Bear-HUG 6 打突の音が響く剣道場の隅で、まるで岩のように動かない男が一人。 唇を固く結んで、仲間の試合を面の奥のその眼でじっと見ているくせに心をそこに置かずにいることをミホークは知っていた。 さりとて、それも自分が手を出す問題ではなかろうし、何よりも誰しもが一度は突き当たる壁だ。 この教え子はたまたまそれに煩わされることもなく、この道を歩んできたのだろう。 他事にかまけて、今何を優先させるべきかを見失うことはこれぐらいの少年にはあって当然のことであるし、それを乗り越えるのは己の心を強くする以外に術もない。 集中しろ、と一声掛ければ、生真面目なこの生徒のこと、おそらく無理にでも今頭にあるものを全て消し去ろうとするに違いないのだが、初めて見せる彼のその姿に内心実は愉快とも感じて、では、彼が自分の思う通りに強い精神を持っているかどうか見極めてみようかという半ば悪戯心も手伝い、ミホークは敢えて何も言わずに彼を送り出した。 静かに歩いて行くその所作は、僅かながらに荒々しく、彼の心の乱れを手に取るように感じてしまう。 二本先取ルールのその試合が始まろうとした時、剣道場の入り口にオレンジ色の髪が揺らめいた。 だが、おそらくあの教え子は気付いてはいないだろう。 フッと笑みを漏らして見ていれば、ああやはりロロノア・ゾロらしからぬ何とも粗暴な動きではないか。 見るに耐えられないとはよく言ったものだ。 気もそぞろに試合で勝てる筈もない。 白の胴衣と紺の胴衣を着た少年達が竹刀を交じり合わせる。 ナミは剣道のことなど知らない。 試合を見るのも初めてだ。 ルールも知らなくば、響き合う竹刀の重なる音すらも、一体どっちが打ち込んでどっちが払ったのかもその素早い動きではいまいちわからなくて、この場に来てしまったことをほんの少し後悔していた。 面を取って応援している見慣れた生徒たちと同じ色の着物を着ているのが、きっとロロノア・ゾロなのだろうと思って目を凝らせば、面の隙間に何となく彼の面影を知ることができる。 だが、本当に彼、とわかっただけでそれ以上は何がなにやらさっぱりわからない。 (何でこんなとこに来ちゃったんだろう・・・───) ましてや、彼の気持ちに応えられる筈もなく、ただ彼を拒むしかない自分が。 (・・・私が、気を持たせてるって思われるだけよね) いくら見たってどっちが優勢かもわからないし、自分にとっては、あら二人があっちへ行った。 今度はこっちへ行った、なんてコメントしか出てこない。 もうそうなるとこうして出入り口からこそこそ見ている自分の姿が何とも情けなくて、ナミは深く溜息をついてくるっと踵を返した。 その途端、道場からざわめきが聞こえて、何事かと振り返れば相手校教師務める審判員が高々と片手の腕を上げて、ゾロが一本取られた宣言を声高に叫んでいる。 「・・・こちらで一緒に見てはどうかな」 何があったのかと瞬きを繰り返すナミに、低い声がそう誘いかけた。 ********************** 板張りの冷たいフロアの上を、摺り足で動く二つの影を、ミホークの背に隠れるようにして目で追っていたナミに、言葉少なにミホークがゾロの劣勢を告げた。 「私、よくわからなくて。その・・・応援に来たというわけではないんですよ?ちょっと仕事の合間に・・・」 きろっとミホークの目が動いて、ナミに注がれたその視線が僅かに彼女を諌めるような色を浮かべる。 彼は、だが、何を言うでもなくそのままゾロの動きに目を戻してしばしそれを見ていたが、やはりどうにも腑抜けた生徒の動きは、いつもと違って、相手の思うままにさせられているだけだ。 部員達の声に交じって、ミホークは「ロロノア!」と彼の名を呼んだ。 呼ぶだけ。 それ以上何をせよと言うこともない。 しかし、試合中に声を掛けることなどないこの無口な師の呼びかけは、それだけで充分彼の気を取り戻させる一喝で、次の瞬間にゾロが一歩踏み出した時にはもう乾いた音が響き渡って、審判が少しの躊躇いの後に手を振りかぶった。 「メンッ!一本!」 これでカウントは1-1。 「・・・あの、引き分けなんですか?」 おずおずと聞いてみれば、その間にはもう二人が一礼してまた剣を交えている。 首を傾げた彼女に、ミホークは「これで決まる」と言った。 見る。 それしかできない。 ナミは息をするのも忘れて、ただただ彼の姿を目で追った。 黒い袴が揺れて、摺り足で相手に一歩、二歩を詰め寄る。 わかってはいる。 この相手は、自分よりも弱いのだと。 それはわかっているのに、何故か頭に霞がかかってしまって、では次に自分がどう動けば良いのかということがわからないのだ。 この数年間で叩き込んできたそれが、頭の隅にある女の顔に邪魔されてうまく引きずり出せない。 今考えれば、何ともバカげた事をしてしまったものだ。 焦る気持ちに負けて、思う通りの行動に出て、あの女に自分が年下であると主張してしまったようなもので、彼女は今きっと自分を見下しているだろう。 子供のゲームだなんて言った女の言葉が耳から離れないのは、それが今更ながらに身に染みているからだ。 日を追うごとに、腹の奥底へと落ちていって、そこからじわりと血が滲むような感覚に陥る。 自分の意思さえ伝えれば、あの教師はきっと自分を男として見るだろう、と思った。 男として見ているか? 否───あんな事をしてみたところで、女は俺を生徒としか見ていない。 不意に、眼前に自分の額を狙った竹刀が突きつけられたことを悟って、ゾロは寸でのところでそれを交していた。 (クソッ・・・集中しろ!) 内心頭を振って、己を叱咤する。 それでも、女の影が一向に消えないのだ。 女が自分を心底拒んだことを知って、もう駄目だと悟った。 いいや、悟るようにと言い聞かせた。 だが、彼の心はそれに反して、あの時からより強く、彼女の姿を追い求めているのだ。 一度味わってしまった彼女のやわらかなその感触を、もう一度強く、強く抱きしめたいと願う自分が確かにいて、忘れてはいけないと叫ぶのだ。 そんな事を考える頭で、まともな剣など振れない。 まるで、彼女の心と同時に自分の全てが失われた感傷に襲われて、彼が面の奥でいやに冷めた瞳を見せた時、不意に微かな声が聞こえた。 (・・・───負けちゃダメッ!) 叱咤されたかのようなその声に背を押されたように踏み込めば、既に先手を取り、なおかつ二本目も優勢に立っていた敵は、だと言うのに、一本取られたことに逆上したのか自棄になったとも思えるほどの気概で切り返してくる。 一度冷静になれば何のことはない。 ゾロは、その隙を瞬時に悟って、突き出された先方の竹刀を弾くように返し、秀麗な流れを思わせる動きで相手の小手先を打っていた。 |
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