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どうも相手ばかりが自分を知っていて、自分が知らない相手というのはやり辛い。
女は俺のことを名前も知っていたし、それを問い詰めると鍵渡しの時に自分もいたのよ、と答えた。

「だって前に住んでたのは男だって言うじゃない。ちゃんとこの目で確認しないと安心できないでしょ?それであんたが鍵を渡す時に私も立ち会ったってわけ。まァ、怪しいには怪しかったけどね」

「怪しいわけあるか。」

「そう?可愛い私をニヤニヤいやらしい目で見てたわよ。あんたって・・・───」

言いながらコートを脱いだ女はいかにもOLといった装いで、今更ながらに一人の女がこの部屋にいて、自分と二人きりという今の状況を思い出した。

その上、引越しを明日に控えて部屋にダンボールを数個入れたらワンルームの部屋はもう狭く感じる。
そこに見知らぬ年上の女と二人。
いやに落ち着かない。

顔を上げた女は視線を受けて妖艶な笑みを浮かべる。
実際には妖艶でも何でもねェかもしれねェがそう感じてしまうのは、この見慣れない部屋の景色とこの状況の所為だと心に言い聞かせて目を逸らした。

ふと、傍らに飲むつもりだった酒の瓶を見て「あんたも飲むか」と尋ねると、女は「もちろん」とグラスを奪った。

「おい、そりゃ俺の・・・」

「これしかないの?出せばいいじゃない」

「それしかねェんだ。一つありゃ十分だろ」

「・・・あんたって本当に女っ気なかったのね」

哀れむような眼差しが癪に障って、女の手からグラスを奪おうとすると、「じゃあこれ一つで一緒に飲めばいいじゃない」と女は明るい声で提案した。

「ほら、注いで」

「俺の酒を何でてめェが先に・・・」

「レディファーストって言葉を知らないの?」

冷ややかな視線に渋々グラスに酒を注げば、女はあっという間にそれを飲み干した。

これまた良い飲みっぷりだなんて呑気につい感心してから、我に返って「大丈夫かよ」と聞くと、女はあっけらかんと「お酒は強いのよ」と返す。その仕草がまた大人びていて、今度はどうも自分を年下に見て小ばかにされたのが気に食わない。じゃあ俺もとばかりにグラスに入った酒を飲み干すと女は口を開けて笑い出した。

「負けず嫌いね。」

「・・・誰が。」

「あんた以外に今、誰がいるのよ。それより私と飲むならそれ一本じゃ足りないわ。あんた買ってきなさいよ。」

「金出してくれるならな。」

「ケチくさいわね。女に出させる気?それじゃ彼女もできなくてしょうがないわね」

やけに嬉しそうな声が耳に衝く。
大体さっきからこの女、居座る気満々で、じゃあ女の言葉通りタイムスリップってやつが本当に起こったのだとしたら帰る手段を考えるってのが定石じゃねェか。なのに女は俺の部屋から出ようともしねェし、それどころか人の酒を呑んでおいて買いに行けだの、金を出させようとしたらケチだの文句をつけやがる。

「てめェが行きゃいいだろ。俺ァ明日の朝早ェんだ。誰かさんのおかげでな」

「誰よ、誰かさんって」

「明日っからここに住む女が早く立ち退けってうるせェんだ」

嫌味のつもりで言ったら、女はあぁ、と得心したように頷いて「それであんた寝坊したのね!」と笑った。

「これで納得できたわ。あれだけ言ってあったのに、あんたってば私が来た時も寝ぼけてるぐらいで・・・」

あ、と女が小さな声を上げた。

「・・・? 何だよ」

問うたのは、よく喋る女が急に黙り込んだからだけではなく、その女の顔が不意に翳って不安げな色が濃くなったからだ。大体、早くそこに気付くべきなのに、今更元に戻る手段をどうやって探せばいいのかなんて気付いたのだろう。年上の割りに世話の焼ける。
溜息ついて、頭を掻き毟るとゾロは呆れたように言葉を繋げた。

「だから、外に出てみりゃ帰れるかも・・・」

「言っちゃ駄目なんだわ」

「へ?」

「だから、私が憶えてることを。ほら、本とかテレビでもそういうことになってるでしょ?あんまり言ったら、過去が変わっちゃうかもしれないのよ」

あれだけぺらぺらと喋ったくせに、今になって「ああ、危なかった」と呟くと、女は手にしたグラスを俺に向かってそれを差し出してくる。注げと言うことなのだろうが、渋る気持ちも手伝って口を開いた。

「それより仮にあんたの言うことが本当だとして、なら、ちったァ帰る方法とか考えねェのか」

「そうね。帰らなきゃいけないわね。でもこんな体験できるチャンスなんてそうそうないじゃない。どうせ明日は休日だし、家に帰っても何もすることないんだもの。」


ゾロがハッと笑った。


「人のこと散々言っといててめェも男がいねェんだろ」

「・・・あんた今、私とあんたを同列に扱ったでしょう?」

「いねェんだろ」


再度言うと、女は唇を尖らせて何か反論しようと身構えた。

だが、閉じられた唇が開く前にふと顔が緩んでいく。


「いないわよ。一週間前に私からフッてやったの」

未練がましい言葉に思えたのは、女の声音が僅かに震えたからだと知って、ゾロが何も言わずに酒を注ぐと女は礼も言わずにそれを飲み干していった。




*              *               *




「出たわよ。」

くるっと振り返った女がどう?と訊いても一体何て答えればいいのかがわからないといった具合にゾロは首を傾げるばかりで結局想像通りの答えが返ってきた。

「どうって言われてもな」

「───役に立たないわね」

「俺にどうしろってンだ」

「知らないわよ。知らないからあんたがもうちょっと頭を働かせてこう、ピンと来るヒントになるようなことを言うのを待ってるんじゃない。何かないの?ほら、私が来た時に周りが光ってたとか」

「実際にこっちに来たのはてめェだろ。何で俺が」


いつものペースでお酒を呑んでいれば、あっという間に一升瓶の中は空っぽになって、結局二人で買いに行くことになった。その玄関先でもしかしたらここを一歩出たら帰れるんじゃないかと言ってナミは一呼吸置いた後に敷居をえいっと飛び越えたのだ。

だが何が変わるわけもない。
真冬にいたはずの自分は春の生暖かい夜風に包まれているし、振り向けば後ろで見ていたゾロが呑気に頭を掻きながらスニーカーを無造作に履いている。

「あんたちゃんと見てたの?」

「見てただろ。」

「心をこめてちゃんと見てたかって聞いてんのよ」

「ここ・・・阿呆か、てめェ」

「何ですって?」

ナミの言葉を背に聞いてさっさと歩き出したゾロに「鍵は?」と聞くと「金もねェし、取られるもんもねェ」と言って男は階段を下りていく。

(私の鞄があるじゃない・・・!)

んもう、と誰に言うでもなく呟いてナミは部屋へと入ると鞄を手にしてまた外へと出た。

マンションを出て見渡せば、確かに今はコンビニになった筈の土地が空き地のままだし、新しい高層ビルが建った場所には古びた二階建てのアパートがある。
そういえば引っ越してきた時にはこの辺りは街灯も少なくて夜道が怖かったことも思い出しながら、酒屋への道を辿っていると、ゾロが後ろから「おい!」と声を掛けてきた。

「何、あんた。先に行ったんじゃなかったの?」

「てめェこそどっちに行く気だ」

「どっちって、お酒買いに行くんでしょ。・・・あんたまた道間違えたのね。あの看板が目に入らないの?」

大きな文字で酒と書かれた看板は、夜道に煌々と光を放っている。
白い指でそれを差して勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ナミは行くわよとゾロの手を取った。

「・・・離せ」

拗ねた口ぶりで、でもちらりと目だけで振り返るとゾロは不機嫌そうな顔をしてるくせに僅かに頬を染めていることぐらい看板の明かりはしっかりと照らしてくれるのだからナミの目にも見て取れる。
振りほどけばいいのに、照れているのか意地張ってるのかそれすらもしない男が何だかいやに可愛く見えて、つい噴出してしまったら、真一文字に口を結んだ男はようやく自分から腕を払ってナミの手を振りほどいた。

「あんたにもそういう時期があったのね」

「何か言ったか?」

「・・・・別に。怖い顔して純情ね、って言ったの」

「そりゃ誰のことだ」

ヒールを履けばそう背が変わることもない。
僅かに自分より上から睨み付けるような眼差しで見下ろしている男に微笑みだけを返してナミは酒屋へと入っていった。




「結局俺の金かよ」

ぶつぶつ文句を言う男の言葉にくすくす笑ってナミはしょうがないでしょ、と嗜めるように言う。

「だって私は現金持ってないんだから。あのお店5年半前はまだカード使えなかったのよね。忘れてたわ。」

先を歩く女はそれに、と言葉を紡いで「現金だって使えるかどうかわからないじゃない。」と言った。

「使えるだろ。たかが5年ぐらいで。」

「わかんないじゃない。機械がピーッて鳴るのよ。それで警察が来て、私が偽札を作ったからって捕まったらどうするの?あんた助けてくれる?」

「何だ。その機械ってェのは。大体俺にてめェを助ける義理はねェ」

そらご覧なさいと言って、ナミはようやくその髪を揺らして振り返った。
春の月光は微かに緩い。
外灯がろくにない道に見たゾロの姿に目を止めて、ナミはふっと笑みを浮かべた。

「でもあんたはそういう奴よね」

「・・・てめェ俺と一回会ったっきりじゃねェだろ」

「そうねぇ。一回きりじゃないわね」

やっぱりな、とばかりに頷いた彼に、「だって今こうして会ったじゃない」と言えば、ゾロはしかめっ面を浮かべて何か言おうと口を開いたけれど、ナミはまた前を向いて「どうだっていいでしょ」となかば小走り近い足取りでマンションへと続く道を歩き出した。




*              *               *




「明日には多分帰れると思うのよね」

「何で」

「だって、私は私の姿なんて見てないのよ。それって、明日『私』が来るまでにこの私はきっと帰ってるってことよね。だからじたばたしたってしょうがないわ。」


それでさっきっから呑気に酒なんか飲んでるわけだ。

───いや。
女の話を信じるわけでもねェが、だが、家に戻ってから女は俺の部屋を仲介した不動産屋から友人の名前から、果ては俺がどこに越すか駅名まで克明に憶えていて、それを挙げ連ねてはどうだとばかりに笑う。
さすがにストーカーか何かかと内心疑いが在って、それが晴れたわけでもないのに何でか信じる方向へと頭が向かっているのは女がさも当然だとばかりに明るい声を聞かせてはよく笑うからだ。
裏に何かを隠しているとも思えぬその素振りに自分の心は次第に懐柔されて、いつしか女の話に乗っている自分に気がついた。

「じゃあ早く帰れよ」

冗談めいて言えば、女は「せっかくなのに」と頬を膨らませて見せた。

「この体験って貴重だわ。本とか出したら売れるかしら。」

「誰も信じねェだろ」

「あんたが信じるでしょう?」

「そりゃこうやって目の前にいりゃ信じるも何も。だが、まだ明日にならねェとあんたが言ってることが真実かどうかなんてわからねェからな」

きっとお金になるのにと心底悔しそうに呟く女は、酒屋で買った紙コップにまた酒を注いでそれを飲む。
くっと上げられた顎にコクンと喉が揺れるのを何気なしに見ていると、それに気付いて「飲みたきゃ自分で飲みなさい」とあしらうように女は言った。

「じゃあ、てめェの名前ぐらい聞かせろ。そしたら信じてやってもいい」

「それはお楽しみよ。」

さっきから幾度となく繰り返した質問を、また女は笑うだけで答えようとしない。
終いには女はミステリアスな方がいいのよだとか、それが長続きの秘訣なのよね、なんてぶつぶつと呟き始めてはとうとうゾロはそれを訊くことを諦めた。

女の話が本当だとしたら後で友人にでも訊けばいいだろうという考えに至ったのだ。

考え込んでしまった彼女をおいて、一人酒を煽ればカーテンも取り払ったこのフローリングの部屋は夜半にもなっていやにシンと冷えていることを悟って、せっかく片付けたはずの布団を取り出すと、ゾロはそれに丸まってまた酒に口を付けた。

「何よ、寒いの?」

「てめェは冬の格好してるからマシだろうが、俺ァTシャツ一枚きりだからな」

「じゃあそんなのに丸まってないで服着ればいいじゃない」

「出すとしまえなくなる」

ちらっと移った彼の視線を辿って部屋の隅を見やると、そこには今にもはちきれそうなダンボールに「服」と大きな字が乱暴に書き殴られている。どうせ夏服も、冬服も一まとめにして押し込んだところをガムテープで無理に封をしたのだろう。呆れて「あんたってバカ?」という言葉が口から勝手に漏れた後で「バカね」と一人納得して頷いてると、毛布を被った男はじろりと鋭い目で睨んできた。

「お姉さまに対してその目は何よ、その目は」

「うっせぇ。俺から見たらてめェなんかおばは・・・」

拳一つで男を黙らせて、彼の手にあったグラスと横取りすると、ナミはそれを思い切り良く飲み干した。

「よくそれで男なんかできたもんだぜ」

容赦なく頭に叩きつけられた拳は、女の細腕から出てきた力とも思えず悪口叩けば、彼女はふん、と鼻を鳴らして「私が魅力的過ぎるんだもの。しょうがないじゃない」とこともなげに言った。

「暴力的の間違いじゃねェか」

キッと自分を睨んだ女がまた何か言い返すに違いないと内心で身構えるとそうでもない。
自嘲するような笑みを浮かべて「この5年で鍛えられちゃったのよね」と思い出すような眼差しを見せた女は、グラスにまた透明な酒を注いで一口含むと「もう終わったけど」と取り成さんとしたのか声音を強めた。

「私の彼氏もあんたみたいにバカだったのよ」

「俺みてェならバカじゃねェだろうが」

「バカだったの」

「じゃ、俺みてェじゃねェだろ」

「そういうとこがバカだって言ってんのよ」


何を言っても、女は言葉を少しずつ荒げていくばかりでこれ以上の押し問答も面倒くさい。
暫し間を置いた後に、けれども自分から折れるというのも嫌なものだから、ゾロは「俺に似てるってんなら、フる方がバカだな。」と笑った。


「・・・・・バカ」


途端に弱まった言葉の響きがテレビも何もない部屋の中ではあまりに痛い。
その上フローリングのこの部屋は、夜ともなれば自分の立てた僅かな物音だって響くことがあって、冷えた空気が殊更に女の声を弱々しく届けて、ゾロは途端に言わなければ良かったかと後悔の念を胸に覚えていた。

かと言って、こんな時女にどんな声を掛ければいいかなんてわからないし、そもそも女の機嫌を取らなければいけないと考える瞬間が来るなんて自分の人生に起こるわけがないと半ば、信じていた部分もある。
それが思いもよらずまさか女がある夜自分の部屋に訪れて、何故か一緒に酒を飲んで、信じようもない現実離れした話を信じている自分がいて、俯いてしまった女を前にこの状況をまた振り返ってゾロは口を結んだまま考えあぐねては、少しずつ酒に口を付けるくせに決して顔を上げようとしない女を見ていることしか出来なかった。

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