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33




今日も皆が帰った後にその固い長いすに寝転がっていると、最後まで残っていたミホークがじろりと睨んできた。
気付かないふりをして瞳を閉じると大仰な溜息が聞こえてくる。

「ホテルにでも行けば良いものを」

「金がねェんだ」

「給料はどうした」

「金がもったいねェんだ」

全く、と言ってまだ自分をここから追い出そうと睨みつけてくるその視線を鬱陶しくなりかけた頃にシャツの胸元に入れっぱなしだった携帯電話が震えた。
取り出して小言もよそにそれを見て、息を呑んだ。

もう永遠に見ることもないと思っていたその名前が表示されていてゆっくりと何かに導かれるように体を起こした。

しばし画面を食い入るように見て、静かにボタンを押していく。

もう関係ないだとか、今さら何を聞いてきやがるだとか、そんなことを打っては消して、ただ『Y』とだけ返した。



言葉を返すことが気恥ずかしい。

かと言って、電話して声でも聞けばまた腹の中にある種の感情が湧き上がる。
けれども返さなければそこで途絶えることは明白で、その一文字だけが頭に在った。

バカな女だが、聡い。

こっちが見ててイライラするような女だが、この意味は必ず悟る。

悟らなきゃそれまでだ。

送信完了の文字に携帯電話をまた胸元に入れて長いすに寝転がると、ミホークが事務所のドアを開けた。

開かれたそこから生ぬるい風が入り込んでくる。
当然のように電灯もエアコンもスイッチを切ってミホークは何も言わずに事務所を出て行った。
足音をそう立てもしない男のその足音を閉じた瞼の裏で何気なく数えていれば、10歩もした頃にはそれを耳でそうと聞き取れないほどの音になって、後には窓越しに遠くから聞こえてくる車の音しか部屋にはない。

ネクタイが首をきつく締め上げている気がして襟元の結び目を指でぐいっと引っ張った。
どうせならもう取っていいかと力を入れかけて、ゾロはふと耳を欹てた。


さっき消えたばかりの足音がまた近付いてくる。
すぐにドアが開かれて、暫し闇の中にあった眼に眩しい光が飛び込んで目を細めると、ミホークが「客が来ているぞ」と言った。

「営業時間外だろ」

「暇そうに見えるが。」

「暇じゃねェ。寝る。今日も一日こき使われたからな」

「新しい部屋を探すのだろう。いくら働いてもいいぐらいだ」

ミホークはそう言ったっきり口を噤んで、だが、気配は決して消えない。
こちらが頷くまでそこに立ち続けるだろう。
溜息交じりにもう一度体を起こしてネクタイを直しながら顔を上げると、ミホークが顎でドアの外を指した。

「・・・・・?」

「外で待っている」

首を傾げていれば、ミホークはそう言って早く行けとまた顎で促した。

「何で外なんだよ」

「いいから行け。」


事務所の隅に置かれたロッカーの一つを開けて、ミホークはそこからゾロの鞄を仕事用のものと着替えとが入っているものを二つ取り出して放り投げてよこした。
慌てて手を伸ばせば、ずしりと重く体に響いた。

何故、とその理由を考えかけてゾロは、唇を閉ざした。

ドアに立つ男を見やれば、彼は一切表情を変えずにだが、その言葉の意味の答えは一つしかなかった。

背もたれに掛けてあったスーツの上着を引っ掴んで羽織ると鞄を両手に走り出した。
飛び出る際にぶつかった上司に悪いと小さく言って、手にしていたバッグは肩に掛けた。

エレベーターを待つことがもどかしくて、階段を駆け下りるとそのビルの一階の、飾り気もないエントランスホールには、あの女が立っていた。




僅かに切れた息を肩で落ち着かせて、ゾロがゆっくりと近付くと、白い光に照らされたオレンジ色の頭が振り返った。




***************************************




彼女は口を開こうとしない。
彼もまた口を開こうとしない。
手も触れそうな距離までゾロが来ても、ナミは微動だにせずその大きな瞳でじっと彼の顔を見上げていた。

唇を動かそうとして、だが言葉が出ない。
この女にはもう二度と会うつもりがなかったのだ。
次に会うことなど想定もしなかった頭に、何の言葉も浮かんでこないのは当然で、ゾロはただ彼女を見下ろしていた。

不意に、ナミがそっと睫毛を伏せた。

「これ」

手に持った携帯電話をもてあそぶように二、三度指先でつつきながらゾロに見せて、「どういう意味か教えなさいよ」と言う。
その声音は決して強くない。怒っているわけではない。
弱くもない。その意味を悟っていないわけではない。

確認するために、ここまで来たというところだと直感が告げて、そういえば彼女の家が随分と近いのだと今更ながらに思い出した。
こんなに近かったのに、遠く感じていた自分がまるで地に足を付けていなかったようにも思えて、頭をがりがりかきむしるとようやく口が動いた。

「そのまんまじゃねェか」

「───てめェなら・・・」

肩に掛けていた鞄ががやけに重く、もう一度持ち直すと、ゾロは足を出入り口へと向けた。


外に出れば歩いている人間もそういない。
帰宅ラッシュの時間もとうに過ぎて、外灯だけが騒がしく夏の夜を飾っている。
蒸し暑い熱気が、今夜は寝苦しくなると告げているようなその外気の中に出てゾロは僅かに眉を顰めると、ナミの家とは反対方向へと体を向けた。

「わかんないわよ、言ってくんなきゃ」

自分を追って外に出てきたナミの声が背にある。
だが、振り向くことはしたくなかった。
見れば必ず自分が、抑えきれぬ衝動にまた前と同じことをしてしまうという思いが漠然と胸中に在って、それをすれば女が愈々自分から離れていくだろう、と考えたところでふと、それの何がいけないのかと己に問いかけた。

もう会わないと一度決めた相手に嫌われたところで、何ら不便に思うこともない。

歩みを止めて振り返ろうとすると、背中にナミがどんっとぶつかった。

「痛いわね!急に止まらないでよ!」

「お前、何しに来た。さっきのメールは何なんだよ」

「だからわざわざ聞きに来てあげたのよ。あんたが・・・・・・」

いけない、と思ったのだけど、口が止まらなくなった。
だって、コイツ、何でこんな不機嫌そうなのよ。
そんな顔されたら私だって───どんな顔していいかわかんなくなるじゃない。

「あんたが、はっきり答えないのが悪いんでしょう?私だってね、早く寝たいのよ。疲れてるの。今は忙しい時期なのよ。それをせっかく私から来てやったって言うのに何よ、その態度は!大体何なの!?はっきりビビとはそういう関係じゃないって言えばいいじゃないの!バカ!」

「バカはどっちだ。俺ァそんなこと知らねェって言っただろ。こっちはお前に来いなんて頭下げた覚えはねェ」

「じゃあどうしてこんなメール送ってくるのよ!」

「知るか。聞かれたから答えただけじゃねェか。」


何よ、コイツ。

何よ、この態度。

私のことって、仄めかすその一文字を送ってきたのは一体どこのどいつよ。
あんたがそうやって送ってきたから今、私ここに居るんじゃない。

一言言えばいいだけでしょう?

何で言わないのよ───


「・・・・バカッ!!」


踵で思いっきりゾロの足を踏みつけると、ヒールが革をもろともせずに痛みを与えたようでゾロは何しやがるって言い出しそうな顔で私を見下ろした。
その瞳を真っ向から受けて、返したら、彼の開きかけた唇はすぐにぐっと結ばれて、何も言わずに背を向ける。

胸にじわりと、痛みが広がった。


「バカ」

「───バカ!」

大声を出して、彼を振り向かせようとしたけれど、ゾロはそれでも振り向かない。
無視されて、痛みはどんどん増して、目頭が熱くなっていった。


「私がいないとご飯もろくに食べないくせに!」


「掃除もできないくせに!」


その背に向かって、あらん限りの声を振り絞って、溢れた気持ちは涙を浮かべさせる。
睫毛にかかって、眼のふちに溜まっていたそれがついにぽろりと零れて、後は、もうぽろぽろ、ぽろぽろ。

でも、拭うことはしない。

するもんですか。

私が、泣いているのは辛いからじゃない。

その気持ちを拭いたいわけじゃない。

拭ってしまったら、手の甲に涙の跡。

それを肌に感じると私はただの子供と変わらなくなってしまう。


そうじゃない。


そうじゃないのよ。


この涙は、そんなことじゃないの。



私に背を向けるあんたが、その気持ちを言葉にしないから、涙が出るの。

バカなんだから。本当にバカなんだから。

私がついててやんなきゃ、どうするのよ。

それを素直に認めないあんたが、もどかしくて涙が出るのよ。


どうしてくれるのよ、ゾロ。





「ラキが、もう帰ってこないのよ」



「あんた以外に、誰があの部屋に住むのよ・・・!」








ゾロ、と名を呼んで、それでも振り返らない男に、唇を噛み締めて俯いた刹那、腕がぐいと強い力で引かれた。


決して振り返ろうとせずに私の腕を掴んだまま、ビルとビルの隙間に入っていく。
そこに置かれていた汚れたゴミ箱に当たった彼の足は、苛立っているようにもう一度、それを爪先で蹴って彼の手の熱が私の腕から離れていった。


振り向いた彼の目を見た瞬間に。

その左耳につけられた三つのピアスが透き通る音を鳴らしたその瞬間に。

彼が持っていた鞄の落ちた音が耳に届いたその瞬間に。





互いに抱き合うことすらも忘れて、唇を重ねた。





重なった唇を、激しく求め合ってゆっくりと手を、彼の首に回すとゾロの腕が私の腰を強く、抱き寄せた。
吐息にまかせて舌を絡ませる。

ゾロは、私の唇を何度も何度も求める。

ずっとそうしたかったと、その口付けに言っているよう。

割り入って歯列をなぞるその舌を軽く、噛んだ後で啄ばむように吸った。

惜しむように顔を離したゾロが、もう一度とばかりに唇に口付けを落としていく。






「───へたくそ」


ゾロの眉がピッと上がる。

唇はへの字に曲がって、じっと私を見ていた。


「私の返事が聞きたい?」

「何の」

「メールの返事」



キスしといて、こんなにもぴったりと身を寄せ合って、今更何を言い出しているんだろうなんて、怪訝な顔。



「 S G 」


「そりゃなんだ。あァ、確か・・・」


「違うの。Goodじゃないの。」


それよりもっともっと、最高なんだもの。


気持ちを押し付けるだけのキス。
ただ、激しいだけの口付け。


だと言うのに、じゃあ、この気持ちは何なのかしら?

体の奥から、じわりと染み出すこの熱は何なのかしら?

すぐにでも、彼に抱かれたいなんて思ってるこの気持ち。




「我慢できなくなっちゃった?」

「そりゃてめェだろ」

「あら、わかった?」


返せば、私の言葉を聞いて彼は眉間に深い皺を寄せた。
その頬にキスをすると、ゾロがその唇で私の涙の跡を拭うような口付けを落とす。


そっと、頭を肩に持たせかけると髪に顔を埋めた彼の、私を抱く腕に僅かに強く、力がこめられた。


「どうしてかしら。」



「こんなキスだけで」








「───今、すごく幸せなの」











嬉し涙。


ぽつぽつ零れて、ゾロのシャツが少しだけ濡れた。



「遅ェんだ。気付くのが」



憎まれ口を叩いた彼に、顔を上げてその頬を軽く抓ったナミにつられて、ゾロが口の端を上げた。



遠くの外灯が届ける光の中で笑う彼女。



もう一度唇を吸いたくなって、顔を寄せればするりと腕から逃げた。





───帰るわよ




足元に落ちていた鞄を持って、女を追う。

帰る道すがら散々キザだとバカにして、けれども時折自分を見上げるナミは決して笑みを消そうとしていなかった。
不意に、後ろから手を繋がれて、その手の甲を親指でなぞればナミが指を絡めてふふっと笑った。










引き寄せて、唇を吸った。








=================FIN=================



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