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土砂降りならまだいい。
あの日からしとしとと降り続く雨は、物憂げな気分をただ増幅させるだけで、止んだかと空を見上げればまたぽつりと頬に滴を落とす。
お気に入りの靴は濡れたままの地面の所為で履くことすらも出来ないし、服の皺を気にして髪もまとまりが悪い。
どうしたって肌には弾かれた水しぶきがついて冷房の効いたオフィスに入ってしばらくすると足元から寒さが全身に纏わり付いて、でも家に帰れば一日締め切られた部屋に蒸し暑さが充満しているのだから結局エアコンをつけてしまう。
乾燥機を使って乾かした洗濯物はいつもと違う匂い。
彼が残していった洗濯物を畳んであの部屋の箪笥に入れようとその引き出しを開ければ中に入っていたはずの服は一つも残っていなくて、引き出しを形成する板が顕になっていた。
クローゼットにはハンガーしか残っていない。
あの日のままに置かれていたベッドの上のタオルケットもシーツも洗濯して、畳んだ服と一緒にベッドの上に置くと、まるでその男を待っているようで、少ししてから服はやはり箪笥の中にしまいこんだ。
事務所宛に送れと言われて、ネットで調べるなり電話会社の人が置いていった分厚い本で調べるなりすればその住所はすぐにでもわかるのだけど、それをするにも億劫で、また明日にでもと自分に言い聞かせる内に、もう彼が出て行ってから二週間の時が過ぎた。
一度だけ、家に帰るとそのドアノブにスーパーのビニール袋が掛けられていることがあった。
何だろうと訝しみながら中を見れば、お酒と、そのおつまみになるようなスナック菓子と、後は一体何の材料にしろと言うんだろうと聞きたくなるような統一性のない食材がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
家に入ってその中を全て取り出してみたけれど、手紙のようなものは一つもない。
でも、きっと彼がやったに違いないと思った。
だって、そのお酒も、スナック菓子も、食材の一つ一つも、私がいつもよく買っているものなのだから。
まだ家にストックがあるから買う必要もなかったそれらを、買ったのはきっと彼だろうとテーブルの上に並べたそれを見てぼんやりと考えた。
───今、彼はどこに居るんだろう。
もしかしたらビビの家に居るんじゃないかしら。
ビビは何も言わないけど。
こういうことってそうそう口に出せるものじゃないかもしれない。
いやね、ビビってば私とゾロの関係を誤解してるんだわ。きっと。
明日にでもなればさらっと聞いてみようかな。
聞いたら、私があいつを心配してるって思われちゃう?
そんなの困るわ。
いいのよ、それならそれで。
あの子だったら私より口うるさくないでしょうし、アイツのために甲斐甲斐しくご飯を作るでしょう。
私が誘わなければ寄り道して帰ることも早々ない子だもの。
ご飯を待って、帰ってくるなり喧嘩する必要もないわね。
男を連れ込んで、しかもアイツの所為でダメになったなんて言われることもない。
小ざかしい言葉を並べ立てて機嫌を損ねることもない。
アイツにとっては願ったり叶ったりの環境だわ。こんなところにいるよりも。
じゃあ、どうしてこんな物置いていったのかしら。
乾いていた傷跡が、じくりと痛んだ。
(私が買い物しなさいって言った言葉を忠実に守ったの?)
バカな奴だと思って、そのお金を大体計算してビビに渡そうとはしているのにもう二週間。
彼がビビの部屋にいるかどうかすらも確認できずに過ぎてしまった。
ビビはいつ見ても明るく笑顔を振りまいて、余計な考えがちらついてしまう。
それが彼女がこの仕事に慣れてきた自信の顕れなのかもしれないけれど、そうとはっきり聞いたわけでもない彼女とゾロの関係を想像してはやっぱり最近のビビの様子がやけに楽しげなのはアイツが彼女の家に転がり込んだからだろうという推測が最後には必ず頭を占めた。
今日も、しとしと雨が降る中出社すればビビは可愛い笑顔で私の名を時折呼んで、仕事の確認をしてくる。
大切なことだし、彼女の上の立場にいる自分にしてみれば有難いのだけれど、昼過ぎて5度目に名前を呼ばれた時に堪らなくなってしまって、コーヒーを淹れてくるからと言って、彼女の話もそこそこに切り上げて給湯室へと向かった。
いつものように笑みを浮かべれば、ビビは何の疑いもなく「はい」と頷く。
そんな彼女には申し訳ないほどに、自分の心の中は鬱屈として、真っ黒で、色んな感情はどろどろ交じり合って、晴れないもやもやに気分が悪い。
それすらも馬鹿げていて、給湯室でコーヒーを淹れた後に、デスクに戻ることを嫌ってそこで、砂糖もミルクも入っていない苦い液体を口に含んでいた。
「あ、ナミさん。お疲れさまです」
給湯室にドアを付けられていないから、顔を覗かせるなり自分の名前を呼んだ同僚はその入り口でぺこんと頭を下げた。
「・・・・・・コニス」
「やっぱりこの時期は忙しいですね。何だかご無沙汰しちゃっててごめんなさい」
春先からずっと、職場で顔を合わせることもなかったのはコニスが属するデザイン部がその頃からこの時期に掛けてあまりに多忙だからだ。人手を増やしたいとロビンも言っている部署なのだけれど、なかなか良い人材が見つからないという話を以前、会議で席を同じくしたデザイン部のマネージャーが溜息をついていた。
コニスとも、そう仕事が忙しくなければ飲みに行くこともあるし、時間が重なればランチを一緒にすることもあるのだけど、忙しさと、それからあの事が重なって社内でコニスの姿を見かけたらつい姿を隠してしまっていたのは自分なのに、何も知らない彼女は薄く光に輝く金髪を揺らしてもう一度ぺこっと頭を下げた。
面と向かって会ってしまったら、ワイパーのことを訊きたくなっていた自分が居て、かと言ってもしコニスがラキのことを知らずにあの男に騙されているということだったらうっかり変な事を訊くことで彼女を傷つけてしまうかもしれない。
だから、ずっとどうやって訊けばいいんだろうとその言葉に悩んでいた。
いたのだけど。
今日は、何だか違う。
心がやけに冷めていて、コーヒーではなくお茶を淹れ始めたコニスの後姿に躊躇いもせず、ナミは声を掛けた。
「彼氏が出来たの?」
え、と少しだけ驚いて上擦った声に振り向いた彼女は頬を染めていて、ナミは「彼氏が居るでしょ?」と念を押すように、強い声音を出した。
「ナミさん、どうしたんですか?突然そんなこと」
言いかけて、コニスが熱ッと突然叫んだ。
ポットから急須に注がれていた熱湯が、溢れてその白い手に掛かって、ナミの目にも一瞬の内に赤くなった彼女の肌が映ったのだけど、咄嗟に体を動かすことが出来ずにナミは、慌てて水道の水を手にかけているコニスの、その一挙手一投足を、ただぼんやりと見ていた。
「見たのよ。ちょっと前だけど、あんたとその男が夜に会ってたの。偶然ね」
「・・・付き合っているんじゃないんです。私は好きなんですけど、彼は───」
「あの子がいるから?」
「あの子?」
顔を上げたコニスがその大きな瞳をパチパチと数度瞬かせた。
さすがに、その言葉を安易に口にしてしまった自分の胸に罪悪感が湧き上がった。
もしワイパーが何も言わずにコニスに気を持たせているのだとしたら、それは男の責任で彼女がそもそも人の男を横取りできるような性分でないことは知っている。知らないことは十分に想定されたし、だから今までコニスにどうやって尋ねようと悩んでいたのに。
(──バカ。)
何てバカなこと口走っちゃったんだろう。
コニスを傷つけてどうすんのよ。
余計なこと言って、もしコニスが傷ついたら。
あァもうイライラする。
私、こんな女じゃなかった。
ビビの顔を見ていることが辛いとか。
コニスの気持ちも考えずにこんな事口走って。
私、こんな女じゃなかったはずじゃない。
自分の気分が晴れないからって、意地悪な気分になって、していることはまるで八つ当たり。
「・・・ごめん、何でもないわ。もしかしたら、そういうことがあるんじゃないかって思ったの」
フォローしてみたけれど、でもこれじゃ何の説明になってないって自分ではよくわかっていて、次の言い訳を頭の中で探していた。
口の中にコーヒーの味。
苦さが尚更に心苦しさを引き立たせて、整理のつかない頭に、心の内で叱咤してみても良い言葉が浮かばない。
両手で持ったカップから熱が指先を伝わって体に沁み込むから、その優しい温度が余計に悲しくて、泣きたくなってしまう。
「ごめん」
もう一度言って、俯いたままカップの中で揺れる波紋をじっと見ていると、流れていた水を止めてコニスが振り返った。
「ナミさんはワイパーさんをご存知なの?」
「・・・知ってるわ」
「そうですか」
壁に掛けたタオルで手を拭いて、コニスは布巾で零れたお湯を拭き始めた。
緑の茶葉も一つ残らず拭うとそれを洗って、独り言のように「お客様のお茶ですから、もう一度淹れ直した方が良いですよね」といつもと何ら変わらぬ声音で言う彼女の、その声に顔を上げるとコニスはそれに気付いてふふっと笑った。
「ナミさんが嘘を吐くわけないと思ってます」
「私、あんたとワイパーが似合わないとかそういうこと言ってるんじゃなくって」
こんな言葉、まるでそう思っていたみたいにも聞こえる。
・・・・・・ううん。そう思ってた自分は確かに居る。
だから、こんな気持ちで、こんな頭で、つい口に出してしまうんだ。
「・・・・私、今、すっごく嫌な奴だわ」
「そうですね。いつもと少し違うみたい」
「本当に気にしないで。でも、あんたのことが心配だったのは本当なのよ」
「ありがとうございます。」
にこりと笑ったコニスに少しだけ救われて、温くなったコーヒーを飲んでいると、コニスが「ナミさんでもそんなことがあるんですね」と言った。
「そんなにいつもと違う?」
「だって、そんな弱気なナミさん初めて見たから。入社してずっと見てきたけれど」
「今日は少し変なんだわ。悪かったわね」
「でも今日のナミさん、すごく可愛い」
「可愛い・・・・?」
あ、ごめんなさいとまた頭を下げたコニスは、けれども悪びれもせず微笑んだ。
「何だか謝ってばかりでしょう?いつもと立場が逆になったみたい。」
コニスはすぐに謝る子で、しかもそれが口先だけでなく本当に申し訳ないとばかりに謝るから、こっちだって気が殺がれてしまうことがままあって、そんな彼女は嫌いではない。謝ってばかりいなくていいのにと何度も言ったけれど、直らない彼女の癖を、今日の自分もしているのだとその言葉に気付かされてナミは暫し口をつぐんだ後に唇を緩めていた。
「本当。逆になってるわね」
自嘲するように言うと、コニスは「親近感が沸いてしまうわ」と頬を緩めた。
「こんなことで親近感持たれたら迷惑ですよね。ごめんなさい」
「いいの。全部私の問題だわ。こっちこそ悪かったわ、コニス。変なこと言っちゃった。反省してる。」
「大丈夫です」
何が?と訊く前にコニスが言葉を続けた。
「私、ナミさんも信じているけど、ワイパーさんも信じてるの。だって、好きってそういうことだから」
言ってからコニスは恥らうように頬を染めた。
デスクへ戻ると、隣のブースから電話の応対をするビビの声が聞こえる。
暫くその声を耳にパソコンに向かってキーを叩いていたけれど、ふと途切れた声に電話が終ったのだと知って、立ち上がって間仕切りの上に顔を覗かせた。
「ビビ、訊きたいことがあるの」
「あ、ナミさん。私も・・・あ・・・仕事が終ってからの方が良いかしら・・・」
「・・・・何?」
「ミスター・ブシドーが今朝ネクタイを忘れていったんです。ナミさんに渡せばいいかなと思って持ってきたんですけど。でも、後からの方が良いですよね。それで、お話って?」
「───もう済んだわ。」
なんて都合がいいのかしら。
ゾロが今、あんたの家に居るかって聞こうとしたのに。
あぁでも忘れ物を私に渡そうとしているってことは毎日居るわけじゃないのね。
何してんのよ、あいつ。
バカね。本当にバカね。うちに来た時みたいに強引に居座ればいいじゃない。
それをしないのは、ビビのことが好───どうでもいいわ、そんなこと。
座りかけて、もう一度立ち上がるとビビが驚いた顔で私を見上げた。
「アイツ、今は私の家に居ないの。ネクタイは直接返して」
手短に言って椅子に座る。
コニスと喋って、少し軽くなった心が一気に重くなっていくのが手に取るようにわかった。
唇を噛み締める気力すらもなくてただ、目の前にある仕事を片付けていた。
あんな男のために泣くなんて馬鹿げていると言い聞かせて、キーを打っていた。
時折オフィスに鳴り響く電話の音が遠くて、じわりと動いていく時を過ごすために、この椅子に座っているようなそんなことすら考えて、漏らしそうになる溜息を飲み込んだ。
そんなことに惑わされたら、おしまいなんだから。
土砂降りならまだいい。
弱いくせに、振り続けるからやるせない。
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