ち着いた声が狭い給湯室に響いて、振り返るとそこには黒髪を肩に揺らして微かに笑みを浮かべた顔馴染みの同僚が立っていた。
「今日はもう終わり。タイムカードは押したんだけど、これ一杯だけ飲んで体をあっためてからと思って。はかどった日に限ってこんな天気なんだから」
「あぁ・・・雪ね。早くしないと電車が止まるかもしれないわよ」
黒い空から降り続く雪の結晶はネオンを跳ね返してはきらきらと光って、でもそれを綺麗ねなんて言葉で括れないのはこれだけ大きな塊が降れば否が応にも街中に雪は降り積もって、交通手段が狭まってしまうなんて事態になるにもそう時間は掛からないとわかっているからだ。
同僚の言葉に軽く頷いてナミは湯のみを洗っていた女に振り返って「ロビンは?」と尋ねた。
名を呼ばれた女が顔を上げると「残業?」と思い出したように付け足して、ナミの白い手は暖かさを逃すまいとしているのか、まだ半分ほどその中にコーヒーを残したマグカップを両手で包んでいた。
ロビンは何も答えずに、その手をじっと見ていた。
何だろうと首を傾けかけて、ナミは、途端に息を呑んで左手を隠すと、もう片方の手でくっとコーヒーを啜った。
そんな仕草がいつも真正面から見据えてくるナミらしくないと暫く、彼女の様子を伺っていたけれどナミから話そうとしてくれる気配も見えず、すぐにそうと悟ってロビンは置いたままの質問に「いいえ」と答えた。
「人を待ってるのよ。外で待つと寒いでしょう?」
「相変わらずね。仲が良くて羨ましいわ」
「ナミさんももうすぐ5年でしょう。ご希望通り、海が見える家は見つかったの?」
「・・・・・・私、もう帰るわ。本当に酷くなってきちゃったし。あんたもこの前みたいに電話に気付かなかったとかであの子を30分も待たせちゃ駄目よ。かわいそうにあの眉毛が凍りかけてたわよ。グルグルでカピカピなんて笑えないじゃない」
妖艶な笑みを浮かべていたロビンが不意に悪戯っ子のような無邪気な笑顔を見せた。
「キスで溶かしてあげるわ」
聞いたこっちの方が恥ずかしくなってしまう。
でもロビンと来たらいつもこう。
本気なのか冗談なのかわからないから返しようもないのだけど、これが彼女の魅力なんだろう。
計り知れないその神秘のヴェールがロビンの魅力。
「仲良しの秘訣?」
「さぁ。どうかしら」
肩を竦めて、ロビンは高いヒールの足音をそう立てることもなく給湯室を出て行った。
もう一度窓の外に目をやれば、外では突風が吹いたらしい。
雪は一瞬横なぶりになって、またゆるりと下に向かって降っていた。
ひどく疲れて、溜息落とすとナミは空いたマグカップを洗おうとシンクの前に立った。
「あ、いけない・・・」
水に濡らしてしまったら、石がダメになるのだと思い出して右の薬指に嵌められているはずの指輪を取ろうとしてナミは何もない指に気付いた。
そうだ。
もう外して一週間も経ったのに。
この半年の癖はまだ抜けない。
軽くなった指には逆に違和感があって、そんな気持ちを拭うようにふるふるっと首を小さく振ると、ナミは蛇口から流れる水に指の先をつけた。
冷たさばかり、いやに際立った。
* * *
「それで?」
「だから・・・それで・・・」
何度も口籠って、そこまでを語り終えてから自分でも全く必要のないことだったと反省しているというのに、目の前で偉そうに腕を組んだ男は糾弾の問いを投げかけて、ついにナミだって苛立ちを隠せなくなってしまった。
「ああっ!もう・・・だから、それからすぐに帰って・・・帰ったはずなのよ!いつもの電車に乗って、いつもの道を通って、いつも通り家に帰ったの。そしたらあんたが居て、で、今に・・・じゃないわ。過去に?あら?」
混乱しきった頭を抱え込むと、男が「阿呆か」と冷めた目で嘲った。
「とにかく出てけ。ここは俺の家だ」
「ま、待ちなさいよ。出てけって言われてもこっちだって家賃払ってんのよ。どうして自分の家から出てかなきゃいけないの?」
「どこがてめェの家だ。どう見たって俺の部屋じゃねェか」
きょろっと確認を促すように自ら部屋の中を見渡して、ダンボールが数個積み上げられた1ルームの狭い部屋に満足行くように男はニッと口の端を上げた。ほれ見ろとでも言わんばかりに胸を反らす。そんな様がまた憎らしいと眉を顰めていれば、男は「もっとも明日の朝には引越しだが」と僅かに声を抑えた。
「あんたがここに住んでたのは5年・・・正しくは5年半前までじゃない。今はここが私の家なの。出てくのはあんたよ、ゾロ」
彼の左耳につけられた金のピアスが三つ、揺れたかと思えばキンと高い音を鳴らしあって、男の表情は途端に険しくなった。
「───何でてめェが俺の名前知ってんだ」
「それは・・・だって私はここに住んでて───もういいじゃない。そんな話。」
「『もう』ってのァ何だ。『もう』ってのァ・・・大体あんた酔ってねェか?それこそ俺がここに越してきたのが5年前だぜ。」
不思議そうにしてる割には頑として譲らない男に、これ以上何を言っても無駄なのはわかっていて、とにかく今は自分の頭の中を整理することが最優先とばかりにナミはもう一度順を追って記憶を辿った。
今日はやけに寒い日で、いつもなら仕事が終われば会社なんて早々に出るのに、コーヒーを一杯だけでも飲んで体を温めてから帰ろうとしたのは、どことなくこの部屋に戻ることが心に重たいというのもあった。正直、彼との思い出が残る部屋だから引っ越そうなんて考えもあるぐらいで、そのくせ指輪を外した薬指の違和感は取れない。
ポケットに手を入れると、捨てられなかったその指輪はこの真冬の寒さにすっかり冷たくなっていて、本当ならここで投げ捨てたっていいのに触れた指が痛いぐらい冷たいから、だから捨てられないんだと自分に言い聞かせては、ふと一週間前のことを頭に過ぎらせながら、駅からの帰路を歩いていた。
雪の所為か鼻にじんと沁みる空気に、何故だか瞼が熱くなって、でも、自分から告げた別れに泣くなんてプライドが許さない。
空を見上げて、肩に落ちた雪も払わずにこのマンションへと辿り着いた。
部屋の鍵を開けようとして、初めて異変に気付いたのだ。
鍵が合わない。
まさか階を間違えたのかと焦って部屋番号を確認してみたけれど、間違っていない。
どうして、と思って、管理人に電話しようとしたけど家の中に連絡先の書いたメモが置いてあるのだと思い出して、じゃあ警察にでも行くしかないのだろうかという考えが脳裏に過ぎった時、突然扉が開いて中からこの前の住人が出てきたのだ。
「つまり、そういうことなのよ」
「おい。その一番重要な部分を省略すんな」
「しょうがないでしょ。私だってわかんないんだから。だって帰ってきたら鍵が合わなくて、いきなりあんたが居るんだもん。今朝までは確かにここは私の部屋だったし、私はこの鍵で鍵をかけて会社に行ったのよ。あぁ、ゴミの日だったからゴミを持って。朝の占いじゃ今日は幸運って言われたのに、最悪だわ。占いって当たらないわね。帰ってきたら自分の部屋に入れないし、あんたはいるし・・・」
「・・・ゴミだの占いだの今言う必要あんのかよ」
呆れたように溜息ついて、ゾロはようやく組んでいた腕をほどくと、その手をひらひら振ってナミに出て行けと示した。
「とにかくじゃあ、てめェの理論で行くとてめェが明日っからのこの部屋の住人だろ。明日になりゃいくらでもここに来れるんだから今日は帰れ」
「わかんない奴ね。ここが私の家なのよ」
そう言って、ナミは鞄を下ろすと玄関を指差して「あんたが出て行きなさい」と言い放った。
* * *
ちょうど二週間前に、部屋を探してる女がいると友人が言ってきたから、自分もそろそろ職場の近くに越そうかと、今住んでる部屋を退去することが決まったばかりだし不動産屋に聞いてみろと友人に言えば、それを聞いた女は早速決めたらしい。清掃も何もしなくていいからととにかく二週間後に退去しろとせっつかれて、うんざりしてるところだった。
そりゃ自分はその日には家を出るつもりだったのだから、予定が狂うということはなかったのだが、何せ朝早くに家を出てくれなければ掃除もできないし、家の鍵だって取り替えられないだろうと友人づてにあれやこれやと注文してこられてはたまったもんじゃない。大体にして女は学生だから今の時期は春休みで時間を取れるだろうが、こっちにしてみりゃ平日は働いているのだからせめて土曜日の昼に来るとか気遣いはできねェのかとも思った矢先に、まるでこっちの考えを見越したかのように友人から女も月曜からは新入社員のガイダンスがあって、できる限り週末の時間を有効に使いたいと詳しい説明を聞かされたものだから何も言えなくなってしまった。
それで今日は友達の誘いも断って、飲み会にも出ずにこうして荷造りをしていたのだ。
ようやくそれが終わりかけて買っておいた酒を呑もうかという時に、いきなり鍵穴が弄られる音がして、不審この上なく、変な輩なら殴りつけてやろうかとドアを開けたら、そこに立っていたのは一人の女だった。
(変・・・まァ、変に違いねェな───)
この女、いきなり自分を見て何してんのと叫んだかと思えば、今度は頭のてっぺんから爪先までじろじろ観察するように見て、とにかく中に入るわよなんて命令する。
いや、俺もついその時は意味もわからずその言葉に従ってしまったのも悪かったんだが。
中に入るってェのも玄関先かと思ったのにどんどん上がりこんで、部屋を見渡してから女はぶつぶつ意味のわからない事を呟きだした。
酔っ払いだ。
酔っ払いに違いない。
・・・酒の匂いはしねェが。
それかこの女、どっかで頭でも打ったんじゃねェか。
さっきからここが自分の部屋だの、俺がここに住んでたのが5年前だのとにかく辻褄が合わないことをぺらぺらくっちゃべってはその度に俺を睨み上げる。
自慢じゃねェが、俺をそんなふうに睨むほど度胸のある女には遭ったことがねェから珍しいと言えば珍しいと思って、その女の顔をまじまじと見ていると、明るいオレンジ色の髪がふっと近付いた。
「聞いてるの?」
「・・・あァ?何が?」
「んもう!バカなあんたにもわかるように説明してあげたって言うのに!」
「誰がバカだ。」
まァ・・・聞いてなかったが。
という言葉は控えておかねェと、また煩く喚き散らすだろう。
こういう輩は適当にあしらって、相手が満足したところで帰ってもらうに限る。
要は酔っ払いと話してるようなもんだからな。
「ここが私の部屋なのに、あんたが居て明日引っ越すって言うじゃない」
・・・人の話は一応聞いてたらしい。
「でも私も今朝までちゃんとこの部屋に住んでたのよ」
そこがおかしいということに気付け。
「これが何を意味するか」
てめェが酔ってるってことを意味してんだろ。
「つまり、私がタイムスリップしたってことなのよ!」
「・・・───あんた、大丈夫か?」
言うと、女は容赦ない力で握った拳を俺の頭に打ちつけた。
「あんたね!いくらバカでもこんなにわかりやすく教えてあげてるのに、その言い方って何よ?殴るわよ?」
「殴った後に言うか、普通・・・」
「あんたがこういう事に頭が柔らかいなんて思ってないわよ。でもね、納得してもらわなきゃ困るのよ。だって、ホラ。」
女が手をぐっと差し出した。
何だ、と言い掛けてようやく女がこの春の季節に長いコートなんて着て、厚着していることに気付く。
こりゃ相当にイカれてんなと言おうとすると「コートじゃないわよ。これよ、これ」と先んじて女が腕に乗った欠片を指差した。
溶け始めた雪の結晶。
「・・・冷凍庫に頭でも突っ込ん・・・ッ!?」
「これ以上殴られたくないなら、そういう事を言わないで素直に私の言葉を受け止めるべきね。大体冷凍庫って言ったってこんなに綺麗な結晶が着くわけないでしょ?霜ならともかく・・・私は確かに雪が降ってる中、帰ってきたの。そうしたらあんたがここに居たのよ。」
さっきとは反対側の頭を疼かせる痛みを擦りながら、ゾロはまだわからないとでも言いたげに眉を一つ上げて訝しんでいた。
そりゃ自分だってこんなバカなことを言うのは嫌だけど、今はこれしか思い浮かばない。
「タイムスリップだわ。」
「5年半前に・・・───」
大きく溜息をついて項垂れた女を信じるか信じないべきか、視線をしばらく這わせていたが一向に判別がつかない。
その肩には確かに雪の結晶が幾つも乗っているし、何よりもあのドアを開けた瞬間に自分が感じた肌寒い空気は春の夜風というにはあまりにも冷たく、今尚体に感触が残っている。
意味がわからねェが、この女、気が触れてるとも言い切れないほどはっきりと喋るしこっちの話も聞いている。
こんな馬鹿げたことを鵜呑みにするわけにもいかねェ。
が、女は出てく気配もねェし、まァ落ち着きゃ自分でどうにかするだろと軽い気持ちがふと沸いて、傍らにあったダンボールの一つを開けると、ゾロはその中からタオルを取り出した。
「・・・とりあえず拭けよ」
投げてよこしたタオルを慌ててキャッチした女は、驚いた瞳で自分を見ている。
俺だってこんな得体の知れない女、今すぐにでも出て行ってもらいてェが、しょうがねェだろ。
女はここが自分の部屋だと思い込んでるみてェだからな。
「気が済んだら出てけ」
「・・・だから、ここが私の家なのよ」
そんなことを言いながら、けれども、女は嬉しげな笑みも隠さずにありがとうと呟いた。
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