700HIT踏んでくださった真牙様に捧げます。


みどりのうた


13




空が白んで次第に山々がその姿を際立たせていく頃、ゾロは深い眠りに落ちたナミの体をそっと布団の上に下ろした。

彼女がもう起きネいだろうことを知っていたと言うのに、自分の膝にかかる彼女の体温を離しがたく、結局朝を待って彼女を柔らかな布団に戻したのだ。

朝のひやりとした空気を肌で感じて、タオルケットで彼女の体を隠すようにしてから、ゾロは一睡もしていないというのに妙に冴えてしまった頭のまま、荷物を手にした。

流石にこの早い時間に電車があろう筈もないが、ナミの言葉を思い出して、ベルメールがあの家に居るというのならば、最後にもう一度あの変わってしまった風景を、だが、ここに来てから毎日目にしていたあの風景を見るのもまたベルメールに対する餞ともなるかという気がしたのだ。

数年ぶりに家から遠く離れて、夜更けても尚起きていた少女は今朝はどうしたって起きることもないだろう。

あの家の周りをゆっくり見て回っても、彼女が起きるまでに駅に向かうことはできる。

多くもない荷物が入れられた鞄が来た時よりも少し重くなったような感を覚えながら、一杯、水を口に含んでからこの家を出ようとゾロは台所へと向かった。

土間に下りて、夜の冷たい空気を残した台所に行って、グラスに水を注ぐ。
それを口につけようとした時、背後から不意に声を掛けられた。


「あたし達にも何も言わずに帰るつもりかい」

振り返れば、くれはとヒルルクが欠伸しながらも台所に入って来る。

「起こしちまったか?」

ふん、とくれはが鼻を鳴らした。

「窓を開けたまんまあんな遅くまでくっちゃべってたら、こっちも寝らんないさ」




静かに話していたつもりだったのだが。
ヒルルクの目の下のクマを見れば、彼らは自分たちの話し声を全て聞いていたということは一目瞭然だ。
まるで自分のように一睡もしていない、といやに鋭い光を帯びた瞳がそれを語っていた。



「そりゃ、悪ィことしたな。高齢者にはちとキツかったか」

「言うに事欠いて、それか。全くテメェってぇ奴は・・・」

ぶちぶちと文句を言いながら、ゾロの手に握られたグラスを奪って、ヒルルクが半分ほど残っていた水をぐいっと飲み干した。






「・・・あの子に何も言わないで行くつもりかい?」


いやに静かなくれはの声がざわりと胸をざわめかせたが、しかしゾロはそれを億尾にも出さずに「あぁ」と素っ気無い言葉を返した。


「あの子は随分とあんたに懐いちまったみたいだがね」

「一過性のもんだ。13ぐれぇの時は、物珍しい大人に懐くもんだろ?」

「あんたがベルメールにそうだったみたいにかい?」

「・・・ま、そういうこった」

「だが、今のあんたはそれを忘れなかったからここに来たんだろう」


ゾロの左の眉がピクンと跳ね上げられた。


「・・・何を」

「あれぐらいの子供を侮るなって話さ」



意味深な笑みを浮かべて、くれははもう会話に飽きたかのようにヒルルクに「朝ご飯」と言って、居間へと入って行った。



言葉の意味をいまいち捉えきれずに、眉をひそめたままヒルルクを見やれば、彼もまた「・・・そうじゃねぇと願いてぇとこだが」と忌々しげに呟く。

「おい、どういう意味だ?」

「むしろ、あれっくれぇのガキが一番手強い。テメェも俺の手を散々焼かせただろう」

「いや、そうじゃなく・・・俺ァ別にベルメールに会うためにここに来たわけじゃねぇし、アレが特別だったってわけじゃ・・・」

「男らしくねぇな、小僧。昔はどうか知らねぇが、ここに来てからお前は何をやってた?」

「・・・・・・」

ゾロが黙り込んだ。

いや、黙り込むことしか出来なかった。

遠き日に思いを馳せて、忘れもせぬあの家に毎日あそこに通っていたのは、自分だ。

そんな自分の姿は、傍から見れば確かにあの丘に特別な思い入れを持っていたとしか思えないだろう。

あそこに、特別な思い出を持って、それを忘れぬからこそ、そこまで行っていたのだと。
ヒルルクとくれはがそう思っても仕方がないのだし、それを認めれば、先ほどの自分の『一過性』という言葉は果たしてそれが真実となる確率が大幅に減少する。


「テメェは充分ナミの『特別』になっちまってるってぇ事だ」

ヒルルクの言葉が耳に届いて、ゾロは思い切り顔を顰めた。
そんな男を見て、老爺は豪快に笑う。

「そう満更でもねぇくせに、全くテメェは昔っから素直じゃねぇ」


苦渋に満ちた顔で、ゾロは鞄を手にした。

まだ電車は無ぇぞ、と言うヒルルクに背中越しに「ベルメールに挨拶してから行く」と答えれば、見ろ、さっきの話は真実だろうとでも言わんばかりにヒルルクはまた一段と大きな声で笑った。

「世話になった」

ぺこっと頭を下げて、玄関を開ければ、縁側の雨戸を開けるくれはがにぃっと笑った。
無言で礼をすれば「庭の花を持っていきな」と、鋏が投げられる。
先ほどのヒルルクと自分の会話を聞いていたのだろう。
刃先の広がったそれを慌てて受け止めて、自分の手に傷がついていないことを確認してからゾロはまた一礼して、足を踏み入れたことのない家の裏手へと回った。

気持ちの上で、あの家に行くということは、ベルメールの墓前に行くも同然で、くれはの気遣いに感謝しながら家に添って角を曲がって、ゾロは一瞬息を呑んだ。


小さな庭に、朝日を受けた金色の向日葵が数本、猛々しくもその存在を主張して天に向かって花を咲かせていたのだ。




すぅと深呼吸して、ゾロは彼らの思いの篭ったその向日葵へと近づいていった。




ベルメールの畑で見たものと何ら遜色のないそれは、ヒルルクやくれはがどれだけ丹精に育てたかが一目でわかる。




その太い茎をなぞって、自分の背丈よりも頭一つか二つ分小さな向日葵の花びらを一枚、摘んだ。



ふと、彼の手に昨晩触れたナミの柔らかな頬の感触が思い起こされて、ゾロはじっとそれを見つめた後で、茎の根元を切り取って、大きな花を肩に背負うようにして、寺を去った。




*************************




目を開ければ、見慣れぬ天井が広がっている。

ここは、どこかと思いを巡らせた後にナミはガバッと体を起こした。

慌てたように部屋の中を見渡す。

自分はいつしか布団の上にいて、窓辺にいた彼の姿はどこにもなく、いや、それどころか部屋の隅に置かれていた彼の黒い鞄もない。


瞬時に血相を変えて、ナミは慌てて居間へと走った。
バタバタと足音を立てて走るのは何年ぶりかと考えて、次にそれをできる自分を引き出した男の名を心の中で呼ぶ。

(ゾロ・・・────?)


何故いない。
何故、荷物がない。


何故、自分を起こさない。


何故、と繰り返して、ナミは息せき切って居間の襖を乱暴に開けた。


濃い茶色の卓上には、一人分の食事に透明なラップが掛けられている。

食後のお茶を啜っていたくれはが、顔を上げて「乱暴な挨拶だね」と言うものだから、ついそれまでの勢いを忘れてナミは「おはようございます」とペコンと軽く頭を下げて彼女に駆け寄った。

「くれはおばあちゃん、ゾロがいないの」

「鞄もないの」

「・・・どうして・・・」

相手に答える隙も与えずに矢継ぎ早に質問した後で、ナミは瞳を振るわせた。


「お察しの通りだよ。アイツはもう帰った」


くれはの言葉を聞いた途端に少女の体は一気に力が抜けて、ナミはその場にペタンと座り込んでしまった。

テレビを見ていたヒルルクが申し訳なさそうな顔で振り返って、そんな少女を見ていたが、だがあまりに彼女の顔に焦燥の色が浮かんでいることを知って、掛ける言葉も見つからぬままに彼はポリポリと鼻の頭を掻いてからまたテレビに顔を向けた。




「まぁ・・・あんたの母さんに挨拶してから帰るとは言ってたがね」



少女が顔を上げた。


くれははにぃと笑ってそれに応えるだけで、それ以上の事を言わない。


だが、ナミにはそれだけで十分だった。

直感的に男が今いるだろう場所を悟って、少女はまたバタバタと部屋へと戻って、乱暴にパジャマを脱ぎ捨てると昨日も着ていた白いサマードレスを乱暴に着て、また踵を返して玄関から走り出た。









彼女の足音を遠くに聞きながらくれはが茶を啜った口の端を上げた。


「ヒッヒッヒ・・・あの若僧も大したもんを残してったもんだよ」


チッと不機嫌そうな舌打ちを鳴らしたヒルルクがくれはを横目でじろりと睨む。

「言わなくても良かったじゃねぇか。全く・・・これだから女って奴ァな・・・」

何か言ったかい?と剣呑な雰囲気を存分に染み込ませた声に、ヒルルクは肩を竦めることしかできなかった。







寺の敷地を出れば、すぐにナミを呼び止める声がする。

走りながら振り返れば、麦わら帽子を被った少年が自分を追いかけるように走っているのが視界に映った。

今日はナミとゾロがここにいるから、と朝早くから家を出たのだろう。




「ルフィ、急いでるの!ゾロが帰っちゃうのよ!今、あんたと遊んでるヒマなんかないわ」

ゾロが?と素っ頓狂な声を出したということは、この少年もそれを知らされていなかったのだ。
ナミは千切れるほどの痛みを感じる唇をより一層きつく噛み締めて、昨日ゾロに連れて来られた山道を駆け上がって行った。

遠くでルフィが「頑張れよ」なんて変な励ましをする。


でも、そうだ。





勝手に現れて、今また勝手に去ろうとする男に。



あの人に会うために・・・───




ナミは走った。


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