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突然男が我が家に来て案外すぐに、ナミは男が本当に仕事に忙しく、ワイパーの言った通りに家にほとんどいないということを悟った。
朝は会社が遠いナミの方が早い。
ナミが朝食を用意していれば、男は欠伸をしながら起きてきて、ぼんやりした顔でテーブルに着く。
それもそのはずだ。
深夜0時を過ぎても帰らない日もある。
帰ってからもその部屋のドアからは微かな光が漏れ、キーボードを打つ音に時折書類を捲っているのか紙の擦れる音が混ざっている。
ナミの言いつけを守って、来た翌日には食材を大量に買い込んで冷蔵庫に突っ込んであった。
だが、それも一向に減らない。
いつ食事を摂っているのだろうと思うが、男は自分で作る手間が惜しいからと言って、結局材料を消化することなく外食で済ませているのだとこともなげに言った。
それでも決まった時間に起きて、ナミが朝食を摂る様を真正面でじっと見ているものだから、ナミとしても何となく居心地が悪くなって、有料ではあるが朝食だけは用意してやることになったのは、男が来て三日目のことだった。
トーストを焼くだけ。
材料がなければ、二枚のパンにマーガリンを塗って、コーヒーを用意するだけということもある。
それでも男は一口目を食べた後に必ず「美味い」と言って笑う。
それを見るのが嫌いというわけでもなし、ナミはその言葉を聞いて「当然でしょ」と言いながらも少し頬を染める。
今朝も、起きてきた男の分のトーストを焼いて、コーヒーを入れて、対面に座る男が眠そうな目でパンに齧り付く様を見て、ナミは満足感を覚えていた。
「あんたって、本当に弁護士なんかに見えないわね。」
パン屑をポロポロとこぼしながらそれを食べていく男に、ふとナミが声をかければ、それがまた珍しいようでゾロは動かしていた口をピタッと止めて真正面の彼女に視線を移した。
「よく言われるが。まぁ資格は取ったばっかだしな。まだ補助者みてぇなもんで・・・大層な案件は任された事はない。だからそう見えるんじゃねぇか」
その辺のサラリーマンとそう違うことをしているわけでもない、と男は笑った。
「やってる事の内容の問題かしら。弁護士って何かこう・・・ひょろっとしたイメージがあるんだけど。」
「そりゃ偏見だ。現に俺がいるだろ」
「・・・ま、そうね」
確かに、よくよく見ればスーツの胸元には向日葵の中に天秤のマークが入った弁護士バッジがつけられている。一般人は付けることが許されないそのバッジを付けた男の姿に少し驚いた。
ここまでこのバッジが似合わない人もいないだろうに、と思ったのだ。
それでも本人は仕事の内容次第なんて言っているけど。
受け持った仕事次第で変わるような男とも思えない。
心底そう思っている、という男に敢えて反論する気も起きないが、それでも呆れたようにナミは笑ってしまった。
「それより、お前は何してんだよ」
ゾロに訊かれた質問に、すぐに答えることができなかった。
その仕事に誇りを持っているわけではない。
まさか結婚相談でお見合いの仲介業務してますなんて言うのは、何となく嫌なのだ。
しばし躊躇ってから、ナミは思いついたように鞄を持ってきて名刺を渡した。
「ウェディング、プランナー?」
小さな紙片を横目で見ながら彼が眉をひそめている。
(ああ、こういう男には縁遠い世界よね)
妙に納得してナミは自分の仕事ではなく、会社全体の説明を始めた。
「ブライダルのコンサルタントよ。
貴方の為に夢のような式をコーディネートいたしますってわけ。
・・・まぁ最近は結婚相談で出会い系のサポートもしてるけど・・・
基本はね、自分たちでオリジナルの式を挙げたいってカップルのために
ドレスのデザインを考えたり、式場の予約の代行をしたり。
式当日の式進行をしたりね。
式のプランを計画して結婚式の日を美しい思い出にしてあげるってわけ。
あんたも相手がいないならどうぞ。」
「・・・へぇ。俺には無縁の世界だな」
「そう?結婚したくないの?」
「するとしたら、自分で探す。わざわざ代行業者に頼むこたねぇし、相手がいなきゃいないでそれでいい」
あっさりとナミの仕事の全てを否定して、ゾロはコーヒーを啜った。
自分でも不満を持つ仕事ではあるが、それを面と向かって否定されるというのも嫌なものだ。
ナミは僅かに眉をひそめてしまった。
「あんたみたいに生活能力ない男は結婚した方がいいと思うけどね。
大体、そういう考えの人が40ぐらいになってようやく焦るのよ。
私もそういう客をいっぱい見てきてるんだから。
男って、結婚に対するイメージが乏しいから駄目なんだわ。
女みたいにもっと具体的にこう!って言うのがないと
本当に一生独身ってことになっちゃうわよ?いいの?」
「あぁ別に・・・お前こそどうなんだよ。人にそんだけ勧めといて自分だって一人じゃねぇか」
うっ。痛いとこつくじゃない。
「・・・私は相手を探してる途中よ。
私に見合うだけのいい男をつかまえるの。
相手さえ見つかればすぐに結婚してやるわよ。」
「そんな事言ってるから婚期逃してるんじゃねぇか」
「逃してないわよっ!失礼ねっ!!」
テーブルをバンバン叩いて抗議してみたものの、ゾロはと言えば余裕しゃくしゃくでマグカップをぐいっと上げて最後の一口を飲み干している。
「私はね、まだ25歳よ。今は30前後で結婚する人が多いんだから!
今すぐ見つければ、全くもって計画通り!
2〜3歳年上の人、高収入、もしくは将来の見込みあり!
顔もスタイルも良くて、もちろん一生を捧げるんだから体の相性も良い人ね。
性格は優しすぎず厳しすぎず、でも一番大切なのは私にほれ込んでるってこと。
惚れられて結婚するのが一番幸せなんだから。」
長話をうんざりした顔で聞いた後、彼が大きな溜息をついた。
「そこまで求められちゃ相手に同情しちまうな」
「失礼ね。私と結婚できる男なのよ?むしろ羨ましいぐらいでしょ?」
自信満々に言い切る。
そんな彼女の姿に内心苦笑して、顔では呆れてゾロはさも興味なさそうに席を立った。
「ま、せいぜい頑張るんだな」
「他人事って顔してるわね・・・
まぁいいわ。あんたはのっけから除外してるから。
それより、わかった?私はね、今この後の人生を決める相手を探すことに必死なの。
だから邪魔者がいたら困るのよ。
私に彼氏ができたら、すぐに出て行ってもらいますからね!」
聞いているのか聞いていないのか、何も言わないままに部屋へと向かった男の後姿にこれでもかというほど強い語尾でそう言ってみれば、男は部屋に入る前にくるっと振り返った。
「IAR」
ぼそっと言ってニッと笑う。
万事オッケー。
それでいい、ということだろう。
男のちょっとした悪戯心を垣間見て、ナミは一体どんな顔して良いかわからず、その戸惑いを隠そうとして大仰な動作で頷いた。
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「こちらが、ナミさんよ。今日から彼女について仕事を学んでちょうだい」
社長自らが連れてきた新入社員は、初々しくキラキラした笑顔を見せてからぺこっと頭を下げた。
「ああ・・・言ってた新入社員ね。」
忘れていたとでも言いたげな口調で、ナミがちらっと彼女を見る。
だが、忘れていたわけもない。
自分が元の部署に戻るために必要な布石となる新入社員をいつ来るかいつ来るかと待ちわびていたのだ。
直感が告げている。
この子はきっと仕事熱心な子だろうと。
仕込めば仕込むだけ、仕事を吸収してくれる。
(やりがいがあるってもんよ)
ふっと笑ってナミは席を立つと手を差し伸べた。
「そんなに緊張しないで。これからよろしくね」
「は、はいっ!あ・・・えっと、ビビと申します。一生懸命頑張るので、よろしくお願いしますっ!!」
差し出された手を両手で強く握って、青い髪の少女は必死な声で自己紹介をした。
ナミの隣のブースをあてがって、簡単な仕事の手順や機器の操作を説明する。
今日一日は客の予約を断って欲しいと受付に頼んでおいて正解だった。
このビビという子、真面目だ。
何せ、仕事に関係のない給湯室の使い方や、トイレの場所なんかもいちいちメモに取っている。
メモを取るというのはプライドの高い新入社員だとなかなかできることではない。
それでも、何でもかんでも書き取っておくという癖をつけるのは案外重要で、その積み重ねが数年後の仕事の出来に反映されるというのもよくある話。
そんな新しい部下の姿に内心喜んではいたものの、ナミは明日休みを取っている。この仕事は土日に来る客が多い。そのために、平日に休みを振り分けているのだ。今日も本来なら休日の予定だったが、言うなれば休日出勤ということで新入社員との顔合わせのために社に出ていた。
いきなり仕事を任せられるわけもないのだが、聞けばこのビビという新入社員、どこぞの商社でOLをしていたという経験があるという。それなら電話の受け付けや、クレームが起こった時にすぐにナミに連絡すればいいということはわかっているだろう。
明日一日、一人で何とかやってもらうためにも入念に説明しておかねばならない。
ロビンもそれを分かっているのか、今日・明日は新しい客との面会予定がないということを知っても何一つ口を出さなかった。
やりたいようにやらせる、というロビンのこの姿勢はありがたい。
とにかくそんな背景もあってことさらしっかりと会社の業務内容を説明するだけでもかなり時間を取られてしまった。
ようやく会社全体の説明を終えたところで、もうお昼。
手早く昼食を取って、その後ようやく自分たちが関わる業務の説明に入る。
ビビの頭にその全てに関する知識が入った頃には既に夕方だった。
「・・・5時か。ちょっと早いけど、今日はこれで終わりにしましょう」
「え?でも6時までって約束で・・・」
「6時なんて定時、あってないようなもんよ。
私達が相手にするお客様はみんな切羽詰ってるから話が長くなるの。
今日は外回りってことにしちゃえばいいんだから。」
「外回りもお仕事に含まれるんですか?」
「適当に言えばいいの。ライバル社の対応を見に行くとか。その店頭に置いてあるパンフを集めるとか。新しくできた式場のチェックとか、私たちの業務内容で言えば今話題のデートスポットのチェックとかね。客に聞かれることもあるから。その気になれば、私たちの帰り道だって情報の宝庫よ。」
そんな事を言うが早いか、ナミはもうデスク周りを片付けて帰る準備が万端という具合だ。
ビビもそんな上司に倣って慌ててメモ帳や参考資料を新しいデスクにしまいこんで、彼女の後を追った。
事務の女の子に外回りに出て、そのまま直帰すると言って会社を出れば、春風暖かく空はうっすらと暗くなりかけていた。
「今度歓迎会するわね。ビビはお酒飲める?」
「えっと・・・飲めないことはないんですけど、そんなに強くもないです」
「そう。じゃあ料理が美味しいとこを探しておくわ。」
ありがとうございます、と心底嬉しそうに笑う女の子を見て、ふとナミの頭に変な考えが過ぎっていった。
素直で、いつも笑顔で、一生懸命。
もしかしたら『アイツ』の好みのタイプってこういう子じゃないだろうか。
この子は絶対に尽くすタイプだと思うし・・・
(・・・仕事じゃないんだから・・・)
あらゆるデータと向き合って、相性の良さそうなカップルを見つけ出す。
そんな仕事の癖が出てしまったのかと反省して、ナミは時折振り返って手を振るビビに笑顔を見せていた。
細い手首に付けられた時計を見れば、時刻はまだ6時にもなっていない。
久しぶりに夜に時間ができた。
明日は休日だしどこか一人で飲みに行こうか、それとも最近おざなりに作っていた晩ご飯を多少手間をかけて作ろうか。
ナミはその場に立ち止まって、顎に細い指を一本かけたまましばらく考え込んでいたが、「たまには、いいかな」と言って夕方の混み合うスーパーへと足を向けた。
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「よし、できた」
誰もいない部屋の中で満足そうに呟いた声がこだましていった。
時間をかけて作ったカレーに、バターで炒めたニンニクを入れて炊いたご飯。
不意に辛い物が食べたくなって作ったそれを味見してからナミはそう呟いた。
大きな鍋に何人分あるだろうか、作られたカレーは食欲をそそる香りを家の中に満たしている。
一人だと尚更カレーはなかなか作れない。
ラキがいる時には、たまにカレーパーティーだ、なんて言って色んな具材を適当に入れて、それでも味の混ざり合ってできあがったカレーを二人して舌鼓を打ちながら食べることもある。
それでも残る。
だから、ワイパーを呼んだり、以前この部屋に住んでいたラキの友人も呼んだりする。
そこまですればようやくその日の内にカレーはなくなる。
けれどもそうなってしまうと、二日目のカレーの独特の旨みを味わうことができない。
(でも、アイツならよく食べるから、この量ならちょうどいいぐらいに残る筈だわ)
ゾロの「美味い」と言って笑う顔を思い出してナミは微かに口元を緩めた。
こんなに美味しいカレーを作ったのだ。
辛い中に旨みがあって、ライスがついているというのにお酒にも合う。
たしか酒を飲む会に入っているという話だから、味覚の点では自分と似通っているだろう。
酒も進むようなこのカレー。
彼は、いつものように『美味い』と言うだろうか。
それとも、それを言うことも忘れてしまうだろうか。
何にしても、ナミを見直すことは間違いない。
そんなことを考えてエプロンを外しながら時計を見れば、しっかり煮込んだ方がいいと思ってぐつぐつやっていたせいか、既に時計は8時を指している。
気付けば外はもう真っ暗で、ナミは慌てて取り込むことを忘れていた洗濯物のためにベランダに出た。
帰宅した頃には生暖かく頬を撫ぜた風も、今はどこかひんやりとした冷たさを持っている。
洗濯物も心なしか湿っているが、それはいつものこと。
ふと見れば、ラキの物干し竿に何もかけられていない。
そう言えば、あの男、洗濯しているところなど見たこともないが。
(・・・まさか・・・───)
一度気になれば、最後まで確認したくなるのが性分のナミは、もう好奇心を抑えられなくなってしまった。
いないことはわかっているのだが、多少の罪悪感があるのかきょろっと周囲を伺ってから、ナミは男の部屋の扉を開けた。
「・・・汚い・・・」
散乱した服。
靴下も下着も。
その間には書類。
机の上には無造作に積み上げられた法律の専門書。
いつ飲んだのかわからないマグカップが数個。
ノートパソコンを持ち帰った時に繋げたのだろう。
ラキのパソコンから引き抜かれたLANケーブルが書類に埋もれている。
部屋の隅のゴミ箱はコンビニ弁当の空き箱が突っ込まれている。
いや、それだけじゃない。
おそらく買ってきた時にそれが入っていた袋をまたゴミ袋にしたと思われるような口のしばったビニール袋がいたるところに転がっている。
(私の部下なら、即、クビにしたいところね・・・───)
笑顔をピクピクと引きつらせて、ナミは乱暴な足取りで掃除機を持ってその部屋に入った。
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