みどりのうた
9
沢まで来れば、見慣れた少年が向こう岸で難しい顔をしながら腕組みをして、岩に当たって弾け飛ぶ白い飛沫を睨んでいた。
「ルフィ。何だ。やっぱり来たのか」
ゾロの声にハッとなって、少年が顔を上げた。
「・・・ナミ!」
まさか居るはずもない少女の名を呼んで、ゴシゴシと目を擦る少年に、先ほどの自分の姿が重なって、ゾロはつい苦笑してしまう。
「家から出たのか?今、俺そっちに行くぞっ!」
「おい、お前一人じゃ無理だって・・・」
山を駆け巡って遊ぶルフィは、たしかに他の子供に比べれば運動能力は高い方だろう。
だが、さすがに13歳のゾロも苦労したこの飛び石を攻略できるわけもなく、いつもはゾロが手を出して手伝ってやって、ようやく次の岩に飛び乗れるのだ。
だが、ナミの存在にそんなことも忘れてしまったのか、少年は思いっきり地面を蹴って石に乗った。
一度目のジャンプは成功。
瞬く間に次の石に向かってジャンプする。
二度目のジャンプは・・・
盛大な水音を辺りに響かせた。
ルフィは腰まで水に浸かって、呆けたような顔でゾロとナミを見上げている。
仕方ない。大人のゾロにしてみれば、太ももあたりまでのその川に入って、ゾロが彼を抱きかかえれば少年は礼よりもまず対岸の少女の方へと急くように足をバタバタと動かした。
「暴れたら、もう一回落とすぜ?」
「嫌だっ!俺、泳げねぇんだぞっ!!」
「ここなら歩けるだろうが。ま、もし溺れたらそん時ゃ助けてやってもいいがな」
そう言ってゾロが彼の体を支えている両腕を伸ばすと、不安定になった少年の体は、ゾロが本気なのだと悟ったのか途端に強張った。
「そうやって大人しくしてりゃいいんだ」
落ち着いた少年を小脇に抱えて、ざぶりと水から上がれば、ナミが戸惑うように二人を見ている。
「ルフィ、ナミに謝りてぇんだろ」
そうと聞いたわけではないが、おそらく少年がここまで来たのは、そのためだろうとゾロは少年の姿を見止めた瞬間に悟った。
ナミに謝ろうと思って、ここまで来たものの、だが、一人で川を渡れずに居たのだ。
(なら、初めっから一緒に来りゃいいものを・・・───)
呆れてため息をついてみたところで、ずぶ濡れになった少年はもうゾロのそんな態度も気にせずにナミに頭を下げて「昨日はごめんなさい」と素直に謝っていた。
「ルフィ」
ナミが何かを言いかけて、唇をきゅっと結んだ。
もじもじとした後に、ゾロを見て助け舟を求めている。
ん、と顎を動かして促すと少女は僅かに顔を赤らめながら「その・・・」と振り絞ったような声で言った。
「また、私と遊びましょ」
いくらあどけなさが残っているとは言え、ナミはもう13だ。
その頃の少女と言えば、小学生の男の子と遊ぶとも思えず、ゾロはナミの様子を伺った。
彼女は、まるで昨日までと違って顔に色を取り戻し、笑顔こそ見せないものの、随分と表情が豊かになった。
虚ろだった瞳は凛と輝き、目の前の少年をじっと見ている。
(あぁ、そういうことか・・・)
ナミの言葉の意味は、姉のようなもので、この田舎では年上の子供が年下の子供と遊んであげるという感覚がまだ残っているのだろう。
自分の周りではそんなことももうなかったために何故彼女がルフィにそんな言葉を掛けたのか、一瞬理解できなかったのだが、きっとナミは昔もそう言ってルフィと遊び、否、年下のこの少年の世話を見てやった経験があるのだ。
自分の知らない時間が確かにそこにあって、少年にとって充分なその言葉は、ルフィの顔に満面の笑みを湛えさせていた。
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その日から、ナミは変わった。
自分からゾロやルフィに話しかけることもあるし、彼らを手伝って草むしりをすることもある。
都会に住んでいたゾロは、山中の生活に不慣れなこともあって、ルフィと二人して畑の整備のために必要なことを教義しては、「ゾロは何も知らない」と僅かに口元を緩ませることもあった。
正気になってみれば、なるほど、やはりナミはベルメールに育てられた少女ということを実感できる。
ルフィという年近い少年の存在も大きかったのだろうが、ゾロにルフィが悪戯をけしかけることを手伝って、彼がそれを叱り飛ばせば理路整然とした言葉を返して、ゾロを黙らせた。言の葉を口にすることなど皆無に等しく何の意思を伝えたいのかと自分を悩ませた幼子の片鱗はもうそこに居るわけもなく、母と同じように自分を黙らせる生意気な少女に、けれどもゾロはこの数日という短い期間で少女が心を開いてくれたことに、内心嬉しさを隠せなかった。
ナミに大きな変化が訪れて三日目のことだ。
向日葵畑の雑草も窓から見える範囲はおよそ刈り取られて、それを満足げに見渡しながら帰ろうとするゾロとルフィの服を引っ張って、ナミが強請るように言った。
「ここに居て」
気を取り戻せば、辺りに一つの街燈のないこの家に夜の間、一人でいることが不安に思うのだろう。
気持ちはよくわかるが、ゾロはともかくルフィはここに来ていることを両親に黙ったままなのだ。
ただ、寺にいる男と毎日一緒に遊んでいるのだということしか彼の両親は知らない。
それもヒルルクやくれはが取り成してくれたおかげで、やはりゾロを記憶の片隅で覚えていたルフィの父は、それならば、と送り出してはくれたのだが、必ず暗くなる前に帰るようにとは言われている。
ゾロはナミの言葉に首を傾げた少年の頭を見下ろして「コイツはもう帰らねぇと・・・」と呟くように言った。
「じゃあ、ゾロはここに居て」
「いや・・・俺が戻らなかったら、ヒルルクのじいさん心配するだろうしな。俺ァ今、あの寺で世話になってんだ」
ナミが驚いたように睫をパシパシと瞬かせて首を傾げた。
「ゾロは、自分のおうちがないの?」
「あるに決まってるだろうが・・・だが、この町じゃねぇ。あの寺にゃ昔世話になってな。それで泊めてもらってるってわけだ。じいさんもばあさんも俺が帰らなかったら、何があったって心配する。わかるだろ。」
また明日来るから、と言ってゾロは不意に少女の瞳から目を逸らしてしまった。
仕事を無理に休んで取った休暇は10日しかない。
初日に電車を間違えたせいで別の地へと運ばれ、戻る電車もないからとその地で一泊したせいで、もう明日にはその10日目を迎えることになる。少しずつ表情を緩ませるようになった少女とも、別れなければならないのは重々承知なのだが、それを言い出すことが出来ずに今日の日も終わった。
何かあるたびに、自分の服の裾をちょん、と躊躇いがちに引っ張る少女が、自分に懐いてくれたことを悟り、それはそれで何とも言えぬ喜びがあるのだが、しかしすぐにここから去っていく自分に対して心を許していく少女が怖いのだ。
もしも自分がいなくなれば、彼女はまた閉じこもってしまうのではないか。
自分が数日の内にいなくなることを知れば、自分を頼りにする少女は、途端に態度を裏返して、また何の反応も示さなくなるのではないか。
そうなった時を思うと、それがどうにも嫌でゾロは頭を悩ませた。
ここに居たい、という気持ちが強いというのもある。
だが、だからと言って、無断で仕事を休めるような性分ではない。
自分が去った後、少女がどうなってしまうのかという不安もある。
而して、少女がいなくなった自分をどう思うのか、という憂いが湧き上がるのだ。
少女はずかずかと自分の世界に入り込んで、そして消えてしまう自分を憎んでしまうかもしれない。
幼子だったはずの少女は、もう大人顔負けの複雑な思考回路の中で、彼を『憎むべき人物』という存在であると位置づけてしまうだろう。
いや、それも当然だ。
捨て犬や捨て猫を拾うことにも似ている。
拾うときはその存在を助けてやろうと思う。
だが、実際に拾ってからが大変で、つかず離れずそれの面倒を見てやらねばならない。
できないのならば、元より拾ってはならない。
そう思っていたはずなのに、ゾロはナミという止まってしまった時の中に居た少女に手を差し伸べてしまった。
ただ彼女をどうにかしてやりたいと思っただけで、後の事など考えていなかったのだ。
少女はここにずっと居るのだろう。
たった一人で。
帰らぬ母を知ったことは、幸か不幸か彼女に人並みの寂しさを感じる気持ちを取り戻させた。
ナミは元々利発なようで、それを悟ってから取り乱すこともなく、今目の前にある物全てを静かに受け入れた。
時折、変わってしまった向日葵畑を見渡して寂しげな瞳を見せても、それをルフィやゾロに気付かれたと感じれば、すぐに微かに微笑んで彼らに心配をかけまいとする。
だからこそ、心配なのだ。
まだ一人で暮らせる年齢でないということもある。
その上、彼女はどこか他人に気を遣って、自分の心を無理に抑えこんでしまう。
ここに居てくれ、と頼まれればついぞ帰りたくないと思ってしまう自分がいるのだ。
懇願するように、その純真無垢な瞳をゾロに預けてナミは彼が「わかった」と頷くことを待っている。
日が落ちるのも間近だろう。
ナミのオレンジ色の髪が夕焼けに赤く見えて、輝いていた。
ナミがここまで我を通したのは初めてだ。
余程一人の夜が嫌なのだ。
わかっている。
それは、わかっている。
だが、どうすれば良い。
ゾロはしばらく考えた後で「着替え持って来いよ」と言った。
「俺ァ帰らなきゃならねぇ。ここには電話もねぇし・・・世話してもらってるってぇのに無断外泊ってのもな。だから、お前が来い」
ゾロの予想外の提案は、少女に驚きの色を与えた。
不思議そうな瞳の色に、ゾロは「早く」と、彼女の気持ちはさておき、ルフィを家まで帰さねばならぬ刻限に追い立てられて、彼女の背をポンと押した。
急かされて、少女は慌てて家へと戻って、大きな鞄にありったけの衣服を手当たり次第詰め込むと、それを持って姿を現した。
ゾロはくつくつと苦笑しながら、「どこ行くつもりだよ」と小さく言って、それでも彼女の手から大きな鞄を奪うようにして取り、事の次第を黙って聞くことも出来ずに草原の中、トンボを追いかけて走り回っていた少年の名を呼んだ。
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