1 始まりは、噂




「んもうっ!あいつら許さないわっ!」
オレンジ色の髪を揺らして、少女は渡り廊下をつかつかと歩いていた。

彼女の名はナミ。
このイーストブルー高校で、前期生徒会長を務めた高校3年生の少女だ。

高校3年生のこの夏、彼女はようやく生徒会長の任を終えた。
だが、彼女の身内にはノジコという4つ年上の姉がいるだけで、到底大学になど行ける筈もない、と彼女は受験勉強もする必要もなく、ただ学校に行っては、生徒会の仕事がない今はすぐに帰宅するだけの毎日が待っているはずだった。
そんな彼女にこの夏、新たな出会いがあった。

ストーカー騒動に端を発した人助けサークルを立ち上げたばかりの彼らとの出会いはナミの日常を大きく変化させるものだった。

学校では冷徹に振舞う彼女が、今こうして怒りを顕に廊下を歩いているのも、その仲間の所為なのだ。

「ルフィ!」
大声をあげて、1年1組という札が掲げられた教室のドアを開ける。
昼休み中、寛いでいた一年生達は、皆驚いて顔を上げたまま固まってしまった。

「ようナミ。ルフィになんか用でもあるのか?」

窓際でパンをもぐもぐ食べていた鼻の長い少年が彼女に気付いて戸口まで歩み寄った。

「ウソップ。あんたにも言いたいことがあるわ」
端正な顔立ちの口元が歪んでウソップの頬が抓られた。
何のことだかわからないウソップは、ナミの剣幕に驚いて顔を真っ青にする。
「ルフィはどこ?」
「あああああいつなら、さっき購買でパン買ってくるって・・・
 あ、おいっ!ルフィ!!助け・・・」
ガンッとナミがウソップの後頭部に拳骨を入れた。
痛みに耐え兼ねて、ウソップが頭を抱えながら座り込む。

「おぅ!ナミ、珍しいじゃねぇか。こんなとこに何の用事だ?」
両手いっぱいにパンを抱えたその少年が弾けるような笑顔で駆け寄ってきた。
ナミがその顔面にパンチを繰り出す。

「・・・ッテェェェェ!!!」
両手が既に塞がっていた少年は、受身を取ることもできずに、そのまま後ろに倒れこみ、顔の前と後ろに手をやる。

「あんた達二人に聞きたいことがあるんだけど」
そう言うナミの口は笑っているが、目は恐ろしいほどにしっかりとのたうち回る二人の姿を見据えたまま、怒りのオーラが灯っている。

「な、何かやったっけ?俺達・・・」
先に痛みから復活したウソップがおそるおそるナミの顔を伺う。

ナミは、口を開きかけたが、教室や廊下にいる後輩達の注意が自分に向けられていることに気付いて、場所を変えましょうと彼らを生徒会室に連れて行った。



生徒会を引退してからも、ナミはちょくちょくこの部屋へと来る。
それは、生徒会が忙しい時に仕事を手伝うためでもあったし、校内でもナミと一番親しい後輩のビビが現生徒会長であり、彼女に会うためでもある。ビビも、未だ慣れない生徒会長職を決して手伝うことはないが、横で見守ってくれるナミの存在を有難がって、いつでも来て下さいと言っていた。ナミもそのビビの気持ちに甘んじて、彼らと秘密の話し合いをする時は、生徒会室を利用していた。

3階にある生徒会室の前に立つ。
この一画は視聴覚室や図書室があるばかりなので、周りに生徒の姿はなく、遠くグラウンドでサッカーに興じる男子生徒の声や違う階の教室で騒ぐ女子生徒の嬌声が聞こえるばかりだ。
それだけに、ウソップは今から自分達の身の上に起こる恐怖を感じて、顔を青ざめさせていた。

ナミがドアをノックするとしばらくして中から「・・・どうぞ」とビビの声がした。

「お邪魔するわよ、ビビ」
ドアノブに手を掛け、ナミはゆっくりとドアを開けた。
曇りガラスで見えなかったその扉の先に、ビビとコーザが背に光を受けて立っている。
コーザは、生徒会顧問の若い社会科教師だ。
ビビの幼馴染でもあったが、お互い気があるのに一歩踏み込まない二人を、この夏、ナミが世話を焼いてめでたく恋人同士となった。

入ってきたのがナミだとわかると、ビビはほっとしたように「こんにちは」と笑った。

「イチャついてばっかりいたら、
いくら私達に口止めしたってすぐバレちゃうわよ?」

ナミは手でウソップとルフィにそこに座れと、普段は会計や書記が仕事に使う長い机の前の椅子を示した。
二人が大人しくそこに並んで座る。

「イチャついたって、すぐお前が邪魔するだろ」
コーザは、いかにも不機嫌そうに言ってからビビに持っていたファイルを渡した。
ファイルを渡すという名目でビビをここに呼んで、懇ろな時間を送っていたというわけね、とナミは苦笑する。
少し頬を染めてそのファイルを受け取ったビビは、生徒会長のために用意されたデスクで、その書類に目を通し始めた。

「なぁナミ。話って何だ?俺腹減ったぞー」
昼ご飯が足りないと言って、購買で入手した大量のパンを未だ口にしていなかったルフィがナミをせっついた。
ナミは一瞬、冷たい視線を彼に向けて大きく溜息をついてから、彼らの対面にある椅子をひいて腰掛ける。

「そうね。じゃあ手早く済ませましょう。
 あんた達でしょ?私が同棲してるなんて噂流したの」

ビビとコーザが顔を見合わせる。

彼らはナミとその仲間達に関するの全ての事情を知っているから、ナミもそんな二人を構うでもなく、じっとウソップとルフィの反応を見る。

「同棲?」
その言葉の意味をよく理解できてないのか、ルフィが腕組みして首を傾げた。

「恋人が一緒に暮らすことよ。
あんた、私と男が一緒に暮らしてるって
そこら中で話してるらしいわね?」
ナミは、満面の笑顔でにっこりと微笑む。
彼女が只今怒り心頭中であると知っているだけに、ウソップにはその笑顔がまるで般若のように見えてならない。

今日、ナミの耳にそら恐ろしい噂が耳に入った。
その日の朝のことだ。
教室へ入るなり、噂好きのクラスメートの少女がナミに駆け寄ってきた。
ナミは友人が少ない。以前はそれをどうと思うわけでもなかったし、恋愛の話ばかりする女子生徒に、その過去の経験からどうも馴染めなくなってしまって、生徒会が忙しいという理由を付けては誘いを断るようになったのが、2年生の秋。
それから一年経った今では、3年生にあがった春のクラス替えも手伝って、同じクラスでナミと親しく話すような友人はいなくなった。かと言って、ナミが決して嫌われているというわけではない。
むしろ、決して馴れ合わないナミは大人びているし、話し掛ければ優しく微笑む。気性は姐御肌ということもあって、同学年の生徒からも遠巻きに慕われる存在だった。
そういう彼女に、ナミが知る限り最も噂好きでお節介な女子生徒が声を掛けてきたのだ。
「ナミって、同棲してるんだって?」と。

「はぁ!?」と素っ頓狂な声をあげて、その大きな茶色い瞳を見開いた少女に、いつもの冷静なナミと違うものを見て、クラスメートは嬉しくなったのか、聞いてもいないのに自分が手に入れた噂話を包み隠さずナミに教えた。

それによると、最近ナミに恋人ができて、二人で暮らしている。
一流レストランで二人で食事をして、男に金を払わせていたという姿を目にした者もいるらしい。
その男は所帯持ちで、夜が更ける頃には自分の家に帰る。つまり、ナミが不倫をしている、というものだった。最後には、ナミの住むマンションも男が買い与えたものらしいという話を聞かされて、ナミは驚愕した。
そこで、その噂の出所を突き止めようと午前中の休み時間に校内で聞き込み調査を行った。
しかし詳しく聞くまでもなく、大抵の生徒が一年生の問題児二人組の名を挙げたため、昼食を終えてすぐに走ってきたというわけである。

ナミは、耳にした噂を悉く並べあげて、腕組みをした。

「さぁ、どういうことかしら。お二人さん?」

「おおおお俺は別にっ・・・」
「誰に聞いても、あんたかルフィが言ったって言ってんのよっ!」
ナミの怒声にウソップは涙を目に溜めて、ブルブル震えた。

「ナミ、すげぇなー!不倫してんのか?」
ルフィはとぼけた声で笑う。
「してないわよっ!!」
机をバンバン叩いて、ナミが目を吊り上げる。

「あんたとウソップがあることないこと言うから、
 噂に尾ひれがついちゃってるんでしょうがっ!」
「不倫してねぇのか?つまんねぇなー」
「不倫から離れなさいよっ!」
彼女はどこにそんな力が隠されているのかという力で、ルフィの両頬を抓る。
彼の頬は極限までのばされて、少年は何とも言えない呻き声をあげた。

ウソップは滅多なことを言って彼女の逆鱗に触れてはならないと、横を向いて校庭を眺めている。

「あんたもよっ!ウソップ!!」
「ブベッ!」
ナミの張り手をその左の頬に喰らって、ウソップは情けない声と共に左眼から涙を流した。

「ナミさん、その話なら私も昨日・・・」
「ビビまで知ってるのっ!?」
二人の襟元を掴んで揺すっていたナミが、ようやくその手を離して窓際の二人に目を向けた。
見れば、コーザは背中を向けたまま肩を揺らして笑うまいと耐えている。
生徒会長の席に座ったビビは、困ったように笑っていた。

「はい。もう全校生徒が知ってるんじゃないかと思います。
 ナミさんはこのイーストブルー高校で
 生徒会長だった人ですから、その名を知らない人はいないし。
 それにしても、ゾロさんにおごってもらったって聞いた時は
 びっくりしましたけど。
 ナミさん達もうまくいってるんですね」
天使のように邪念のない笑顔で、ビビがにっこりと微笑んだ。

ナミは額に手を当てて、がっくりと肩を落とす。

「あいつがおごる・・・?有り得ないわ。
 その噂はね、ビビ。コーザ先生のことよ」

「なんだ、ナミ。コーザと不倫してたのか?」

「だ・か・ら・ねっ!!!!
 コーザ先生に皆で奢ってもらった時の話よっ!
 大体あんた、不倫ってのがどういう意味がわかってんのっ!?
 先生は結婚してないでしょーがっ!」
ナミがルフィの首を締め上げて、黒髪の少年はその目に花畑が見えたと、後からこの時を振り返って懐かしんだと言う。

「な、ナミさん・・・」
ルフィの言葉を真に受けたビビが一人、うろたえていた。

「ビビも信じないのっ!
 こいつは何もわかってないだけなんだから。
 ビビも一緒に行ったでしょ?
 先月、サンジくんが働いているお店で
 コーザ先生に奢ってもらったじゃない」

サンジと言うのは、ルフィがリーダーとなって発足された麦わらクラブの仲間だ。
人助けが目的の集まりで、現在メンバーは6人。
ナミは、当初依頼人という立場だったのだが、彼女のストーカー事件の解決と引き換えにめでたくそのメンバーの一員として名を連ねるようになった。
夏休みが始まる前、新入生の中でも飛び切りの問題児、ルフィとウソップがいくら募集しても集まらなかった依頼は、校内でこれほどない信頼を得ているナミの加入によって一転、続々舞い込んできた。メンバーは現在それに追われる毎日を送っている。
とは言え、たった6人のメンバーでそれを全て処理できるわけもなく、大抵はナミに持ち込まれた依頼は彼女が相談を聞くだけで終わってしまい、元生徒会長による悩み相談というイメージが最近では定着しつつある。
今までのナミを知る人は、信じられないと口を揃える。
彼女はとても彼らと同じ高校生と思えないほど、理知的で冷淡、加えて他人とは一線を引こうとしているのが誰の目にも明らかだった。そんな彼女が親身になって話を聞いてくれて、的確な解決策をアドバイスしてくれると言うのだ。
何かあったのではないか?という疑念が皆の頭に浮んだ頃、彼女に男がいるという噂が広まった。
生徒達はそれが答えだとばかりに噂を広めあったのである。

「あ、あの時のこと・・・」
ほっとしたように、ビビがコーザを見て笑った。
コーザは苦笑して、その可愛い恋人の頭を優しくポンポンッと軽く叩いた。