風
青い空に雲は水平線に添ってもくもくと、海の向こうに見えるような天気だった。
チョッパーとウソップ、ルフィは楽しげに一頻り笑った後、それにしても暑ィなーと天を仰いだ後にまた何かの遊びの興じているようだった。
その声を遠くに聞き、閉じた瞳の裏側で生温い風にあぁ、確かにな。今日は暑い、と心中で相槌を打つ。
じりじりと灼かれた耳元のピアスも、夏島の陽に温められた風を受けたぐらいでは冷めるはずもなく。
座った場所最初は階段の影だったというのに今は真上からの日光が体中に降り注ぎ、尻の下、甲板が時折ぎぃぎぃと軋みながら揺れなければ、海上に居るということも忘れてしまうような天気だ。
キッチンから昼食の準備がそろそろ整うのだろう、何とも香ばしい匂いが漂ってくる中、船の腹を打つ波音を聞く。
もうすぐあのコックが昼飯だと皆を呼ぶだろうから、そうしたらこの目を開けて立ち上がり、キッチンで冷えた酒でも一つ飲もうかとぼんやり考えていると、時を同じくして軽い足音が、自分がもたれ掛かった後ろ甲板への階段を軽やかに駆け上がって行った。
続いて、コツコツと船の揺れも気にせず物静かに歩く音が近付いてくる。
「ナミさん、手伝いましょうか?」
先に階段を上がっていっただろう女に掛けられた声は、自分の頭の頂にほど近く思える。
が、おそらく靴音から考えて、多少離れたところから航海士に尋ねているのだろう。
目を瞑っているからと言って一瞬、距離を誤認した自分に内心で恥じ入りながら、そのままじっと目を閉じて眠ったふりを続けていると、後甲板から「ううん、いいわ」と返事が聞こえた。
「ロビン、先にキッチンに行ってサンジくんに伝えといてくれる?みかん持ってくって・・・」
沈黙ばかりが見えてくるのだが、おそらくは頷きだけを返したのか、すぐにコツコツと踵を鳴らして歩き始めた女は板張りの階段を上がりふと立ち止まると「・・・剣士さんに手伝ってもらったら、どう?」と言った。
本人の意思を尊重してもらいたいものだ。
何を言われてもこんな暑い日にこき使われるのはごめんだと狸寝入りを心に決めこんだところ、暫時返事が聞こえない。
俺が聞き逃したのか、或いは目を瞑っていればうとうとと眠りに落ちるのも道理、夢だったのかも知れねェなと思っていれば、ようやくの後「一人で大丈夫。」とナミが言った。
何が不満なのかロビンが「あらそう?」と言うと同時に、ばたんと食堂のドアが開く音が響いた。
「ナミすゎ〜ん、ロビンちゃ・・・あれ、ロビンちゃん。」
ドアを開けたクソコックの目の前には呼ぼうとしていた女が立っていたのだから、飾った声色が一瞬戻る。
「ごめん、遅くなったけどランチにしよう。さ、どうぞ。」
「遅くなんかないわ。冷たい飲み物でも飲もうって言ってたのよ、ナミさんと。」
「そうなの。」と、また一番高い場所からナミの声が降ってくる。
「サンジくん、今良さそうな蜜柑選んでるからジュース作る準備しといてくれない?」
お任せくださーい、と甘ったるくも元気な声で返すと、サンジはまるっきり違う態度で「おーい、お前ら、飯だぞ!」と威勢良くも甲板中に通るように叫んだ。
待ってましたと甲板で遊んでいた三人もバタバタと食堂に向かって駆けてくる。
じゃあ俺も、と瞼を開きかけたところで気付いた。
もしも今あっさりと目を開けて立ち上がったりしようものなら、女二人に何を言われるかわからない。
何せあいつらが喋ってる真下に座して大声でなくとも声がはっきりと聞こえる距離だ。
俺に手伝わせるだの、手伝わせないだのという会話を聞こえていたことは明らかで、何故私たちの会話を聞いていたなら自分から手伝おうと、気が利くことが言えないのと喚かれたら鬱陶しい。
せめてその会話から5分も経っていれば、さっきは寝てたと言えるものだが、あのクソコックが一寸もおかず飯だと言ってくれたおかげで、その直前に交わされた会話は聞こえなかった・・・では済まされなくなってしまった。
───このまま、寝てた方が良い。
そうだ。それが最善だ。
開きかけた瞼はまたしっかりと閉じる。
じりじりと髪や肌や服を纏ったところでさえ、暑いというより熱いほどの直射日光の下だが、この際心頭滅却すれば何とやらだ。
そうと考えている内にぱたんと食堂のドアが閉じられた。
最後にコックが二言三言、未だ寝ている俺の悪口を言っていたようだが、空きっ腹な船長に急かされて渋々とキッチンへと戻ったに違いない。
これでまた、食事を残されることを厭うコックが再度出てきて罵詈雑言と共に俺を起こせば、目を開けて食堂へ行けばいい。
我ながら完璧だ。
生温い風と共に聞こえてくる鼻歌に、この空の下、航海士と二人。
いつの機嫌をころりと変えて、俺にぶつくさ文句言うかわかったもんじゃねェ女だ。
できる限り息を潜め、じっと腕組みしたまま女が早く用を済ませて食堂へと入って行くのを待つ。
若しくは、女が蜜柑を選んでいる間にコックがドアを開け、大声で俺を呼べばいい。
どちらが先かは問題ではない。
とにかく、きっかけさえ出来れば、この真夏日に照らされじりじりと息苦しい空気の中、こうしてわざわざ暑い甲板上で寝たふりを決め込むことを止められるのだ。
ざあざあと流れゆく潮がざぶりと船を打つ。
幾度目かに必ず船はゆらりと揺れる。
陸が近いのか、どこかで海鳥がみぃと啼いた。
生温い風が肌を伝って流れた時、鼻歌が近付いてきた。
とんとん、と体の軽い女の足音が小気味良く階段を降りてくる。
とんとん、とん、と最後には少し飛び降りるようにして──また続けて階段を降りてくる。
(・・・・・?)
食堂に行くなら、女の足はそこで曲がり、平面の上でもう少し軽く音を刻む筈だ。
それがまだ、降りてくるということは───
「本当に寝てんの?」
意識的に澄ましていた耳に突然大きな声が響く。
実際は大きくも何ともない。甲板に他に誰も居ない所為か、むしろ、普段よりも小さく発せられた声音だがとにかくでかく聴こえたのだから、情けないことに心臓がどくんと脈打った。
(・・・──いや、俺が悪びれる必要なんかねェか。)
そもそも、寝てる人間をつかまえて──実際は寝てはいなかったわけだが──用を言いつけようなどと常々企んでいるこの船の女どもが悪い。
何かありゃすぐ人をこき使うことを考えている。
夏島が近いとは言え、気力も削げ落とさんばかりの炎天下においてそうそう言うことを聞いていられるほど俺もお人好しじゃねェからな、と内心でつぶやき、女の言葉に反応一つ返さずに居ると、また一段と声が大きくなった。
どうもナミの奴、俺の顔を覗き込んでいるらしい。
「寝てんのかしら?本当に?ね、寝てる?」
寝てる、と答えたら負けだ。
狡猾な女の誘導尋問が今から浴びせられるに違いない。
腹の内でよし、と一つ気合を入れて唇を結んだままじぃっと動かずにいると、続けてナミは「別に何かしてもらおうなんて思ってないんだけど?」とまた、尋ねるように語尾を上げた。
そういうわけじゃねェ、と言いそうになるが、固い決意が衝動を抑えてくれた。
「ふーん?本当に寝てるんだ。」
またどこかで海鳥が啼いた。
みぃみぃと二度、高く空に声を響かせた。
ナミはしんと口を閉ざし、けれども気配はまだ間近にあるから、俺が寝ているかどうかを疑っているだろうことは明白だ。
瞑ったままの瞳に、何故か光景がありありと見える。
突き抜けるほどに高く、青く、夏空の空から真昼の太陽が燦々と注ぎ、濃い光を背に受け、俺の前に屈んだ女はガキみてェに膝を抱いたまま俺が目を開けるのを待っている。
そんな光景が、見ても居ないのに、潮騒に紛れて聴こえる女の息遣いを頼りにしただけで、手に取るようにわかる。
ならば根競べかと愈々息を潜め、飽いた女が大人しくこの場から去ることを待つ他ない。
「・・・そ。寝ちゃってんの。」
ナミはつまらなそうにため息を漏らした。
人をおちょくって遊ぶつもりだったのか、ひどく残念そうに殊更に長く重い溜息を漏らしている。
「じゃあ、何しても起きないの?」
いかん。
うっかり、起きねェとまた答えてしまいそうになった。
これがこの女の策略だ。
乗るな乗るな、と内心で首を振ると、続けざまにナミがもう一度「起きないのね?」と念を押すように言った。
勿論だとも。
男に二言は・・・・口に出したわけじゃねェが、口に出さずとも二言はねェ。
「・・・・くすぐっても?」
くすぐっ・・・・・耐えてやろうじゃねェか。
「・・・・・迷子って言ってもダメ?」
俺ァ迷子になった事はねェ。
何でそれで俺を起こせると思ってんだ、アホ。
「うーん、つまんない奴ね。」
然り。
この状況でみすみすこの女の思うつぼにはならねェ自信はある。
「じゃあね・・・・・これは?」
すっと何かが唇に当たった。
触れてすぐに、引っ込められたそれは、少し冷たく──だが、果たして、人の肌以外の何物でもない。
しばらく何が唇に当てられたのかとまんじりと考え、ようやく、ナミの顔を浮かべた。
次に潜めた息もそのままに、ナミの大きな瞳や、通った鼻筋や、そしてその下に在るべき唇を、丁寧なまでに一つ一つが脳内を過ぎっていく。
じゃあ、まさか。
今、俺の口に当たったもんは───
は、と瞳を閉じたまま我に返った時にはまた階段を上る女の足音が響いていた。
今度はくるりと位置を買え、平面を歩き、おそらくは食堂のドアの前に立ち止まる。
早く、中に入んねェか。
早く、ドアが開いてまた閉じる音がしねェか。
でなくば、目の前で問い掛けられ続けるより、心地悪い。
早く、早くと念じる。
女の細い手が開けるだろうドアの、あの小さく軋む音が、早く己の耳に届けとだけを念じ、挙句、早くしねェかと言いたくて堪らなくなってくる。
不意に、頭上から潜められた声が降ってきた。
「狸寝入り。」
「どこの世界に寝ながら眉間の皺で返事する奴が居るのよ。」
バーカ、指よ、指、と女は早口に言うと、さっさと食堂へと入っていった。
ばたんと音がして、ようやくドアが締められたと知った途端、無意識に大きくふうと息を吐いた。
ゆっくりと目を開ける。
長らく閉じた瞳に痛いほどの日光が、この眼に映る世界の全てを照らしていた。
目が慣れるまでじっと影を見ていた。
啼いていた海鳥が魚を見つけたのが二、三羽群れて海面すれすれに飛んでいるのが見えてきた頃、食堂の中から、男連中が俺を呼んでいる声が聴こえた。
もういいか。
待っていた二度目の呼び掛けだ。
今から食堂に行っても何らおかしくはない。
よ、と体を起こし、腰の刀を差しなおし、ぐいと腕を空に向けて挙げる。
座ってただけの全身にようやく血が流れた。
一頻り伸ばす。
そうして、歩き出すとまた風が吹きぬけた。
己の肌を滑り上がり、耳たぶに触れた風は冷たく。
否。
今日の日の風が冷たいわけがねェ。
「・・・あの女」
己の指すらも冷たく感じる頬を摩り、食堂に入ればあの女がどう笑うのかと想像し、クソ、と呟いた。
=======FIN=======
2006年ゾロ誕作品