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「ビビ、どうだった?」
木曜日、出社してすぐにナミはその部下に尋ねた。
多少早いかとも思ったが、この部下が真面目だということは初日からわかっていた。
仕事もできる。
わからないことをわからないと自分で認識できるし、そうなった時には上司に相談するという一番確実な手段を選ぶこともできる。
自分がわからないことを隠して客に曖昧な返事をする、というのが一番部下にしたくないタイプだ。
その点でビビは数日一緒に仕事をしただけでナミからの合格点を貰うに価する人間だった。
水曜日に自分が休みを取った。
その日に入っていた新規の登録をビビに任せることに不安はなかったが、それでもビビが上手くやれたかどうかの確認を開口一番にしてしまったのは、上司として部下を心配する気持ちに相違ない。
「は、はい・・・その、それが、職業が違ったんです」
「職業が違った?電話では公務員って話だったわよね」
「ええ、そうなんですけど。話を聞いてみると、公務員は公務員でも具体的なことは仰らないし、それで・・・どうも嘘だったみたいなんです。」
「ああ・・・当り障りないところで公務員って嘘を吐いたのね。で、本当は何だったの?」
「それが・・・」
少し言葉を濁してビビが困ったように眉をひそめた。
「マジシャンだそうです。」
「マジシャン?別に嘘吐く必要もないと思うけど・・・それに、マジシャンだったら女なんてたくさん・・・」
「本人は売れるマジシャンとは言ってましたけど、実際にそのマジック見せていただいても・・・なんと言うかあまり驚けませんでした。売れてないんじゃないでしょうか」
「へぇ・・・ま、そうでなかったらここに来るわけないか。その人の名前は?データは入れてあるんでしょ。」
「あ、は、はい。えっと、確か『バギー』さんです。」
言われたとおりの名前を検索する。
写真を見れば、どうにも風体のあがらない男の虚栄を張るかのように自信に満ちた笑顔の写真が画面に出てきた。
「売れないマジシャンねぇ・・・」
年収の欄は空白。
備考欄には『過去同棲の経験あり。収入不安定』と書かれていた。
「この同棲経験っていうのは?」
「10年以上前に恋人と一緒に暮らしていたそうです。その恋人がいなくなってから、どうも生活がパッとしないって・・・その女性がマジックの助手もしていたらしいんですが、ある日客がその女性にひどい野次を飛ばしたらしくて、それ以来姿を消してしまったんだとか・・・。」
「ふぅん。じゃあこのバギーってのはその女のことがまだ忘れられないの?」
「それは違うと仰ってましたけど。」
「ま、10年も経ってりゃね・・・何にしても厄介な客だわね。
でも、本人にやる気はあるみたいだし、切羽詰ってはいるんでしょう。
案外早くカップル成立まで持ち込めるかもしれないわ。
女性会員の中でこいつの条件でもいいって人をリストアップしておいて。
こういうのは早々に決着つけた方がいいわ。
明後日・・・そうね、明後日の午前中までに女性会員にコイツの話をしてみて。
少しでも気がある人がいたら、来週には顔合わせまで持ち込ませるわ。」
やはりナミの話をメモしながらビビが頷いた。
「ああ、その前にこのバギーって奴の予定も確認しておいた方がいいわ。
マジシャンだったら普通の会社員よりもっと休日が不定期かもしれないから。」
「はい・・・あの、女性会員には年収のことなんかを言った方がいいでしょうか」
「・・・これをそのまま言ったら、誰もOKするわけないわ・・・
そうね、マジシャンってことを前面に押し出して。
それで駄目なら次の会員に当たってみて」
「はい、わかりました」
ビビがブースから出た後、ナミは溜息まじりにその男のデータをもう一度見直した。
(何か最近、癖のある客が多いわね・・・───)
そりゃこの部署ができて一年。
客層が広がったということは、この部署の信用や知名度も広がっているということの顕れでもあるのだが。
(こんな客が増えたところで、どうしようもないわ)
軽く頭痛を覚えたところでナミは頭を振りながら今日の仕事の準備に取り掛かった。
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その日の夜はビビの歓迎会が催された。
とは言え、4月下旬のこの時期、ナミの会社は6月に向けて多忙な時期に入っている。
社員も全員が出席できるわけもなく、こぢんまりとした歓迎会となったものの、ビビは心底嬉しそうに何度も「ありがとうございます」と頭を下げた。
主役のビビは、そう酒に強いわけではないと言っていたから、今回は食事がメインの歓迎会だ。
誰一人酔うこともなく、ビビ自身も数杯勧められただけでその場はお開きとなった。
「まだ時間は早いわね。ビビ、もう一軒飲みに行く?」
「え、ええ・・・でも、明日はまたナミさんがお休みですし、そんなには飲めませんけど・・・」
「大丈夫よ。軽くカクテルでも飲みましょ。いい店があるって聞いたの。私が奢るわ。」
どこかウキウキしてナミが歩を進めた。
それもそのはず。
ナミは明日明後日と休みを取っているのだ。
来週はいよいよGWが始まる。
その前に休みをなるべく消化しておこうと、今週は休みを大目に取った。
休日こそ忙しい業務だ。
社長のロビンもGW中はナミにブライダルチームの仕事を多少手伝って欲しいと会議で言っていたのもあって、では今週中に休みをもう一日もらいたいと言えばあっさりと承諾してくれた。
ビビもいるから、というのもあるだろう。
ビビは一週間もしないうちに、社長からの信頼も得ていた。
その新入社員に感謝の気持ちも手伝って、ナミは個人的にもビビを歓迎したくなったのだ。
同僚に勧められたショットバーの場所はナミの頭にしっかり入っている。
迷うことなくその店まで辿り着き、ドアを開ければそこはブラックライトのみが灯された空間だった。
大きすぎず、小さすぎず、それでも体に響くロックミュージックが流れている。
狭い空間の中、一つ一つのテーブルは黒い壁で間仕切りが為されていて、壁に貼った白いメニューがブラックライトの中に浮かび上がっていた。
席に案内されてビビと対面に座れば、ビビはきょろきょろと店内を見渡して「私、こういう所初めてです」と高揚した声で言った。
「ん、そうね。どっちかっていうと大学生向けって感じのお店ね。
けど、カクテルが美味しいらしいのよ。お料理も安い割に美味しいんですって。」
「そりゃ、お褒めに預かって光栄だな」
「「・・・?」」
突然、会話に入り込んできた男の声に二人が顔を上げると、そこにはウェスタンハットをかぶって親しげに笑う男がいた。白い開襟シャツを胸元まで肌蹴させて、ソムリエエプロンとでも言えばいいのだろうか、実際にはソムリエではないだろうが、黒く長いエプロンを腰に捲き付けていた。
そのエプロンのポケットから伝票を取り出して「何を飲む?」と店員らしからぬ口調で注文を聞いてくる。
「そうね・・・適当に。おすすめのオリジナルカクテルがあるなら、それちょうだい。ビビは?」
「あ、じゃあ私も同じので・・・あの、あんまりアルコールが強くないのが良いんですけど・・・」
「オーケイ。任せとけ。」
そう言って、伝票に何を書き記すでもなく、男はスタスタとバーカウンターへと入っていく。
ナミとビビが顔を見合わせてから、それでも二人は同じように男に興味を持ったのだろう、個室とも思える間仕切りから顔を出して男の動きをじっと見ていた。
男はシェイカーを取り出して、口笛でも吹いているのか、唇を尖らせて軽快な動きで数種類の液体を混ぜ合わせ、鮮やかな色のカクテルを二つ作ったかと思えば、彼女たちの席へと戻って来た。
「どうぞ、お嬢さん方」
お嬢さん、という年齢でもないが、その場のノリも手伝って躊躇うことなく笑顔でナミはグラスを受け取った。
トニックが入っているからだろうか、微かな炭酸が小気味良く舌の上で弾けて、そのくせアルコールをほど良く感じさせるそのオリジナルカクテルを一口飲んだだけでナミは気に入った。
自然と「おいしい!」という言葉が漏れてしまう。
見れば違う色のカクテルを飲んでいたビビも同じく笑顔になっていた。
「気に入ってくれたか?」
「うん、美味しいわ。どうやって作ったの?」
「そりゃ、企業秘密ってとこかな。ま、ベースはテキーラだが。」
「テキーラ?でも私のはそんなに強くないみたい・・・」
ビビが青い液体をじっと見詰めて首を傾げている。
「そっちはほとんどジュースみてぇなもんさ。ブルーキュラソーをベースにしてる」
へぇ・・・と言って、ビビはまたこくんと喉を揺らしてそれを飲んだ。
「噂を信じて正解だったわ。店員さんでもこんなに美味しいカクテルが作れるなんて・・・」
「店員、ね。俺が一応店長なんだけどなぁ」
「え?・・・あ、ごめんなさい。見た感じ若いからてっきり・・・」
気にしないでくれよ、と男は笑って、黒いウェスタンハットをすっと取ると大仰に頭を下げた。
「美人な客はいつだって歓迎だぜ。これからも当店をよろしく。
ついでに、その一杯はサービスだ。」
気前良く言って、男は「料理が決まったら呼んでくれ」とその場を去って行った。
「ほんと美味しい。ナミさん、また来ましょうね。」
ビビはすっかりカクテルに惚れこんでしまったようで、簡単なおつまみが運ばれてきたところで同じカクテルをまた注文した。
「そうね。無料にしてくれたのも有難いわ。それに・・・」
「それに・・・?あ、料理も美味しいですよね。」
「もちろん、それもそうよ。けど、私が一番気に入ったのはあの店長」
きっぱりと言い切って、ナミがカウンターにいる男を指差した。
ビビもその指を追って男を見る。
「あんなに若いのに店を切り盛りしてるし、客の気持ちも良くわかってるわ。
口コミでこのお店も有名みたいだし。ああいう男もいいわよね」
きらっとナミの瞳が輝いたことにビビは気付かないまま「そういうものでしょうか」と呑気な声を出している。
「・・・あの男、落とすわ。」
「・・・・・・え?」
聞き返したビビを気にも止めず、ナミは他の店員が近くにいないことを確認して手を上げた。
「すみません」と男に聞こえる程度の声で呼ぶ。
男はきょろっと辺りを見渡して、自分以外の店員の手が空いていないと知ってから笑顔のままナミ達のテーブルに来た。
「ご注文かい?」
大きな帽子の鍔を親指で上げて何とも無邪気な笑顔を見せる。
「ええ。あなたのお名前を聞こうと思って」
「俺?あぁ、まだ言ってなかったか?俺ァエースだ。」
「そう。私はナミ。あんたのこと気に入ったわ。私と付き合わない?」
「な、ナミさんっ!?」
ナミの発言に素っ頓狂な声をあげたのはビビだ。
そんな部下の声など耳にも入らない様子で、ナミは極上の笑みを顔面に湛えた。
「そんなに俺を気に入ってくれたのは嬉しいけどなぁ・・・」
ははっと笑ってエースが続ける。
「もうちょっと知ってからでも遅くねぇんじゃねぇか?」
「うまいわね。そう言って、また私がこの店に来るように仕向けてるってわけ?」
「あんたみてぇによく飲む客はいつだって歓迎だぜ」
軽くあしらって男はまたカウンターへと戻っていく。
「慣れてるわね。そっか、商売上こういう誘い方は慣れてるわよね・・・」
「ナ・・・ナミさん・・・あの・・・急にどうしたんですか?」
「どうしたって・・・あの男を手に入れたくなったのよ。
収入もあるし、性格も良さそう。見た目もそう悪くないしね。
いい結婚相手になると思わない?」
「け、結婚相手・・・?」
「そうよ。私の夢はね、いい男と最高の結婚をすることよ。相手はしっかり選ばないとね。」
(社長の言ってたことってこういうことだったのかしら・・・───)
ビビの頭にロビンに言われた言葉がよぎっていった。
『彼女、仕事中とプライベートじゃ全然違うのよ』
仕事で登録に来た男の中には会社を経営している男もいる。
あのサンジという男などは年齢も近いし、収入もそこそこあるし、何と言ってもナミに四六時中アタックしていたというのに、ナミは冷静さを欠かさず、目の前にいる人間の性別など全く気にしていない様子だった。
だが、今目の前で瞳を輝かせているナミはまるで頭の中が男のことでいっぱいになっていて、仕事中には仕事の事しか話をしなかったナミしか見ていなかったビビは少々面食らってしまっていた。
たしかにこれはナミのプライベートの部分であって、仕事中に男の話など一切しなかったというのは、ナミが完全に仕事とプライベートを切り替えられる人間ということを示しているに他ならない。
「すごいわ。私だったら、いくらそう思っててもあんなふうに男の人に素直に言えない・・・」
感嘆の溜息を漏らしてビビが言えば、ナミはそれが不思議と思ったのか瞳を数回瞬かせた。
「あら、どうして?結婚って言ったら一生ものなのよ。・・・離婚しなきゃの話だけど。いい男なんてすぐに彼女作っちゃうんだから、早めに手を打たなきゃ駄目でしょ?」
「そ、それはそうですけど・・・でも、あの店長さんとは一時間前に初めて会ったばかりで・・・」
「時間なんて気にしてたら、婚期逃しちゃうわよ。私はね、もう決めてるの。28までに結婚して、30までに子供を作る。結婚式だってプランは練ってるのよ。思いっきりシンプルでクラシックなドレスを着て、海沿いの教会で式を挙げるの。サムシングフォーだって何を身に付けるかもう決めてるのよ。」
「サムシング、フォーですか。でもまだ相手もいないのに・・・」
「だから、早く見つけたいんじゃない」
元々結婚願望が強かったわけでもない。
だが、この仕事に就いてから数え切れないほどの新郎新婦を見てきたナミにとっては、それはもう願望というよりも自分の未来に必ずなければならないものだった。
絶対的な未来。
そんなものはあるわけもないのだが、ナミのすごいところはそれを実現させるためにひたすら突き進むというところだ。
良い相手も見つからないまま、ナミの頭の中で『その日』の計画は着々と打ち立てられ、25になった今、後は相手だけというところまで来ていた。
「あの男、いいと思わない?」
ナミがまたその店長に視線を移して、そんなことを言う。
聞かれたビビとしては何と答えていいかわからずに少し躊躇って言葉を濁していた。
「絶対落としてみせるわ」
ふっと笑ってナミはその日終電近くまでその店にいて、男を観察していた。
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