1  歯車の回り始める時




これで終わり。

そう呟いて、ナミは筆記具を鞄の中にしまいこんだ。

今日はグランドライン大学経営学部の入試の日だ。

この1ヶ月、他の受験生に遅れてラストスパートに入ったナミは、それこそ寸暇を惜しんで勉強に励んできた。
ゾロともほとんど顔を合わせた記憶がない。
1ヶ月前の約束通り、ゾロはナミに一切手を出さないどころか、話し掛けもしなければ、同じ部屋で寝ることもない。
他のメンバー達にもそれを伝えてくれたのはゾロ。
麦わらクラブの仲間達はチョッパーも受験生だし、と気遣いを見せて、この1ヶ月、電話やメールで連絡する程度にしていた。もちろん、依頼もウソップが窓口となって、チョッパーやナミを煩わさない内容のものだけを受けて、細々と活動するに止まっていた。

ナミの高校は受験シーズンの1月、2月は自由登校でいい。
学校に行って勉強するも良し、予備校で勉強するも良し、図書館や家で勉強するも良し、という具合である。
2月後半の定められた登校日に数日学校へ行くことは義務付けられてはいたが、それは卒業式の準備のために他ならない。

卒業式の答辞も断った。
担任教諭もナミが急にやる気を出したのは喜ばしいものの、何と言っても時間がない。
他の生徒に当たってみようと、渋々と承諾してくれた。

ナミは一日中図書館で勉強する。
午後からは学校を終えたチョッパーも来た。
チョッパーがわからないところはナミが教えるのだ。
高校受験のための勉強とは言え、それは大学受験のために必要な知識の基礎がしっかり組み込まれていた。
「私にとってもいい復習になるから」とチョッパーに言って、二人は毎日図書館で受験勉強をしてきた。
さすがに一ヶ月もこの生活が続くと息が詰まる。
だが、ゾロがそれに協力してくれている手前もあって、ナミはただひたすら参考書の中身を頭に叩き込んでいった。

家に帰るとコンビニの袋がダイニングテーブルに置いてある。
たまに二人で食べることがあっても、大抵ゾロはナミが帰る頃には仕事の疲れからかもう寝ていた。

けれどもそうやって距離を置いておきながら、深夜勉強しながら机で寝てしまったナミの身体に毛布がかけられていた夜もある。
朝起きれば、既にバイトに行ったゾロが用意してくれたコーヒーで体を温めたこともある。

そんなゾロのためにも、ゾロと同じ大学に通うためにも、頑張ろうとナミはまた心を励ますのだった。



だが、これで。


これで、ようやく終わったのだ。


最後の解答を書き終えて、全ての解答を何度も見直していた時、終わりを告げるチャイムが響き渡った。


「やっと、終わったのね」
誰にも聞こえない声で漏らしたその言葉は、ナミの体を軽くする。

まだ、受かったかどうかはわからない。
念のため勉強を続ける必要はあるものの、今までのように根を詰める必要もないだろう。

今日は久しぶりにゾロのためにご飯を作ってあげてもいいかな。

そんな事を思いながら、大きく伸びをした。
途端に、解答用紙を集めていた目付きの悪い男がじろりとナミを睨む。

(いけない、まだ浮かれちゃ駄目なのよね・・・)
バツの悪い雰囲気を感じ取って、ナミは慌てて手を膝の上に置いた。

しかし受験会場ともなったこのグランドライン大の講堂もどこか騒然としている。
この辺りで最大の難関と詠われる大学を、滑り止めとして受ける者など一人もいない。
つまり、おおよその者が第一志望として、今の試験に臨んで、ようやく解き放たれた空気を味わっているのだ。

参考書を手に早速解答をチェックする者もいる。
鞄を取って、即外へ出ようとする者は、おそらく友人と待ち合わせていたりするのだろう。
試験官に言われて切った携帯電話の電源を入れて、小走りで講堂を出て行く。

雑然となった人いきれの中、ナミも皆に倣って携帯電話を鞄から取り出した。

ゾロが、校門で待っている筈。

今日の試験日、別についてこなくても良いと言ったのに、自分の復学届もついでに出すからと言ってゾロはナミと共に家を出た。
帰り道、迷ってしまっても困るから、大学から出るなと言っておいたけど・・・
ゾロのことだから、この広い大学構内できっと迷っているだろう。
念のため、校門から続く車両用のアプローチを目印にしろ、なんて言ってみたものの、そこに辿りつくことなく迷っている筈ね、とその男の今を思い浮かべてナミはくすりと笑みを漏らした。

大学のあらゆる教室から出てくる受験生達に気付いて、そろそろ校門を探してくれるといいんだけどね。

アイツってば、どっかで寝てるかも知れない・・・───

それならば、まず高い所からあの目立つ緑色の頭を探した方が早いかも、と思い立って、ナミは講堂から出ずにその戸口の脇にあった階段を上って、窓から外を見下ろした。

そこから見える限りの景色の中に、その男の姿を探す。


(・・・いた。)

案の定、寝ている。

しかも、校門とは反対方向にある学内の道沿いのベンチで。

さまよっている内に諦めてベンチに腰を下ろして、この寒空にも関わらず寝ちゃったのだという推測が頭に浮ぶ。
いや、それ以外に考えられない。

ナミは呆れ顔で溜息をついてからサーモンピンクのマフラーを首に巻いて、その男がいるべき場所へと向かった。

講堂から出て左へと曲がる。帰り道へと続く校門へは右へと曲がるべき。
受験生の波に逆らって、ナミは講堂の二階から叩き込んだ学内の道を迷わずに歩いていった。

受験会場となった第一講堂は、校門から続くアプローチがゾロの復学届を出すために向かった学生課がある一号館の手前で終わっている。
その先の駐車場を越えれば資材の搬入用だろうか、右手に小さな門があり、その両脇に二号館と三号館。
大学のHPを見てみれば、1〜3号館はかなり古くからある校舎で、主に一、二年生の一般教養学科の授業に使われるらしい。
そして駐車場の奥には第一講堂。車一台がやっと通れるほどの道を挟んで、奥に図書館。
二つの大きな建物に挟まれた道の先には芝生の広がる広場があり、遊歩道沿いにはベンチがある。

そこを進めば、各学部へのキャンパスに繋がっているというわけだ。

その芝生の脇に据えられた白いベンチの上に、ゾロはいた。
そして何故かその上には一匹の仔猫が彼と同じように快眠を貪っている。

ナミが顔を近づけても一人と一匹は目を覚まそうとしない。

「ゾロ、起きて」
つん、と額を指で突付いてみても、ゾロは目を覚まさない。仔猫の耳だけがぴくりと動く。

「ゾロってば!もう試験終わったわよ」
今度は頬を突っつく。

(さすが、万年寝太郎の異名を取るだけあるわね・・・)

大口を開けて両腕を枕にしたまま冬の陽だまりの中気持ち良さそうに寝入っている男の頬を、今度は思いっきり左右に引っ張ってみた。
一足先に目を覚ました仔猫は、慌てたように飛び起きて、ゾロのおなかの上からぴょんっと飛び降りた。
だが、去る気配はない。
今度はナミの足元で優雅に毛づくろいを始めている。

「・・・もうちょっと優しい起こし方はできねぇのか、テメェは・・・」
「やっと起きたわね。ほら、帰りましょ」

あぁ、と言ってゾロは体を起こして大きな伸びをした。

「あ、その猫・・・」
ナミの足元にまだいた仔猫を指差す。
「あぁ、あんたのおなかの上で寝てたわよ。人懐っこい子ね」

事実、ナミがそう言って膝を曲げ、抱き上げても仔猫は逃げる気配を見せず大人しく抱かれている。

「飼い猫・・・よね?野良猫ならいくら寄ってきても、抱っこは嫌がるから・・・」
「テメェみたいにな」
にっと口の端を上げて笑うゾロの足を、ナミはそのブーツの踵で容赦なく踏みつけた。

「・・・い゛っ・・・!?」

何しやがる、と叫ぶゾロに、仔猫が一瞬身を竦める。

「あーあー、怖いおじちゃんよねぇ」
「おい、誰がおじちゃんだ」
「ほら、おうちに帰りなさい」
「・・・あっさり無視してんじゃねぇ!」
くしゃっとナミの髪を撫でて、ゾロが立ち上がった。
ナミの手から放たれた仔猫はたたっと駆けて言って、一瞬の内に木陰に身を隠した。

「かわいいわね。うちがペット禁止じゃなかったら、絶対連れて帰って飼ってるわ」
「あいつ・・・テメェみたくなかったか?ほら、毛色が・・・」

そう言えば。その猫の明るい赤毛は、自分の髪の色にそっくりだった。

「なぁに?一人で寂しくなって私に似た猫と懇ろになってたってわけ?」
「阿呆」
照れたようなゾロの口調に、ナミはつい可笑しくなって笑ってしまった。

「ゾロ、顔赤いわよ」

図星だったのだろう。
彼は頭をボリボリ乱暴に掻いて、ナミを置いてすたすたと歩き出した。

勿論、お約束通り全く正反対の方向に向かって。



「で、どうだったんだよ」
学生課で届けを出した後、ゾロが思い出したように言った。

「うん・・・ま、できたと思うけど。どうかしらね。家に帰ってチェックしてみないと何とも言えないわ」
「へぇ。じゃあもういいんだな?」
ゾロの口の端が上がる。
「・・・何がいいのよ・・・」
「そりゃお前・・・」
「あのね、ゾロ。2月14日までって約束忘れてないわよね?」
「忘れてねぇよ。その日は有難く頂戴するが・・・」
「馬鹿っ!」
組んでいた腕を離して、ナミがゾロの耳を引っ張る。
「そっちじゃなくて、キスぐれぇはもういいんだろ?」
「・・・まぁ・・・」

これからは勉強のペースも落ち着くし。
5日後に受験を控えたチョッパーの家庭教師をしながら、多少復習していくだけだし。
そりゃ、いいわよ。いいけど・・・

「・・・何で、返事に詰まってんだよ」
何も言わないナミに、ゾロが思い切り顔をしかめた。

(その顔は、私が即いいと言うと思ってたってことね・・・)

「あんたの頭の中、そういうことしかないの?」
「それ以外に何があるってんだ?」

もはや溜息すらも出ない。

「・・・エロゾロ。」
「あぁ?何だそりゃ?俺ぁもう半年も待ってやってんだぜ?それのどこが・・・」
「だって私はそんな事思ってないわよ」
「もっと自分に正直になれよ」
「な、なってるわよ!失礼ねっ!!」

ははっとゾロは軽く笑ってナミの照れ隠しの怒りを受け流した。

その時、二人の耳にどこからか猫の声が聞こえた。

  ミィ───

「「?」」

振り返ると、そこにいつから付いて来ていたのか先ほどの仔猫がちょこんと座して、二人を見上げている。

「・・・ついてきちゃったの?駄目よ、うちじゃ飼えないの。ね、おうちにお帰り」
ナミが話し掛けても、仔猫はそ知らぬ顔で鈴のような声で鳴く。
「しっかし、見れば見るほどテメェの髪が動いてるようにしか見えねぇな」
感心したように、ゾロが顎に手を当ててナミの頭とその仔猫を見比べている。
「馬鹿なこと言ってないで・・・どうすんのよ、この子」
「腹でも空かしてんだろ。何かやればいいじゃねぇか」
「何も持ってないわよ。お昼のお弁当だって食べちゃったし。ゾロは?」
「俺が食わねぇと思うか」

聞いた私がバカだったわ。

溜息をつきながら、仔猫に向き直ると、その猫はもういなくなっていた。

「あれ・・・?」


いない。

きょろきょろと辺りを見渡して、ナミの瞳は見開かれたと同時に、隣にいたゾロが「あのバカ・・・」と呟いて駆け出した。

そこには、校門までの障害物のない道をかなりのスピードで走る車と、車道に降りていく猫。


キキキ──────ッッ


耳を引き裂くような音に、ナミはぎゅっと瞼を閉じていた。




ドンッ!!!


鈍い音がする。


鈍い、音・・・?

そう、仔猫の小さな体を撥ねただけと思えないほど鈍く、重い音。


おそるおそる、瞳を開いたナミは途端に唇が乾くのを感じていた。



「・・・ッゾロ───!!!!!」


歩道に乗り上げた車の残したブレーキ痕からは灰色のくすんだ煙が立ち上がり、車道の真ん中にはゾロの体が横たわっていた。

世界が暗転していくのを感じながら、ナミはその光景を前に立ち尽くしていた。


ただ、耳に残るのはゾロの胸元で微かに聞こえた仔猫の鳴き声ばかりだった。