こがねいろ

3




迫る夕暮れに日は長く暗い影を造り出して彼の顔に陰影を落としていた。
逆光に目を細めかけて、私が逆光なら彼の目にたった今、頬を流れた涙がはっきりと映っているのだと気付き、でも拭ったらそれを認めるようで俯くことしか出来なかった。

ゆっくりと彼の影が動いて私に近づいてくる。

「な、何よ。何もしてないわよ」

声と共に握ったその手の中には、ピアスがまだ在る。
それをさっさと置いて帰れば良かったのに。
長く考え込んだ覚えはない。

私が教室を出てすぐにゾロもまた、いつものように気だるげに席を立って鞄を肩に、この玄関へと来たのだろう。

ウソップの姿はない。

どうしてここに居るんだろう、という疑問と、もしかして私を追ってきたのかもしれないという期待と、それからピアスを持っていたことに気付かれたかもしれないという不安で声が上擦ってしまった。

平静を取り繕うとする気持ちばかりが大きくて、取り成す言葉も見つからないでいると、手も届く距離まで来たゾロが「どけよ」といつもと何ら変わりない声で言う。

「靴が出せねェ」

あっけらかんと言った彼の顔を見上げたら、二つ残されたピアスは逆光に眩しく、私の視界に鋭い光を瞬かせた。

「・・・・見てたんでしょ?」

「あァ。まァな」



(・・・あっさり言ってくれるじゃない)


バカ、と言おうとした口は開ききることが出来なくて、でもようやく動かしたというのに、声は出なかった。そんな事ですらも悔しくて視線を真正面に受けたまま、まるで睨み上げるような瞳のまま、彼の靴箱の前から体をずらしたら、ゾロは少し躊躇いがちに緑の頭をぽりぽりと掻いた。


「別にいい。」

「・・・・・何の話?」

「それ。テメェが持ってんならそれで」

私の握った拳を指差して、ゾロはもう一度「別にいい」と言った。


「アイツが言った通りってわけ?」

「まァそんなとこだ」

アイツというのが誰なのか聞き返すこともせずに肯定した彼の言葉は、いちいち私の胸に痛みを与えて収まりかけた涙がまたじわりと浮かびそうになった。
目頭がずっと熱いままだから、だからだと自分に言い聞かせたら不意に苛立ちが沸いて言葉が止まらなくなっていった。

「いいご身分ね、偉そうに。女が忘れられない?あんたがそんなに女々しい奴だとは思わなかったわ。そんな顔してるくせに」

「顔は関係ねェだろ。どう考えても。」

「関係あるわよ。何にも、誰にも興味ないって顔してるじゃない」

お前なァ、と呆れた声で言って靴を履き替えてる男の背に、手を突き出したら不思議そうな眼でそれを見る。呆れたいのはこっちの方だって言うのに。

「返すわ。私が持っててどうするって言うのよ、こんな物」

「・・・・・じゃ、返せよ」


私の拳の下で開かれた大きな手のひら。





「・・・・イヤよ。返さない」





何で返さないのよ、私のバカ───

もう、泣きそう。

だってどうしていいかわかんない。

私の手に握られたピアスは、彼にとってはきっと大切な物で、私にとっては今までは確かにゾロの象徴でもあって、これを返せば終わり。また明日から彼は平然と私に声を掛けてくる。
でも、そうしちゃいけないと言っている自分が、心のどこかから手を開いてそのピアスを彼の手の上に戻してはいけないんだって歯止めをかけている。

終わらせちゃいけないなんて、そんなことは思っていない。

むしろ、こんな気分にさせたこのピアスを早く彼の手に返したい。

じゃあどうしてそれをすることを躊躇うのかって。


「女々しい男ってイライラするわ」

「・・・・何だよ、そりゃ。俺に言ってんのか。」

「知らないわよ。とにかくイライラするんだもん。こんなの・・・」


放り投げたら玄関先の大きなガラス戸に当たって、跳ね返ったピアスは乾いた音と共に床に転がった。
他の女の人を思ってゾロが耳に付けていたピアス。

金具が弾けたのが目に映って、後悔の念が頭を過ぎっていったけど、でも謝ることができない。

空気が一瞬動いたことだけは肌は敏感に感じ取っていて、だから、投げることを止められなかった自分が確かに居た。

ゾロが慌ててそれを止めようとした空気。
投げた後に私の腕を掴んでいた彼の手は、ピアスの金具が細長いその装飾品から外れた瞬間に殊更力をこめていた。

だから、謝ることができなくなったのだと、そんな事を思って自分の罪悪感を消そうとしたけれど、彼の所為にして逃れようとしてる自分がまた情けなくなって、その手を振り払うことで何とか涙を押し留めた。

「謝らないわよ」

「・・・別にいいって言っただろ。返ってこなくたって───」

「バカ」

「お前は何なんだよ」



瞬間、ゾロの顔が近づいていた。
下駄箱に手をついて、背の高いゾロが私ににじり寄って、そうしたら私は逃げ場がない。
陰影の中でもゾロの表情ははっきりと見て取れた。

苛立ち紛れの声は、彼の鋭い視線と相まって、彼がどれだけ怒ってるかがわかってしまったら尚更に私も謝ることなんて出来なくなってしまう。


「俺を女々しいだのバカだの言って、テメェは何なんだよ」

「私のどこがどうだって言うのよ」

「知るか。だから聞いてんじゃねェか」

「意味わかんない。どいてよ、私帰るんだから。あんたもバイトだって言ってたでしょ。早く行きなさいよ。クビになっても知らないから」

「お前なァ・・・・あァ、じゃあ教えてやる。これはな・・・」

「別に興味ないわ。わざわざ聞かせてくれなくても結構よ。」


遮られた言葉の後に耳を指差してた彼の手はゆっくりと、下ろされていった。


「テメェ、何で早く返さなかった」

「さっきそこで拾ったのよ」

「・・・・・今日一日変だっただろ。その、お前何か気にしてたじゃねェか。違うか」

「あんたの気のせいでしょ」

「おま・・・何でそー頑固なんだ、テメェは」

「頑固じゃないわよ、別に」


いつもはね。

本当に今日の私はどうしたって言うんだろう。

自分だって不思議なぐらい、イライラして、それからポケットの中の重みに少しだけ嬉しくて、いつもより小さなピアスの音に罪悪感を感じてはゾロの言葉の一つ一つに───ほら、涙が出てしまいそうになってる。


「言ったところであんたにはわかんないわ、きっと」

「やっぱり何かあるんじゃねェか」

「何もないわよ。でもあったとしても、あんたにはわかんないって話をしてるの。わかった?だから手をどけなさいよ。早くしないと・・・」

あぁ、ダメだ。
泣いちゃう。


泣く理由はわかってる。

だってコイツは今までピアスを鳴らすぐらいの事でしか私に反論したりしなかったのに、いくら口で怒っていても、こんな風に私を問い詰めようなんてしなかったのに、それは彼が誰に対してもさほどの好奇心を持たない奴だからだと思ってた。
だと言うのに、あの小さな小さな装飾品が壊れただけでこんなにも怒っているのを見たら、私はあのピアスに閉じ込められた思いを受けている女よりも、ずっとずっと負けているんだってそんな気がしてしまうのよ。


「早くしないとな・・・・痛ェッ!」


思いっきり足を踏みつけたら、靴を履き替えるために上履きも脱いで、しかも靴下も履いてないゾロの足の甲には私の上履きがつけた赤い痕が一瞬の内にくっきりと残っていた。

「踏むわよ」

「・・・・・ッ踏んだ後に言うたァいい度胸じゃねェか」

意地悪な笑顔。でも目が笑ってない。それどころか、眉の間に皺を深く、笑顔は引き攣ってる。
ふんって鼻を鳴らしてそっぽ向いた。
これ以上彼の顔を見ていたくない気がして、視線を逸らしたら、いつの間にか玄関の外で部活動してたどこかの部員達の姿は見えなくなっていた。
グラウンドに出て行ったのだろう。
さっきまで聞こえていたのと同じような掛け声が、遠くから響いている。


「お前な・・・・」


怒ることにも飽いたのか、あきれ返った声に我に返った。
私を逃すまいと、下駄箱に置いていた手はいつしか下ろされていた。


「・・・・何?」


髪に何かが触れた気がして、それはゾロの手かと思った。
だって他に誰もいない、放課後の下駄箱で、私の髪に触れる何かがあるとすればそれしかない。
どうしてそれが触れたのかと考える前に、胸が大きく鳴っていた。




ゾロの頭が、まるで項垂れるように私の肩に、凭れ掛かっている。




言葉が出なくなって、それどころか思考すらも止まっていた。



暫し、沈黙が私たちの周りも、校舎の中も、グラウンドも、陽が傾きかけた景色も、全ての空気を飲み込んだ気がして、自分の吐息も潜めていた。


目の前には、ゾロが着ている白いシャツ。


瞬きを一度だけした瞬間、それが離れていった。



「バーカ」


ぴんっと弾かれた額に手を当てたら、自分の顔が火照っていることに気付かされた。


「・・・それ、私の台詞よ」

「たまには俺からも言わせろ」



ったく、と呟いてゾロは靴を履くと何事もなかったかのように外へと出て行く。
一気に体の力が抜けて、だから私はその時自分の身が思ったよりもずっと強張っていたのだと知った。
足に力を入れていることが出来ずに床にへたりこんだら、冷たい床が火照った体に心地良い。

額に手を当てたまま、彼の背をただ見ていると小さな咳払いが耳に届いた。


振り返ったら、下駄箱の陰に隠れていたゾロの自称親友。
あぁでも親友なのは本当なのかもしれないけど。
それにしちゃゾロが肯定しているのを見たことがない、なんていつもと変わりない思考が頭を駆け巡って、ようやく額から手を下ろすことが出来た。

まるで夢の世界から現実に引き戻された気分。

もし、今の私がいつもの私だったら覗き見するなんてって声高に怒ったかもしれないのに。
そんな気力は起きない。


「見てたの?」

「わ、わざとじゃねェからなっ!ゾロの奴、俺が後から行くってわかってんのにイチャつきやがって・・・俺ァただ職員室に鍵を返しに行ってただけだぜ、すぐに来るってわかるだろ!?」

「男の言い訳って大嫌い」

「何っ?!この俺様が言い訳なんかすると思うか?」

「思うわ」

即答したら、ウソップはそんなバカな、と泡食った顔で驚いて、最後まで残っていた緊張の糸が解れていくのが手に取るようにわかった。

「嘘よ。アイツってば本当に迷惑な奴。何考えてんのかわかんないわ。そうでしょ?」

「俺にしてみたらあんたも十分・・・いえ、何でもありません。」

立ち上がりながら睨みつけてしまったけど、でも本当はこの人がここに居てくれて有難い。
他の人に見られていたら今の気持ちを言葉にすることも出来なかっただろう。
ゾロをよく知ってるコイツだから、殊更有難いという気持ちが膨らんでいく。
私のこの疑問、解決できるのは今ゾロをおいてコイツ以外にないのだから。

「たかがピアスであんなに怒ると思ったら・・・何考えてんのよ、もう・・・・っ!」

「そりゃ、でも恋愛に関しちゃ百戦錬磨の俺様の意見を述べさせてもらうとだな」

「あんたが百戦錬磨?いつも振られて、ゾロに愚痴りに来てるじゃない。フラれることに関しちゃ百戦錬磨でしょうけどね」

「おう、俺様はフラれる事に関するエキスパート・・・って、おい。」

「そういえばあんたってピアス作るとか言ってなかった?アレも直せるの?」

出入り口の近くで転がっている金色のピアスを指差したら、ウソップは二つに分かたれてころんと転がっているピアスと私の指と、それから私の顔を何度も交互に見比べてから「見てみる」とピアスに駆け寄った。

小さな小さなピアスを大事そうに手に取ってじっと見てから深く頷いてる。
靴を履いて、しゃがみこんだまま動かないウソップの背の上から覗き込むと、どこから取り出したのか知らないけれどピンセットで金具を弄っていた。

「直るの?」

「あぁ、こりゃ止めてる部分が緩んでただけだな。こっちのキャッチも緩んでるな・・・だから落としちまったんだろ。ほら、もう直ったぜ」

自慢げに鼻の下を擦りながら立ち上がったウソップが、ピアスを指先で摘んで揺らして見せた。
当然だけどたった一つしかないピアスは音が鳴るわけもなくて、でもゆらゆら揺れるそれについ安堵の溜息を漏らしたら、ウソップは私の手を持ってほら、と手の平に置いた。

「何で私に渡すのよ。アイツに直接返せばいいじゃない。」

「あんたから返せよ。俺が見たところ、ゾロの奴だってそれを待ってたんだぜ・・・・いや、多分ってェ話だが。アイツさ、あんたから聞いてくれんの待ってたんじゃねェか」

「聞く?何を?」

「だからピアスしてる理由を・・・」

「何言ってんのよ。昼休みに私にだけは教えないってはっきり言ったわよ」

「そりゃ、周りに人が居たら言えねェだろ。」


ウソップの声が徐々に明るくなっていって、ついに大声で笑い出した。
朗らかそのものって感じの笑い声。

それだけに、聞いてるこっちとしては気分が乗らなくて「何なのよ」って声を荒げたらすまんすまんって悪びれもせずに謝るウソップは、まだ笑みを浮かべたままで一つ、おもむろに息を吐いた。


「賭けてるんだと。」

「賭ける?」

「ピアス、三つも付けてりゃあっちから気付くだろって言ってたぜ。」

「・・・・はっきり言いなさいよ」

「だから、好きな女がいるらしいんだ。ゾロの奴。けど、ああいう性格だろ。いや、俺もはっきりそうと聞いたことはねェが・・・自分でも認めたくねェんじゃねェか。一目惚れしたとか。その女の気ィ引くためにピアス付け始めたとか。」

「それが私だって言うんじゃないでしょうね」

「少なくとも俺ァあんた以外思い浮かばねェ。」



「・・・・違ったら、あんたを百回叩いても気が済まないわ」



蒼ざめたウソップは口の中で何かもごもごと言いかけたけど、後の言葉は何も聞こえない。



ポケットの中にピアス。


走り出したら、夕暮れの風が背を押した。

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