13
ゾロが振り返れば、そこには上司で、事務所の社長でもあるミホークが鋭い目付きで立っていた。
その手には彼の携帯電話がしっかりと握られている。
「いかんな。法廷から抜け出したかと思えば、こんなところで女に電話か」
「別に、そういうわけじゃ・・・───」
今日の法廷がもう少しで終わり、ということはわかっていた。
ある機械を開発した日本国内の中小企業に、アメリカの大企業が『特許を侵害した』とアメリカ国内で提訴したのだ。クライアントの中小企業はネットで米国、英国にも商品を卸すルートを確立している。そこで日本国内で特許を取った矢先の事だった。調べれば、米国で訴訟を起こした大企業の開発時期もクライアントの中小企業とほぼ同時期で、どちらの特許が果たして正しいものかを決めるためには、クライアントは裁判の行われるアメリカへと渡米しなくてはならない。
だが、弱小零細企業とも言えるこのクライアントに、数度に渡って日本と海外を往復する費用はなく、ミホーク国際法律事務所へと泣きついてきたのだ。
そこでミホークは国内で同じくアメリカ企業を相手取った訴訟を起こすことにした。
日米両国で裁判はほぼ並行して行われてきた。
この訴訟競合に打ち勝つために、ゾロもミホークの片腕として随分と忙しい日々を送ってきたものだ。
それがようやく今日、国内の訴訟に判決が下される。
ゾロにしてみても、長く待ち望んだ日だったことには違いない。
だが。
何故か頭に浮ぶのはあの女のことばかりだ。
長い判決主文を裁判官が読み上げることを待っている間に、ナミが昼休みを終えてしまうかもしれない。
少しだけ、せめて彼女が「大丈夫だ」と嘘でも言いから言ってくれれば良いというのに、今朝の彼女は一向に明るい表情など見せる気配もなく、そのままふらりと家を出た。
どうにもその後姿が頭にちらついてしまって、ゾロは何度か時計を見た後で堪えきれぬとばかりに席を立って静かに法廷を出た。
せめて、一言。
せめて、一言でいい。
いつものように軽い冗談でも聞かせてくれればそれでこの不安が取り除けるのだ。
そう思って、彼女にメールを送れば、意外にも彼女は『何が?』と訊き返してきた。
わかっていないはずがないだろう。
隠したいのだろうか。
いいや、それならば今朝自分に怒りを顕にしてきた彼女は一体何だったのか。
そんな事を思って、慣れぬ手取りで今度は彼女が逃げられないような言葉を選んだ。
我ながら長い文をようやくの思いで送信すれば、彼女からすぐに返事が届く。
『私が、男と駄目になったことがそんなに嬉しい?』
それを読んでゾロは思いっきり顔をしかめていた。
(嬉しい、だと・・・───?)
心配してやっていると言うのに。
今朝のあの女の姿が頭から離れず、ずっとやきもきしていたというのに。
ただ純粋に彼女の体調を気遣って、慣れぬメールを送信したというのに、一体この女は何を言い出すのか。
考える間もなく、胸ポケットから一枚の名刺を取り出した。
ナミにもらった彼女の名刺だ。
そこには彼女の携帯電話番号が記されていることを、ゾロは頭の片隅で覚えていた。
こんなとこにそれを書いてしまったら、休日も何もあったもんじゃないだろうと一瞥してすぐに気付いたからだ。
名刺を見ながら、間違えのないように数字を入力する。
ふと思い立って、番号を入力した後に登録ボタンを押す。
二文字の名前を入力し終えた後に、素早くその番号を発信した。
プップップッと、機械の向こうで携帯電話が基地局を通信している音が鳴っていく。
とにかく一言、何を勘違いしているのかと言ってやりたい。
自分がいつ嬉しいと言ったのか。
自分が何故嬉しいと思うのか。
それを問い質してやらねば気が済まない。
そんなことを思って、彼女が電話に出ることを待つ。
肩と頭で小さな電話を支えながら腕時計に目をやれば、もう1時だ。
彼女の休憩時間は終わってしまったのかもしれない。
その証拠にいくら呼び出し音が鳴っても、彼女が出ない。
(駄目か・・・───?)
彼がそう思うと同時に、ようやく呼び出し音が切れた。
『・・・何?』
名乗る前に女は自分からの電話ということを知って、一言、抑揚なく言った。
以前教えた自分の連絡先を登録しているのだろう。
今までメールでしかやり取りをしなかっただけに、電話口から漏れた女のその言葉に、ようやくゾロはその事実を実感して、ふと苛立ちが和らいでいく自分を悟った。
心なしか口調も優しくなってしまう。
「お前な、何つっかかってきてんだ?まだ俺の所為がどうとか言ってんじゃねぇだろうな」
嫌にとげとげしい文字をメールで返した女に、少し嗜めるように言えば、女が突然矢継ぎ早に言葉を返してきた。
『別に、そんなこと言ってないじゃない。あんたこそ、珍しく長文メールよこしてどうしたってのよ。浮かれてるとしか思えないわ。』
「浮かれてるって・・・何で俺が・・・」
『あの部屋を出なくて済んで、嬉しいんでしょ?私にオトコができたら、部屋を出なきゃいけないもの』
嬉しい・・・───?
あぁ、嬉しいってのは嘘じゃないな。
今朝だって、それを聞いた時にはいつしか口元を緩めてしまった自分がいたのだから。
それだけに沈みきった女の態度がどうにも気になるなんて余裕すらも生まれてしまっているのだから。
少し彼女の声が震えたのは、怒りのためだろうか。
成る程、確かに自分が部屋を出なくていい、と喜ぶ前置きとしてこの女が少なからず心に傷を追ったことは事実に違いない。
彼女が今、自分に求めていることは慰めか。
それとも、怒りをぶつけられる存在か。
だが、決してしてはならぬことは彼女への反論ということは明白だ、とゾロは結論付けて言葉を紡いだ。
「そりゃまぁ・・・そうだが。けどな、せっかくこっちが心配してやってんのに・・・」
『誰が心配してくれって言ったのよ?あんた、私の何?お父さん?お兄さん?・・・たかが同居人でしょ?今朝は悪かったわよ。反省してます。それでいいでしょ。わかったら電話なんてしてこないで。』
不意に心を突き刺されたような感触を胸に覚え、ゾロは押し黙ってしまっていた。
何故自分は今、ここにいて、彼女の声を聞いているのか。
何故、彼女の事を心配したのか?
その疑問をようやく自分に問い掛けたのだ。
それと同時に『たかが同居人』と言い放った彼女への怒りがふと胸に湧き上がっていく。
(たかが・・・───?)
たかが、だと?
こんだけ心配してやった俺に対して、『たかが』なんて軽い言葉で俺という存在を一括りにしようだと?
「俺がお前の何かって・・・?」
その答えは、自分こそが知りたい。
何故自分が今、仕事を置いて彼女とこうして話しているのか、その答えを。
『たかが同居人』だからか?
ゆっくりと言い放った言葉を自分の中で反芻して、ゾロは苦々しげに眉をひそめた。
答えが出ないのだ。
考えれば考えるほどに、その思考はぐるぐると回りまわって、また同じ場所に辿り着く。
それは唯一わかっている真実。
『たかが同居人』に対して、自分という人間がここまで気を取られるわけもない。
では、それが何かと言えば、その答えは決して出ることはない。
ゾロは思考の迷路から抜け出るために必死になって反対の事実を突き止めようとした。
(この女だって・・・───)
自分に対して、口うるさく言うではないか。
メシを食えだの、部屋を掃除しろだの、働き過ぎだのと。
(そうだ。だから、お返しに心配してやってるだけじゃねぇか)
相手が自分に対してそうしているのだ。
それと同じ事を相手に返しているだけ。
それは対人関係で至極当然のことだろう。
では、答えの出ないこの問いをこの女に返せば、女はその答えを出せるのか。
そんな考えが過ぎって、ゾロは静かに言った。
「お前こそ、俺の・・・───」
何なんだ、と言いかけた瞬間、彼の手元にそれまで握られていたはずの携帯電話は、もうそこにはなかった。
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「判決は・・・?」
前を歩く男を追って、街頭の人ごみを掻き分けるようにして訊けば、"大先生"と呼ばれる事務所社長はフン、と鼻を鳴らした。
「興味がないのではなかったのかな」
シニカルな笑みを口元に浮かべてミホークが振り返った。
「判決よりも、女が大事なのだろう」
「いや・・・それは・・・別に女に電話してたわけじゃ・・・」
「・・・ナミ、と出ていたが?女の名前としか思えなかったがな」
緑の頭をガリガリ掻きながら、チッと舌を鳴らしてしまう。
この上司は取り上げた携帯電話のディスプレイをすかさずチェックして、その時ゾロが通話中だった相手の名をしっかりと確認した後で、冷徹にもそれを切ったのだ。
言い訳などしようとした自分がバカだった。
素直にそうと言わなかった自分を妙に腹立たしくて感じて、ゾロは舌を打ち鳴らしたのだ。
「・・・悪かった。もうしねぇよ」
「ふむ。過ぎ去った事を言うつもりもないがな。」
その手に持っていたゾロの携帯電話で軽く持ち主の頭を小突いて、ようやくそれをゾロの手元に返すとミホークはくるっと踵を返してまた歩き出した。
人によっては、この5月の大型連休がもう始まっているのだろう。
どこか浮き足立った雑踏の中、ゾロは黙って彼の背を追った。
「とりあえずは勝訴だ」
しばらく歩いてからぽつりとミホークが呟く。
「今回の判決で米国での判決も多少はこちらに有利となる。お前はとりあえずこの業務を離れて、税無関係の依頼に取り組んでくれ」
「税務・・・一人でか?」
いくら知識を蓄えたところで、苦手分野というものは払拭しがたい。
ゾロがいかにも嫌そうに顔をしかめれば、上司はその雰囲気を気取ったのだろう、重い声で言った。
「・・・実務経験を増やしたいと言ったのは誰だったかな」
「俺です」
「ならば一人でやれ」
冷たく言い放ってミホークは裁判所からほど近い事務所の前に立つと、不意に振り返ってこう言った。
「女がいてもいなくても、仕事に気を抜くな」
「・・・そういう意味での女はいねぇから、安心しろ」
少し困ったような顔でゾロが言えば、その顔をじっと見詰めてミホークがふっと笑った。
「練れてないな。そういう時はバカ正直に答えるもんじゃない」
若い男に老獪になれ、とでも言いたいのだろうか。
それも無理な話とわかってはいるものの、それでもミホークの言葉にゾロはしばし考えた後で「女ができたら、また考えるさ」と返した。
黒いスーツを着たミホークの姿が会社に入って行った後、ゾロはずっと手に握ったままの携帯電話に目を落とした。
「お前にとって、俺は『たかが同居人』か?」
呟いた言葉が雑踏にかき消された。
彼は思い出したように携帯電話に二重に登録されたあの女の番号を一つにまとめ、確認してからメール送信画面を出した。
登録されたアドレスを呼び出してメール本文を入力していく。
『機嫌、直せよ』
家に帰ってまた女と気まずい雰囲気になりたくないのだ。
かと言って、自分が悪いとは毛頭思わない。
いや、むしろあの女が勝手に腹を立てて、勝手に落ち込んで、勝手につっかかってきているだけなのだ。
自分からメールを送る必要などどこにもない。
だが、女と面と向かって話したいことが山ほどあるような衝動に駆られて、ゾロはとにかくさっきまでの会話を白紙に戻すことを思い立った。
ほどなくしてメールが返ってくる。
『今日は早く帰るわ』
にぃと口元を緩めて、ゾロはそれを背広の胸ポケットに突っ込んでようやく事務所へと入って行った。
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