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10




「ナミさん、あの・・・」

ようやく仕事を終えて、ロッカールームへ向かおうとしたとき、隣のブースで客と電話で会話していたビビが受話器を置いて慌ててたように顔だけを各ブースを仕切っている間仕切りの上にぴょこっと出してナミを呼び止めた。
ナミが歩を止めて振り返ったことを確認して、ブースから出て来る。


「どうしたの?」

「あの・・・バギーさんの事なんですけど・・・」

公務員と嘘を吐いたマジシャンの事だ。
ビビに以前聞いた彼に関するデータがナミの頭の中に浮かんだ。

「女性会員を検索してみたら、アルビダさんだけだったです。やっぱり年収に関わらず、というのがネックになってしまって・・・」

「アルビダさん・・・?」

「えぇ。それで、アルビダさんはほら・・・あの、昔の写真を相手に見せるって、ナミさんが約束してらしたから・・・今、バギーさんに連絡取って来社してもらうように頼んだんです。そうしたら・・・」

「ちょっと待って。もうバギーさんに連絡したの?!」

突然ナミの語気が荒げられた。
ビビがそんな上司の様子に瞳を丸くして何度かそれを瞬かせてから「駄目でしたでしょうか?」とおそるおそる口にする。

「・・・アルビダさんの備考欄、読んでない?」



アルビダは少々特殊な客だ。

ナミは殊更彼女の事は自分が相手を見つけてあげたいという思いが強いために、備考欄に『ナミ専属。彼女を希望する男性会員がいた場合、事前に報告必須』としっかりと書いておいた。
だが、今ビビから聞いた話はナミにとって初耳で、明記されていたその文章をビビが確認を怠った事実にナミは一瞬怒りを顕にしてしまった。

けれども、彼女もまだ入ってすぐなのだ。

『事前』という部分が、男性会員のバギーに写真を見せる前か、それとも実際にアルビダに連絡をする前かの判断を誤ったことを瞬時に悟ってナミは申し訳為さそうに俯いてしまったビビの肩を励ますように叩いた。

「私の書き方も悪かったわ。それで、バギーさんが何?」

慰めるように優しく言っても、ビビは元来責任感が強いのだろう。
この会社に入って初めて犯してしまった過ちに落ち込みを隠せない様子だ。

彼女自身、そんなことがあってはならないということはよくわかっていて、何でもナミやナミがいない時は社長のロビンに判断を仰いでいた。
それをしなかったというのは慢心以外の何者でもない。

わかっているからこそ、自らを省みてビビはくぐもった声で説明を始めた。


「その・・・アルビダさんの事をご存知の様子なんです。名前を聞いただけで、すぐにでも来社して写真を確認したいと申されて・・・」

「すぐって・・・もう8時よ?」

「はい。会社の営業時間も8時までと申し上げたんですけど・・・すぐに来るから待っててくれって仰って、電話を切ってしまって」

「そんな・・・ビビだって、もう2時間もオーバーしちゃってるのに。・・・で、バギーさんはもうこっちに向かってるってことね・・・」

「そうなんです。電話してももう出てくださらないし・・・携帯電話は、その・・・料金未払いで止められているようなんです」

「迷惑な奴ね・・・」

はぁ、と、大きな溜息を漏らしてナミが眉間に皺を寄せた。

しばし考えた後に、けれどもこのアルバイトという身分の部下を残すわけにもいかないということはわかりきったことで、ナミは肩を落として「わかったわ」と呟いた。

「私が残るから、ビビはもう上がってちょうだい。悪いわね、こんな遅くなっちゃって。」

「あ、あの、でも私のお客様ですし・・・」

「ああ、うん。今日のところは私がビビの代わりに話を聞くだけ。それからどうするかはあんたに任せるわ。」

先ほどの慰めの言葉よりも、『任せる』という言葉の方がビビにとっては大きな励ましになったのだろう。彼女は安心したようにようやく強張っていた顔を緩ませて「ありがとうございます」といつものように頭をぺこんと下げた。

ナミがそんな部下に軽く笑って「この貸しは高くつくわよ」と言ってビビの背を押して帰らせた後、給湯室でコーヒーを淹れていれば、ポケットの中で携帯電話が震えた。



開いてみれば、同居人からのメッセージだ。

『今日は?』


短い文章が彼らしいと苦笑して、ナミはペットのように家で彼女を待っているだろう男へ『遅くなるから適当に食べてて』と返信した。



休日だったあの日、彼が途端に不機嫌になったかと思えば、翌日から突然メールをしてくるようになった。
それまではナミからしかメールを送ることはなかったというのに。

と言っても、内容はいつも『メシは』とか『今日は?』とかだけなのだが。

それでも家でおなかを空かせて自分を待っている男をふと頭によぎらせれば、ナミは呆れながらもメールを返してしまうのだ。


(ホント、一体どういう心境の変化かしらね)

一日一回、夜になれば入ってくる彼のメールをもう一度見直して、ナミは狭い給湯室で口元を緩めていた。





***************************************





「バギーさんですね。どうぞお掛けになって」

15分もして、その客が姿を現した。

もう受付も兼ねている一般事務の女子社員も帰宅してしまった。
ナミ自身が、オフィスのドアが開いた音を聞きつけて、事務所の入り口まで出てみれば、そこにはこの時期にトレーナーにジーンズという何とも風采のあがらない男が一人、息を切らして立っていた。

走ってきたのだろう。

肩で息をする男を自分のブースまで案内して、客用の椅子に掛けさせると、ナミは彼が落ち着かせるために緑茶を用意してしばらく男から口を開くのを待った。


「・・・アルビダがいるってのは・・・ゼェ・・・ほ、本当か・・・?」

搾り出すように言う男に、手でお茶を飲むように促す。
熱すぎず、冷たすぎないように淹れられた緑茶をぐいっと飲み干して、ようやく男は大きく息をついた。

「その前に、どうしてそんなにアルビダさんにお会いしたいのか伺ってもよろしいでしょうか?会員の個人情報をそう簡単に公開するわけにもいきませんから」

丁寧な口調でも、きっぱりと言い放ったナミの瞳は男を観察するような鋭い光が湛えられていた。
慇懃無礼にも彼女はこの男性会員に疑いの眼差しを向けているのだ。

もしかしたら、アルビダが大会社の社長ということを知っているのかもしれない。

それこそアルビダが嫌っていた出会いで、事と次第によっては彼に対して『それはあなたの知っているアルビダではない』という嘘を吐かなければとナミは心中警戒していたのだ。


「俺が出せって言ってるんだ。早く写真なり何なり出しやがれ!」

(あら。穏やかでないわね)

男は一秒も待てない、とばかりに身を乗り出してナミに詰め寄っている。
だがそれに負けるナミではない。

微笑みで返して「決まりですから」と軽くあしらった。


「『アルビダ』さんという女性会員がいることは本当です。けれども、当社の大切な会員の方ですから。何故貴方がそこまで焦ってアルビダさんの顔を確認しようとしているのかがわからなければ、彼女の情報をお教えすることはできません」

「・・・アルビダってのは、昔付き合ってた女の名だ」




バギーが観念したように椅子に腰をどっかりと下ろした。

人差指をデスクの上でトントン、と鳴らして早く教えろとばかりにナミを見ている。

「そうですか。でも、それだけじゃ・・・むしろ、過去の事でトラブルがあっては、当社も困ります。もう少し具体的にお話してくださると助かるんですけど。」

「・・・前にここに来た時も言ったぞ。昔俺の助手をしてた。同棲もしてた。その女の名がアルビダだ」

ビビの話の詳細を思い出して、ナミが得心した。

その女がいなくなってから、この男の人生がパッとしなくなったとか、女がある日突然いなくなったとかという話だった。

(じゃあ、その女は、コイツの事嫌って姿を消したってことじゃない)

少し赤らめた鼻の男の顔をじっと見て、ナミが「では、質問させていだきます」と前置きして、詳細を訊きだした。


「その女性があなたの前からいなくなったというのは、何年前でしょうか?」

「10年・・・いや、11年前だな」

「その理由は?」

「・・・客が、野次飛ばしてな。いや、それはいつもの事だったんだが。その日は随分落ち込んでてよ。気付いたらいなくなってた。」

「その野次というのは?」

「デブとかブスとか・・・引っ込めとかだ」


ナミの頭の中にアルビダの昔の写真がポンッと浮んだ。
この男とアルビダが繋がっていく。



「いつもの事だったのに、その日は何故落ち込んでたのかしら?そんなにひどい野次だったんですか?」

「俺が知るわけねぇ。アルビダの奴、いつだって自身満々だったくせにな・・・」

「彼女が貴方を嫌って出て行ったのではありませんか?」

「・・・俺が、知るわけねぇ。」

さっきまでの覇気はどこへやら、バギーという男は苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでしまった。


「・・・わかりました。」


しばしの沈黙の後、ナミが言った。



「じゃ、見せてくれ!」

「いいえ、お見せすることはできません。まずアルビダさんに確認を取ります。もし貴方の知っている女性がアルビダさんだとしても、何故貴方から離れていったかがわからなければ貴方に彼女の情報をお教えするわけにはいきません。貴方を嫌っているのかもしれませんし、当社に在籍するアルビダさんが貴方の知らない女性ということも十分に有り得ますから。とりあえず、今晩のところはお帰りいただけますか?明朝・・・11時頃に担当の者からご連絡さしあげます。」

ナミの言葉を聞き終えて、男は血相を変えた。

「こっちは10年、探してたんだぞ!今すぐその女の写真を見せるぐらい・・・」

一瞬その言葉にナミが眉をひそめる。
男は10年、その過去の女を忘れられずに探し続けていたと言うのだ。

では、何故この会社に登録に来たのだろうか。

冷やかしか、それとも金に困って結婚詐欺でも働こうとしているのか、という考えが頭に浮んだのだ。


「バギーさん、当社で結婚相手をお探しになろうというおつもりなのでしょう。そのような経緯があればその女性を忘れられないということも理解できますが、そんな気持ちではまとまる話もまとまりませんよ。」

バギーがぐっと言葉に詰まって、けれどもその後に呻くように言った。

「お、俺だって忘れようと・・・けど、いきなりアルビダの名前を聞かせたのはそっちだろう」

「えぇ。ですから、事実はきちんと確認いたします。今日のところはお引取りください。必ず明日お電話を差し上げますから」

「絶対だな。11時だな。」

「勿論、約束は守ります。本日はお騒がせして申し訳ございませんでした」

席を立ち上がって、深々と頭を下げられてはバギーもそれ以上どうこう言えるわけもなく、男は苛立ちを隠せずに乱暴な足取りでようやく帰って行った。



時間を見れば9時半。


今から帰ってご飯を作るというのも面倒だし、ゾロには適当に食べておけとメールした。
ナミはオフィスの入っているビルから出ると、迷わずにあのショットバーへと足を向けた。





***************************************





この店を教えてくれた友人は、既にここの常連らしく、土日には必ず混むから行くなら平日に行く方がいいと親切にも付け足してくれた。

今日は金曜日だ。

多少混んではいるが、ナミはカウンターで飲めればそれでいい。

店員に自分からそう告げて、その男の眼前に躊躇いなく座った。



「や。随分お疲れの様子だな」

初めてこの店に来てから、もう5回目だ。

仕事が終わって、家に帰る前に時間が多少でもあれば一杯飲むためにこの店に立ち寄る。
それはもうナミの日課にもなっていた。

「仕事でちょっとね。それより、どうなの?私と付き合う気になってくれた?」

ハハッと軽く笑って、エースは初日ナミのために作ったカクテルを彼女に注文される前に作ってその白い手の前にすっと置いた。

「んん・・・やっぱりこれが一番美味しいわ。そろそろ作り方教えてくれてもいいんじゃない?」

「教えちまうと他の店で作らせるだろ?そうそう上客を逃したくはねぇからな」

「あら。あなたを落とすまではこの店でしか飲まないわよ。」

ブラックライトは白い色を浮かび上がらせる。
ナミの透き通るような肌が、そのライトにとっては『白』と判断できるのだろう。
微笑めば、まるで一枚のアーティスティックな写真のようだと思いながら、エースはその客を見ていた。


「そりゃ有難いな。じゃ、俺がOKしなきゃ一生通い続けてくれるってことか?」

「一生?それは無理よ。花の命は短いのよ。あんたが駄目なら、次の男を探すわ」

付き合え、と言ってほぼ毎日顔を見せる女は、やけにあっさりと言い放ってエースの苦笑を誘った。

「じゃあ何で俺の女になりたいって?」

「あんたならいい結婚相手になりそうだもの」


『結婚』なんて重い響きは、大抵聞いただけでうんざりする。
だが、あまりにもあっけらかんと言うナミが口に出したその言葉は、到底そんな印象を持たせるようなものではなかった。
まるでゲーム感覚にも思えて、エースは逆に気を良くしていた。


「結婚ね・・・俺ほどそれに向かない男はいないと思うけどな」

「いい男は総じてそう言うわ。自分をわかってる証拠よ。
 だからあなたと付き合いたいの。何なら試してからでもいいのよ」

「試してから?」

「体の相性。・・・大切でしょう?」

あぁ、そうか、と笑いながらエースが口を開きかけたその時、店のドアが開かれた。
この店は二十扉になっている。
店内の雰囲気を崩さないためにそうしているらしい。

一つ目の扉をくぐるとカウンター周辺だけに微かにピッと機械の音が響いてわかるという仕組みだ。

新しい客かと店長が顔を上げて、入ってきた男を見た途端に相好を崩した。


「ルフィ。久しぶりだな、お前。何してた?」

ルフィ、と呼ばれた黒髪の男がナミの隣に座る。

ナミは観察するような眼差しでその男を見てみれば、いやに童顔の男は親しげに笑ってエースと話している。顔を見ただけでもその能天気そうな性格が窺えるというものだ。

(もう、邪魔してくれちゃって・・・───)

あと少し、だったと思う。
もう少しでエースの心を動かすことに成功したはず。
そこでこの男の出現により、エースはナミと先ほどまで交わしていた会話をもう忘れたかのようにルフィというこの男と笑い合っているのだ。

「エース。この人は・・・?」

咳払いして彼らの会話を遮るようにして聞けば、カウンターの向こうに立っていた男は、ルフィにカクテルを一つ出してから「弟だ」と言った。

「弟・・・?」

そう言えば、どことなく似ているような気がする。

紹介された男は顔をパッとナミに向けて手を差し出した。

「俺はルフィだ。よろしくな!」

握手を返せば両手で彼女の手を包むように強く握って、ルフィは屈託のない笑顔を浮かべた。

「私はナミよ。その内あんたのお義姉さんになる予定。よろしくね」

「"おねえさん"・・・?」

首を傾げて、ルフィはその意味を聞こうとしたのかナミを指差してエースに顔を向けた。
兄はやはり軽い笑みを漏らして肩を竦めている。

「エース、こいつと付き合ってんのか?」

「さぁ・・・試してみようと思ってはいるけどな」

意味深な視線がナミに向けられた。


黒いウェスタンハットの鍔の奥の眼差しが全てを語っていた。

ナミは自分を見据える男の瞳を受けて、ゆっくりと口元を緩めた。

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