700HIT踏んでくださった真牙様に捧げます。


みどりのうた








そこまでの道のりは鮮明に覚えているわけではないはずなのに、何故か身体はそこに引き寄せられるように自然に前へ前へと進んでいく。


あぶらぜみの声がそこら中にこだましている林の中の道なき道を歩き、シダをかき分け、少しすれば目も見張るほどの澄み切った水が、川の中の岩に跳ね返って白い飛沫を惜しみなく舞い上がらせる沢に辿り着く。
水の間に浮かぶようにして突き出た岩は、少年の頃には狙いを定めて思いっきり地面を蹴らなければと思わせるほどの距離で、少年のゾロにとってはこの飛び石の橋を渡る瞬間がとてつもなく面白いものに思えて、一度渡った後にまた対岸から戻ってきたりしている内に、湿気で濡れたスニーカーが岩に生えた苔に滑って結局水に落ちるという事もあったものだ。

きょろと辺りを見渡せば、その懐かしい飛び石は変わらずそこにあって、ゾロは人知れず口元を緩めて、軽々と二つ、三つと岩に飛び乗って、対岸へと着地した。あの頃より身長も伸びたし筋力もついたのだから、当然と言えば当然なのだがいやに簡単に為し終えてしまったこの遊びは、だが、ゾロの口元を緩ませるに充分な感銘を彼の心にもたらした。

沢の音を背にして少し歩けば、傾斜は随分となだらかになって、二つの山にはさまれた高原地帯への入り口が近いことを教えてくれる。

ゾロはこの道を歩くことが好きだった。

鬱蒼と樹木の茂った道なき道を行けば、不意に視界が開けて、そこには金色に輝く一面の向日葵畑が広がっている。
その向日葵たちに囲まれて、小さな小さな緑の丘が申し訳なさそうに頭を覗かせたそこに、件の女性が住んでいた白い家と、名も知らぬ一本の木が建っているのだ。
その光景は何年経とうともゾロの頭に色あせることなく残っている。







だが、数分の後に拓けた景色に愕然として、これが夢ではないかと何度も瞬きを繰り返す男がそこにいた。




そこには向日葵など一本もなく・・・───


(ない・・・いや、こりゃ・・・)


焼かれたのだ。

畑を囲んでいた森の木の中には、新芽を覗かせたその下に焦げたような跡がある。

金色に輝いていたこの地は、黒い土の上に無造作に生える雑草があるばかりで、その片鱗すらも残していなかった。





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この町が村であった頃、ゾロは通っていた剣道の道場が主催した合宿でここに来た。

というよりも、連れて来られたという言葉が正しいだろう。

当時のゾロはまだ13歳で、小学校から中学校に上がり、実力があると思っていたのに中学生の世界というのは途端に腕がある者が増えて、そこで生まれて初めてゾロは敗北を味わった。

学校の先生などは、全国で2位なのだから、と励ましてくれたが、自分よりも強い相手がいるとは思っていなかったゾロにしてみれば、その屈辱は耐え難いものだった。
そんなゾロを見兼ねて幼い頃から通っていた道場の師範が、高校生や大学生の合宿に参加しないかと誘ってくれたのだ。
ゾロにとっては、レベルの高い相手と手合わせできるチャンスだった。

両親も敗戦以来随分と荒れていた子供が変わるのならばと、一も二もなく了承してくれた。


だが、師範は「ここの美味しい空気を吸えば、気分転換になるでしょう」とやんわりと言っては、この何も無い村を散歩してこいと毎日ゾロを道場から遠ざけたのだ。

初めの数日間は道場に入れろと粘ってはみたものの、その柔らかな態度とは裏腹にゾロを決して道場に近づけまいとする師範と、そんな師範に頼まれたのか、ゾロが道場に近づくのを見ては追い掛け回す住職に根負けして、結局ゾロは何するでもなくブラブラと見知らぬ村を歩き回っては、道に迷い、村人に道場まで送り届けてもらうという何とも情けない日々を送ることになった。

この少年のことはさして多くもない村人の間で瞬く間に知られて、老いた村人達は、彼の姿を見止めれば地面に向けていた暗い顔に光を戻して、手招きをしては無口な少年に取り留めの無い話を聞かせたものだった。

中でも13歳のゾロの興味を惹いたのは、この村にいる変わった女のことだ。

興味を持ったのではなく、興味を持ってしまったのだ。

村人達は口々に「ひまわり畑には行ってはいけない」「あの女に近づいてはいけない」とゾロに言い聞かせた。


それは、けれども、多感な少年にとっては言えば言うほどに「そこに行け」という意味を強くするもので、また、何をするというもののないゾロが、村人や師範には気づかれぬように道に迷ったフリをして、山深く入ってはその向日葵畑を探すことが日課となっていったのも仕方のない話だ。



その日も今日のように青空高く、一分も外にいれば汗ばむほどの快晴だった。

ゾロはようやく道のりを覚えたお気に入りの沢まで行って、飛び石を渾身の力で飛び越えて、ふとこの先に行ったことはない、と気がついた。

村の中は大抵見回った。
だが、その変わった女とやらがいる向日葵畑はどこをどう探しても見つからない。

村人や住職に聞いたところで教えてくれるわけもないし、さぁ次はどこを探すべきかと考えていただけあって、一度それに気付けばもう好奇心を抑えきれなくなり、ゾロは何ら躊躇うこともなく沢を背にして真っ直ぐ歩き始めた。


しばらくして突然視界に広がった向日葵畑を見て、少年が一目でそこを気に入ったことは言うまでもない。





こんなにも広がる空は見たことがない。


こんなにも多くの向日葵が咲き誇るところなど他に知らない。

その上、自分が自分だけの力で見つけたのだという喜びも加わって、少年は小さくガッツポーズを取った後で、向こうに見える小さな丘の家こそが『変わった女』が住む家なのだと確信した。


家の近くまで寄ってみれば、タバコを咥えながら土をいじっている女が一人、背を向けて座っている。

だが、鼻歌まじりに土をいじるその女は、この村で見た農業に従事する彼らとはおおよそ正反対の印象を少年に与えた。


「誰だい?」

気配に気付いた女が、振り向きもせずに言った。






「お前が、変な女か?」




少年が少し躊躇った後で、だが、それ以外の言葉も思いつかなくて率直に聞けば、赤い髪を揺らして女が笑った。


金色の花も一緒になって笑ったような、不思議な空気がそこにはあった。





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しばし歩いてみれば、少年の頃には随分と広く感じたこの向日葵畑も、大人の足にしてみれば左程の広さではないということに気付く。
やはり自分が成長してしまったのだということをまた思い知らされて、ゾロはそこに一抹の寂しさにも似た懐古の情を覚えた。

ゆっくりと、雑草を踏みしめるようにして家に近づけば、太陽の光に照らされてその白さを際立たせていたその家は、どこかくすんだ壁を惨めにも風にさらされるばかりだった。やはり火に巻かれたのだろう。そこについているのが灰だと知って、ゾロは微かに眉を顰めた。


「誰も、いねぇのか・・・」

ヒルルクやくれはの言った言葉の意味を実感して、ゾロはため息交じりに肩を落とした。


初めて見た時にベルメールがいたそこには、錆びたスコップが雑草に埋もれるようにして転がっている。
家の足元を彩っていた花々が植わっていた筈のプランターは土も乾き切って、雑草すらも申し訳なさそうに数えるほどしか生えていない。


いつからこうだったのかと思いながら、ゾロはその家のドアノブに手を掛けた。




空いている。



当然だ。


この家は、紛れもなく廃墟なのだろう。


変わり者と称された女が残した家を、誰一人として管理することを名乗り出なかった、ということなのかと思えば、ベルメールに嫌な思い出一つ持たないゾロにしてみればやりきれない。

一体ここで、そして彼女に何があったのかという思いだけに駆られて、ゾロはそれを確かめるために迷うことなく暗い部屋に足を踏み入れた。








「・・・出て行って」






カーテンを閉め切った暗い部屋に、空間の中に浮かび上がったようにか細い少女の声が響いた。

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