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去年就職して以来、年上の女というのも随分と見てきたものだが、それにしてもこの目の前にいる女は見知った女のどれにも当てはまらず、外見からしていい女だとようやく思い始めた。
突拍子もなくいきなり我が家に来てここを自分の部屋だなんてぬかした女をそういう目で見れなかったというのもある。
だが話してみれば、この女は頭が鈍いどころかその反対で、何を言ってもこっちが反論できないように瞬時に言いくるめるのだ。それでも恨みがましく思えないのは、その後で彼女が一切悪びれない笑顔を向けてくるからだろう。
女と会って数時間、日付が変わる頃には自然とそんなことを考える自分がいて、ゾロは心の内でくだらねェと呟くと、ようやくナミから視線を外した。
どれほどだろう。
まじまじと眺めているうちに、どうも女の影が瞼に焼き付いて瞬きをしただけで伏せた睫毛や、酒に濡れた唇が浮かぶ。懸命に打ち消そうと頭を振って酒瓶を持ったが、グラスがない。
そういえば女がグラスをまだ手にしていたかと、彼女の膝元に置かれた紙コップを仕方なく取ると小さな声が零れた。
「本当にバカなのよね。何で?」
「何でって・・・俺に訊いてもしょうがねェだろ。そのてめェがフッた男とやらに訊けよ」
「───男の意見として教えてよ。今後の参考にするわ。男って忘れられないものなの?」
「・・・何を。」
「過去の女よ。だってこの私がいるのに。この私よ?」
自分の胸に手を置いて、もう一度「この私がいるのに!」と言った女は、さっきまでとは打って変わっていやに元気に見える。
こりゃ相当長くなるかとも思ったが、空気が重いよりゃマシだと女が手にしたグラスに酒を注いでやると、言葉の合間に「ありがと」と軽く言って、彼女は言葉を続けていった。
「許せないでしょう?私がいるのに他の女が忘れられないなんて。大体あいつがあんなこと言うから」
「あんなこと?」
「・・・いいの。あんたは知らなくて」
「何だよ、そりゃ」
「とにかく、珍しくキザなことを言うと思ったのよ。ううん、今考えたらあれも浮気を隠すための嘘だったのね。そもそも有り得ないって気付くべきだったわ。私としたことが浮かれてたのね」
意見を聞かせろと言ったのは、聞き間違いだったに違いない。
俺の意見など聞く気などさらさらない女はまだ男の不満をつらつらと述べていくばかりで一向に俺に何も聞いてこねェし、それどころかこっちから口を挟む隙も作らねェ。
聞き間違いと言うほかにどんな言葉がこの状況に合っているかなんて関係ないことに頭を働かせていると、途端に女が肩をぐいと掴んで逸れていた俺の気を強引なまでに引いた。
「そう思うでしょ?そう思うわよね?あんたでもそう思うでしょ?」
そもそも女は「あいつ」だとか「あんなこと」だとか焦点をぼやかして説明するのだからよくわからねェのも当然至極、それどころか後半まるっきり聞いてなかったのだから大した言葉を返せるわけもないのだが、この女の気迫だけは伝わって、とりあえず頷いた。
これは否とは言わせまいとする気迫ということだけは手に取るようにわかる。
「・・・そうよねぇ。」
ようやく満足したのか、女はオレンジの髪を手で直しながら俺に合わせたかのように頷きを返しては「どこでどう間違ったんだか」と首を振った。
「全然気付かなかったのよ。不覚だったわ。」
「そりゃごシューショーさま」
「棒読みしないでくれる?」
でもまぁ、いいわ、と女は酒を注ぐのが面倒なのかまたゾロの手にあった紙コップを奪ってそれを躊躇いもせずに飲んでいく。今度はグラスが彼女の膝元で空いていて、もう溜息すらも出ずにそこに酒を注ぐと今度はグラスまで横取りされた。
「・・・俺に八つ当たりすんな」
「いいじゃない。今は誰かにイジワルしたい気分なの」
「鬱陶しい」
「あんたって包容力ないのね。これぐらいのこと受け止めてこそ男よ」
そりゃ初耳だ。
注いだ先から酒を奪われて笑ってれば包容力があると見なされるらしい。
こりゃ一応覚えとくべきか。
───ンなわけあるか、阿呆。
「てめェ、酔ってんのか」
「私は酔わないわよ、お酒には強いって言ったでしょう?」
「女が酒に酔うとタチが悪ィ。いい加減にしとけ」
「酔えるぐらいならまだいいわよ。ヤケ酒も楽しめるじゃない」
また女は寂しげに睫毛を伏せる。
せっかく軽くなった雰囲気が一気に重く肩にのしかかった気がして、声を掛けようとすると女は途端に何か閃いたように顔を上げた。
揺れるオレンジの髪は蛍光灯の明かりに照らされて幾重にも光の輪を作る。
そこに満面の笑顔を乗せれば、寒い空気はあっという間に掻き消えて、変わりに妙な気が胸に沸き起こっていた。
何を思ったのか自分の体にこの女の、この華奢な腕を引いて抱き寄せてやりたいなんて衝動が駆け巡ったのだ。
頭の片隅にあった理性で懸命に押さえ込む。
たかが数時間前に会ったばかりの女にそんな考え起こすなど自分はそんなに女を欲していたかとむしろすっかり己を信じてこの部屋で気軽に話を続ける目の前のこの女に罪悪感すら覚えて、それを枷に自分を制していると、彼女がその唇を僅かに開いて「あんたはそういう男にならないようにね」と漏らした。
「・・・俺が?なるわけねェだろ」
「そうね。なるわけないわよね」
笑った女が寂しく見えた。
何故かは知らないが、笑顔が泣き顔にすら見えて、言葉を続けようとしたのに気の利いた言葉はやはり浮かんでなどこない。
「俺にそんなこと言ってもしょうがねェだろ。そいつに言えばいいじゃねェか。今からでもそいつのとこに・・・───」
我ながら名案だとは思う。
これなら女をこの家から追い出すこともできる。
できるんだが。
そこまで言って、何故か口が重い。
女は続きを待っているのか真正面に俺を見据えてじっと俺の口元を見ていた。
抑えたはずの欲が、女の眼差しを受けてまた膨らんでいくことは容易い。
年上なのは雰囲気ばかりで、自分と同い年と言われたらそうかもしれないと思える女の瞳は少し潤んでいるようにも見えて、それがまた目を離せない輝きがあって馬鹿げたことに胸の鼓動が高まっていく。
女は、ゾロ、と唇を俺の名になぞらえて動かした気がした。
同時に目を逸らして舌を鳴らしたのはそんな自分を抑えようとした反動にならない。
「───無理だわ。そいつの場所がわかんないの」
「じゃあ・・しょうがねェか」
あっさり諦めてようやく酒に口を付けたゾロは、私から目を逸らしたまま、まだグラスに半分もお酒が残っているのに瓶を逆さにしても酒が出ないと気付いて、封を開けていなかった最後の酒瓶を手に取った。
「聞きたい?」
「別に。てめェの男なんざ興味ねェ」
「いいじゃない。聞きなさいよ。そいつと私ね、結婚するはずだったのよ。」
「──へェ。」
「・・・あんたみたいに自信ばっかり大きなヤツだったの。散々私を振り回してくれたんだから」
相槌打たずに注いだばかりの酒を煽ると、女は思い出したように「そこが良いとこでもあるんだけどね」と付け足した。
「でも浮気したんだろ」
「正確には浮気じゃないわ」
何だそりゃ。
結局その男に未練があんのか。
随分と一生懸命そういうことをする男じゃないだの、私だって信じたいだのと言葉を並べてくれるじゃねェか。
・・・あァ、つまりあれか。
思い出は美化されるってェことか。
全く女なんてくだらねェことにしがみ付く。
この女にしても他のヤツと同じってわけだ。
「あんたがさっき自分で言ったんだろうが。浮気してんだろ」
意地悪を言いたい気分てェのはこういうもんなんだろう。
さっきの女の言動に妙な同感をこんなところで覚えて、振り向けば、女は拗ねた目でじろりと俺を睨み上げた。
「違うわ。あいつは過去の女を忘れられないのよ。でもそれって私に失礼だわ。そうでしょう?」
「そうかもな」
「『かも』じゃないの。そうなの。大体、指輪だって・・・」
そこまで言って、ナミははたと動きを止めた。
「・・・とにかく。あいつが浮気なんて・・・」
「どっちなんだよ、てめェは」
いい加減イライラして突き放せばナミは困惑の色も隠さずに瞬きを繰り返してはゾロを見た。
「浮気なんて・・・するはずないわよね。できるわけないわ。あの甲斐性なしが・・・」
「浮気してんだろ。庇いたがってんのはてめェじゃねェか」
違うのよ、と反論しかけて、女はそれきり口を噤んで何か考えこんでしまっている。
その頭の中にはきっと別れた男のことばかりで、今、隣に座っている自分の存在など忘れてしまっているのだろう。
伏せた顔を見ているだけでも苛立ちは増して数杯の酒を止まることなく流し込んでいれば、ようやく女は独り言のように言葉を紡ぎ始めた。
「優しいのよ。大体。だから疑っちゃったんだわ」
「───ノロケなら他所でしろ」
「だってまさか急にあんな事言うなんて思わないじゃない。初めっから変な奴だとは思ってたけど」
「変な奴なんだろ。付き合ってる間はわからねェもんじゃねェか」
ぷっと吹き出した女に、何がおかしいと問うと彼女は目に涙さえ浮かべて別にと言っては、終におなかを抱えて大声で笑い出した。不審に思って背を向けて肩を震わせる女の腕を取ると、笑いを堪えようとしている女の頬はうっすら赤く染まって、無邪気な瞳はそれだけで男を誘っている。
「あんたみたいにぶっきらぼうな男が恋愛のことを話すのがおかしかっただけ」
そんな言い訳じみた言葉を乗せて女はやわらかく俺の手を引き離すと、「悪かったわね」と思ってもいない謝辞を口先に、人の頭を子供にするみてェに撫でた。
「やめろ。鬱陶しい」
頭を横にして逃れると、残念そうな笑みを浮かべる。
それもまた腹立たしい。
「人の感謝は素直に受けなさいよ。」
「感謝?」
「そうよ。今、すっごくあんたに感謝したい気分なの」
何で、と言い掛けた俺の言葉を遮って、女の身体が不意に近付いてきた。
* * *
海沿いの家がいいと言い出したのは私だった。
お互いの職場から少し遠くなってしまうけれど、海が見える家がいいと言うと、彼は「てめェの好きにすりゃいい」とぶっきらぼうに言って、でもそれが彼の優しさだと5年も付き合えばわかるからそれを気にするまでもなく、私が物件を決めて、冬の入り口になった頃には二人でその家を見に行った。
海が見える家じゃないといけないなんてこともないけれど、でも通勤一時間で考えたらちょうど海沿いの町に電車が辿り着く。もし反対されたら乗り換えはないだとか、休日には海辺でのんびり出来るとか、理論武装をしていたのにすんなりと話は決まって、だからあまりに上手く進んでいく話に不安を覚えたのだ。
彼と来たら出会った時から大抵そうで、友人は年上だからと私を嗜めるように言うのだけど、それにしたって物分りが良すぎるのは逆に付き合ってる身にしてみたら不安で堪らなかったのも事実だった。
中古で買った家だからペンキも剥がれて暫くは休日なしねと溜息つくと、彼は苦笑しながら玄関先に腰を下ろすと「でも海は見えるな」と呟きを風に任せて水平線が分かつ青の景色を見入っていた。
「あんたもここならたくさん寝れるでしょう。この家の周りは車もそうそう通らないの。まぁ強いて言えば、その分不便ってことかしら。」
「昼寝できりゃ十分だ」
「来週には引越しね。もう準備できてるでしょうね。忙しいとかは理由にならないわよ。私だって忙しいんだから」
「俺ァ一日ありゃいい。そんなにねェからな」
「・・・つまり、やっぱりまだ何もしてないのね。いいわ。私はもう済んでるから来週の土曜日、手伝いに行ってあげる。」
いいと言った男にあんた一人に任せておけないの、とその耳を摘み上げると、彼は痛ェと零して「手が早ェのだけは結婚なんか関係ねェか」と諦めたように呟いた。
嬉しいのはいつもは無愛想な彼の口からそんな言葉が出てくることで、くすぐったいのにもっと聞きたい気分になってしまう。
その言葉に、彼の頭にある未来には確かに自分が存在するのだということが、嬉しくて嬉しくて、堪らなくて、だからいやに幸せを感じてしまうのだ。
海を見る背に抱きついて耳元で愛の言葉を囁けば、彼は頭を掻き毟って顔を逸らした。
「あんたって本当に照れてばっかりなんだから。それこそ結婚しても直らないわね」
「あん時にはこうなるとは思わなかったじゃねェか」
向こうを向いたままの彼は耳の先まで真っ赤で、満足げな笑みを浮かべて傍らに腰を下ろすと、ナミは「私だって」と首を傾げて彼の顔を覗き込んだ。
「あんたと初めて会った時はまさか結婚するなんて思わなかったわよ。でもあんたが言ったんじゃない」
振り返ると、彼は私に視線を落として「何を」と低い声で訊いた。
「なぁに?自分で言った言葉も忘れちゃったの?プロポーズの台詞ぐらい覚えてなさいよ。本当にあんたってバカねェ。先行きが不安になっちゃうわ。」
「・・・・・あァ。そっちか」
「そっちって、何?・・・たまにあんたってわかんなくなるわ」
いや、と言って立ち上がった男の耳元で金色のピアスが三つ、海からの風に軽く揺れていた。
「そのうちわかるだろ」
呟きは太陽の陽射しを受けて輝く海に溶けて流れた。
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