Bear-HUG 5 月曜日、不機嫌。 火曜日、上機嫌。 水曜日・・・憂鬱。 この数日の間に色んな顔を見せた女教師は、苛立つ足取りでもなく、かといって軽やかな足取りでもなく、力無く、ただ力無くとぼとぼと歩いてはふと立ち止まって大きな溜息をつく。 こんな教tの姿に生徒達は口々に思うままの推論に任せて色んな噂を流したが、だが、それで真実が浮き彫りになるわけでもなく、数日もして週末を迎えた頃にはもう興味を失ったかのように、そんな彼女の姿を疑問に思う者はいなかった。 鈍く光るプラスチックにも似た床に目を落として歩く。 白い床だけが目に入れば、自然と頭の中にある思考が膨らんで、ナミはあの晩のこと、いいやそれよりも前のこと──さほどあの生徒を気にも留めていなかった頃の事まで思い出しては、あぁあの時こうすれば良かったとか、けれども時間を戻せるわけもないと至極現実的な意見を自分に言い聞かせては、足元に息を落とす。 雨降る金曜日になればアンニュイな気分はさらに盛り立てられてしまう。 傘の下で水溜りを避けながら自分の爪先だけを見ていると、ふっとあの甘い雰囲気と、その直後の苦い空気が思い起こされて、ナミは唇を噛み締めた。立ち止まりそうになった足を、無理に動かして先へ先へと進んでいく。 パタパタと白い傘に落ちては弾け飛んでいく水滴の音だけが耳に響いて、ナミは、ふと大声をあげたい自分がいることに気付いた。 何でだろう。 あんな冗談めいた解答を書いて、私を困惑させて。 家まで着いて来ちゃって、格好いいとこ見せてくれちゃって。 子供みたいに言葉を上手く出せずに、照れるくせに、妙に大胆で。 しかも私のことなんて、なぁんにも考えてないわ。 すごく子供。 でも、何でだろう。 何で、そんな子の事が気になっているんだろう。 いつものように、笑ってあっさりと流せばいいだけの話じゃない。 あら、ありがとうって微笑んで、そこで終わりにすればいいのよ。 (あの子だから、だわ) いつもはろくに授業も聞いてないし、まさかそんな事するような子だと思っていなかったあの生徒だから。 ───だからこんなにも戸惑っているのだ、と結論づけて、さりとて妙にざわつく気持ちはどうしたって収まらない。 しまいには、彼のことを考えてばかりいる自分までも冷静に見てしまう自分がいた。 何故、彼の前では取り乱してしまうのか。 ───漢字一文字で表せば、ロロノア・ゾロという男は『静』だった。少なくとも私の前では。だから・・・そんな彼が急にあの日の放課後に私を驚かせるような事を言ったから。つまり、先手を取られたのよ。予測できないことだったから。 では、何故彼の前で顔が熱くなってしまうのか。 ───慣れないからよ。だって、アイツいつだって寝てるからまともに顔を見た事なかったし・・・そのくせ二人っきりの時だと・・・違うもんだもの。私を見る目が・・・ 彼のことばかりを考えてしまうのは。 ───当然だわ。しょうがないってこういうコトね。今は、私が教師としてどう在るかを問われているってわけよ。 泣いて、しまうのは。 ───・・・ちょっと、可哀想なこと、したから? 違うでしょう。 ───そうね、泣いているのは私。傷つけた男を想って泣けるほど殊勝な女じゃないつもりよ。それどころか、ひとかけらの思いやりも持てなかったわ。今までは・・・ つまり、そういうことでしょう? ───そうね。そういうコト。 自問自答の末に導き出されたその答えは、ナミの瞳に寂しげな色を与えた。 ───でも、私は『先生』で、アイツは『生徒』。私は『年上』で、アイツは『年下』。 これが、現実。 呟いて、ナミは校門をくぐった。 ********************** HRの前に、10分程度の短い時間に毎日行われる職員会議は、例えば今週は三年生が模試があるとか、或いは近くの大学の研究室からアンケート調査を頼まれたから今日のHRに実施してくださいとか、要は生徒たちへの連絡事項と教員同士の連絡事項とを教頭が簡単に説明するというものだ。 受け持つクラスのないナミにとっては半分は関係のない話で、ある一生徒に頭を悩ませるナミにとっては尚更、今朝の職員会議の内容など漫ろ事以外の何者でもなかった。 生徒の服装の乱れがどうしたとかこうしたとか言っている教頭にしてみたって、いたってよく出るその話題にももう飽き飽きしているようで、手を後ろに組んで、決まり文句をつらつらと並べてその職務を終えた時、一人の男性教師が席を立った。 「明日の午後ですが・・・」 何の前置きもなく喋り始めたミホークは、それとて彼の平素の行動で、教師陣は一瞬驚いた表情を浮かべた後で、その声が彼のものだと気付き、何ら不思議はないと言ったように彼の言に耳を傾けていた。 「先々週決まったと言ってあった練習試合を我が校で行います」 簡易な報告を終えて、ミホークがまた席に座ると、職員会議の終了を告げる予鈴が鳴り響いた。 不意にざわめきを取り戻した職員達とも交じらずに、ナミは何とはなしにミホークの後ろ背を見つめていた。 出席簿を手に立ち上がる者、一時間目の授業の用意をする者、空き時間なのかマグカップを手にコーヒーを淹れる者、と部屋の中が次第に一日の始まりのために動き出そうとする空気を帯びても、その視線をその一点に集中させた彼女に、ミホークが気付いたのも無理もない。 誰もが動く中、しかし、ある一人の人物が動かずに、しかも自分を食い入るように見ていればその存在は浮いて見えるものだ。 「・・・何か」 出席簿を小脇に抱えて座って頬杖をついたまま自分を見ていた彼女を見下ろすと、ようやくナミが我に返った顔を取り戻した。 「いえ・・・あの・・・ついボーっとしてしまって・・・ごめんなさい」 小さく謝る声が僅かに震えて、彼女の言葉が嘘なのだとミホークに知らせる。 そんなこと、自分でもよくわかっていて、この勘の鋭い教師が何かを悟ってしまったのではないかと瞬かせた瞳でちらりと彼を見上げれば、案の定ミホークは立ち止まったまま彼女に思わしげな眼を向けていた。 「・・・ロロノアのことだが」 やはり核心をつかれた。 この教師は、何をどう見ているのか、飄々としているようで何も聞き逃さず、見逃さない。 それはナミの鼓動でさえも聞いている気もするし、その胸の内さえも見ているような気もする。 どくんと跳ね上がった心臓が、彼女にいつしか拳を強く握り締めさせていた。 (一体、何を言うのよ・・・───) 頼むから、余計な情報を私の頭に入れて、これ以上悩ませないで欲しい。 エゴイスティックな懇願を心中叫んで、ナミはごくりと生唾を呑んだ。 「どうにも不調でな」 顔を上げれば、ミホークの視線はもう自分にはなく、彼は天井を見上げて残念で仕方ないとでも言いたげに小さな溜息を一つ漏らしている。 「・・・不調、ですか・・・?あの、それは一体どういう・・・」 「あぁ・・・なに。部活の話だ。明日は試合だというのに、どうも気が抜けてしまっているようでな。」 ふいっとナミが顔を背けて、思い出したように教科書を手に取り始めた。 「監督なさってるミホーク先生も大変でしょうね。あの子を指導するのは・・・」 「そう思うか」 思慮深いミホークにしては珍しく、間髪入れずに返ってきた言葉に、ナミは眉間に小さく皺を寄せた。 「・・・それと、私とどういう関係が・・・ミホーク先生、何か勘違いしてらっしゃるんじゃ・・・」 「そうかもしれんな。」 だが、と言ってミホークがくるっと背を向けた。 「そうでないかもしれん・・・私には関係のないことだ。」 それならどうして、彼の事を私に話すのかと思った時には、意味深な言葉を残した教師は早々に職員室を後にしていた。 |
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