嫌い 大嫌い どうして───? わからないけど、とにかく嫌いなのよ。 そういうことってあるでしょう? I hate... 1 長い廊下に足音が響き渡る。 一人の少女が、古い校舎の中をせかせかと半ば小走り気味に歩いていた。 大切そうに抱えられた鞄をその細い両腕でしっかと持って、まるで割れ物でも入っているのではないかと思うほど、それを揺らさぬように神経を集中させ、だが、少女は焦れたように足を進めた。 既に21世紀だというのに、未だ板張りのこの校舎は少女の体を受け止めるたびにギシギシときしんでいる。 磨り減って、大きな溝を作ってしまった板の間に躓いて、少女は一瞬前のめりになってしまった。 鞄を持つ手に力を込めてしまう。片手を床について、全身の衝撃を覚えずに済んだことを確認してから「ほんと、ボロいんだから!」と呟いて、少女はまた歩き出した。 校舎の端、『講師室』と書かれた白い扉の前で立ち止まる。 ここはクラスを受け持っていない教師のための一室だ。 放課後の今の時間なら、マキノ先生一人だけしかいないはず。 誰に言うでもなくそれを声にして、小さな三つ編みにまとめられたオレンジ色の髪を揺らして一つ深呼吸をしてから、彼女は勢い良くそのドアを開けた。 ガラッと盛大な音が鳴り響いた部屋の中、黒髪の女性教師が顔を上げた。 「ナミさん。どうしたの?そんなに慌てて・・・───」 走ってきたわけではないが、それでもかなりの距離を早足で歩いていた少女は、荒い呼吸を繰り返して額を汗ばませていた。 いつもの冷静な彼女らしくない、とばかりに教師は瞳を丸くして入って来た生徒の名を呼んだ。 「マキノ先生、あのね・・・───」 はっとして息を呑む。 ナミの瞳に、ここに居るはずのない教師の姿が入ったのだ。 「・・・ろ、ロロノア先生もいたの・・・?」 「いちゃ悪ぃか」 ぶすっとした顔で、マキノの向かい側に座っていた男が生徒に顔も向けないまま苦々しげに呟いた。 「別にそういうわけじゃ・・・ないんですけど・・・」 女生徒はか細い声でそう言ってから、思い出したように「失礼します」と軽く頭を下げて、後ろ手で今度は静かにドアを閉めた。 「どうしたの?ナミさん、私に何か用事があったんじゃ・・・───」 「あ、あの・・・」 ちらりと見れば、マキノの前で白衣を着た教師はブツブツ文句を言いながらテストの採点をしている様子だ。 熱中していてナミとマキノのことなどどうでもいいという態度。 (バレないように・・・バレないように・・・) 心の中でそう呟いて、ナミは気取られぬようゆっくりとマキノの隣まで歩み寄っていった。 大切に抱えられていた鞄をそっと床に置いてしゃがんだナミが、不安げにマキノのデスクの向こうにいるだろう男の方へと視線をやってから、しぃっとばかりに唇の前で人差指を立てて、鞄を開けた。 「・・・あら・・・!」 「せ、先生・・・っ!」 しー!しー! そんなジェスチャーに、マキノが苦笑しながら口に手を当てて頷いた。 ナミの鞄の中に、小さなキジトラの仔猫がいたのだ。 暗い鞄に入れられていたせいだろう。仔猫はひどくビクビクして、鞄の中で震えていた。 「先生、お願い。預かって欲しいの。しばらくでいいんだけど・・・───」 「預かるって・・・ここで?」 コクン、とナミが頷いた。 理由を言いたいところだが、もう一人の男性教諭に知られるわけにもいかない。 (いないと思ってたのに・・・───) ナミはマキノと仲が良い。 将来留学したいと思っているナミが、留学経験のある英語教師、マキノに話し掛けたのがきっかけで、ちょくちょくこの講師室に来てはナミはマキノに英語を教わったり、何でもない話に花を咲かせたりしていた。校内では友達よりも気が許せる存在だ。どこかのんびりしていて、それでいて芯の強いマキノが個人的に好き、ということもある。 その上この講師室は教室からも離れていて人通りも少なく、去年いたもう一人の教師が退職してからは二つある内の一つのデスクは空いていて、今はマキノだけがこの部屋を使っている。そんないつ来ても静かなこの部屋がナミにとってのお気に入りの場所になるのにそう時間はかからなかった。 問題は、もう一人、この講師室のデスクを勝手に使っている生物教師、ロロノア・ゾロ。 頭が痛いことに、ナミの担任でもある彼は、この講師室の隣が生物学教室だからと言って、たまにこの部屋に来てはお茶を飲んだり、今日のようにテストの採点をしたりする。わざわざ職員室に行くのが面倒、というのが彼の理屈だ。 この無愛想な男性教師がナミは苦手だった。 元々『男性』というものが苦手でしょうがない。 いやらしいことばっかり考えてるし、がさつだし。 そのくせガキっぽくて、女を見た目で判断する。 友達のように好きな男の話できゃあきゃあ騒いでいるよりも、勉強しているほうがよっぽど気が楽、と思っているナミにとって、男とはそういうものだった。むしろあんな汗臭い生き物をどうして好きと言えるのか、と冷たい目で級友たちを見ていた。 特にこのロロノア・ゾロという教師は、相手を威圧するかのようにすぐ睨んでくる。 それがナミにとっては居心地が悪い。 自分の顔をじろりと鋭い目で見られることが嫌なのだ。 何か文句でもある?と、相手が先生でなければ口にしていたところだろう。 結局、そんな思いが手伝って、この担任教諭とろくに話したこともなければ、講師室に彼がいれば早々に退散するか、猫をかぶって途端に口を噤んでしまうかどちらかだった。 唯一、放課後だけはこの教師が剣道部に行っているせいで、何の気兼ねもなくこの部屋に来れる。 ・・・───はずだったのに。 (何で、コイツがいるのよ・・・───) ナミは大きな溜息をついて、鞄をまた大事そうに抱きかかえると、マキノに手招きをして部屋を出た。 * * * 「先生、お願い!」 ぺこっと頭を下げれば、その反動が体を伝わって、古ぼけた廊下が微かに軋む。 「・・・お願いって、でも、こんな小さい猫をここに置いておくわけにはいかないわ。夜はどうするの?ご飯とかトイレも・・・」 「もし置いてくれるなら、トイレは今日の夜にでも家から持ってくるわ。この子、昨日拾ったんだけど・・・今朝、吐いちゃったの。環境が変わって心細いのかも。だから、なるべくついててあげたいの。うちのお母さんも、昼間は働きに出ちゃうし・・・ここなら、私が休み時間ごとに見に来てあげられるでしょ?夜は連れて帰るし、せめて私に慣れてくれるぐらいまで!ね、お願い!!」 真剣な眼差しでナミが食い下がると、マキノがちらりと部屋のドアに目をやった。 「まぁそこまで言うならいいんだけど・・・ナミさん、それじゃロロノア先生にも言っておいた方が良いと思うわよ?」 「だ、駄目・・・!」 ぷるぷるっと振られた頭で、小さなおさげが左右に揺れた。 ナミの片手が彼女の顔の前で同じように振られている。 「でも、ロロノア先生もこの部屋使ってるし・・・」 「駄目よ、先生!ロロノア先生にバレたら、この子きっといじめられちゃうわ。大体、アイツ、ちゃんと職員室に自分の机があるんでしょ?先生、これを機にこの部屋に来ないでって言えば・・・」 早口で、しかし部屋の中には聞こえないように声を潜めてナミが言うと、マキノがくすくすと笑った。 「そういうわけにもいかないわ。ロロノア先生、すっかりここが気に入ったみたいで、荷物もたくさん置いてあるし・・・今までどうぞって言ってたのに、突然追い出すわけにもいかないでしょ?」 「・・・もしかして・・・先生、アイツのこと好きなの?」 パチパチッとマキノの瞳が瞬かれて、次の瞬間、マキノは「ナミさんもやっぱり女子高生なのね」なんて言いながら笑っていた。長い廊下に響いた笑い声に、ナミが顔をしかめたことに気付いたマキノが眦に浮んだ涙を拭いながらこう付け加えた。 「ごめんなさいね。ほら、ナミさんそういう話なかなかしたがらないでしょ?だから、つい・・・それに私はちゃんと付き合ってる人がいるの。ロロノア先生とは何もないのよ。」 「・・・じゃ、ロロノア先生がマキノ先生のこと好きなんじゃない?」 「さぁ・・・それは違うと思うわ。そんなことより、ナミさん・・・」 ガラッと引き戸を開けて、マキノが悪戯っぽく瞳を輝かせて言った。 「ロロノア先生、ナミさんがお話があるそうです」 (ま、ま、マキノ先生ッ・・・───!!) 口をパクパクさせたナミを尻目に、マキノはその少女の腕を引っ張って小さな部屋の中へと入って行った。 「・・・・・・話?」 ようやく採点が終わったのだろう。 大きな茶封筒に粗暴な動作で答案用紙をつっこんで、その教師は瞳をナミに向けた。 「何だ、話ってのは?」 眉をひそめてナミを見ている。 そりゃそうよね・・・と、ナミは内心呟いていた。 自分から話し掛けることなどあるわけがないのだ。 なるべく視線も合わさないようにしているし、選択科目だって生物がこの先生だからって理由で外して、代わりに物理を取っている。 たまに模試の結果や、成績表をもらう時なんかは担任だからしょうがないと諦めて、それでもなるべく何も言われないように目を逸らして受け取っている。この部屋でもろくに話したこともないし、むしろ顔を見ればナミが部屋を出て行くなんて当たり前のことで、それはこの教師だってわかっている筈なのだ。 そのナミが話がある、なんて聞かされてさぞかし怪しんでいるだろう。 そんなことを思って、口を開くことを躊躇っているナミの肩にマキノがポン、と手を置いて「ほら!」と促した。 「・・・あの。先生・・・」 ・・・なんて言ったらいいのかしら。 この人、動物とか嫌いそうだし。 なんたって生物教師だもん。 解剖とかしちゃうんじゃないの? そうよ。解剖したいから、生物教師になったのよ。 そうでなかったら、こんな目付きの悪い奴が『先生』のはず、ないもの。 「・・・先生、猫は好きですか?」 迷いに迷った末に、沈黙の後で出た言葉はこれだった。 まずは、相手の出方を探ろうと思ったのだ。 「猫?」 「・・・猫、好きですか?」 目を伏せたままナミがまた尋ねると、目付きの悪い教師が少し首を傾けて、少女の質問に答えた。 「さぁ。飼ったことは無ぇな」 「じゃ、嫌いですか?」 「嫌い・・・っつーわけでもねぇが・・・それがどうした?」 突然意味のわからない質問をされて、少し焦れたように男は袖を捲り上げられた腕を組んで、体をナミに向き直した。 いつものように鋭い眼光が少女に向けられる。 何故、この生徒がそんなことを言うのか、その意味を見定めようとしているのだろう。 だが、その視線にナミが口を尖らせ黙ってしまった途端、この生徒が萎縮しているのかと思ったのだろう。 申し訳なさそうに眉間に皺を寄せたままでゾロという教師はその緑髪の頭をポリポリと掻いていた。 そんな二人の様子を見ていたマキノがくすりと微笑みを漏らす。 「ナミさん、ちゃんとお願いしないと・・・」 ね、とマキノが顔を覗き込むもんだから、このまま黙っているわけにもいかなくなってしまった。 意を決して、ナミが鞄の中からその小さな仔猫を抱き上げて、守るように両手で抱いた。 彼女の足下に鞄がぽとんと落とされる。 「あの・・・私が学校にいる間・・・この猫をここに置いておきたいんです」 「・・・・・・」 返事に困ったような顔でマキノを見たゾロに、マキノを微笑みを返しながらナミをフォローする。 「しばらくの間だけですって。この仔猫が吐いちゃったらしくて、ナミさん心配して・・・」 「・・・ま、いいんじゃねぇか?」 しばらく考えてから、それでも案外呆気なく出された男の了承の言葉に、ナミはようやく顔を上げていた。 「本当?先生、解剖しちゃったりしない?」 「・・・解剖だと・・・!?てめぇ、どこからそういう発想に・・・───」 「だって、生物の授業で解剖したりするんでしょ?」 「・・・するか、アホ」 呆れたように言って、ゾロが思いっきり肩を落とせば、そのやり取りを聞いていたマキノが明るい声で笑った。 そうするに違いないと決め付けていたナミだけがそんな二人の反応に不思議そうに首を捻っている。 「ナミさん、それでロロノア先生に言い出せなかったの?ロロノア先生はそんな人じゃないわ・・・あれ・・・?」 笑いを抑えるようにおなかに手を当てていたマキノが一瞬のうちに顔をしかめていた。 「・・・? マキノ先生?」 「・・・あ・・・痛ッ!」 「マ、マキノ先生・・・ッ!?」 数秒前まで笑っていたマキノが途端におなかを抑えたままでしゃがみこんで、顔を歪めている。 ナミが慌てて同じように床に膝をついて、その顔を覗き込めば、痛い、と苦しげに言うマキノの顔が苦痛のために脂汗をじっとりと浮かべていた。 「ロロノア先生、マキノ先生が・・・!」 既に異変を察していたのだろう。 ゾロはマキノのデスク上に置かれていた電話をもう手にしていて、内線を押して職員室にいた他の教諭に「救急車を呼べ」と指示している。 そんな彼の姿に少しだけ安堵を覚えて、ナミはマキノの手をぎゅっと握った。 「先生、どうしたの?おなかが痛いの?今、救急車呼んでくれたみたい。」 「・・・うん・・・どうしたの、かしら・・・」 そう答えるマキノはもう息も絶え絶えになっている。 二人の足下に置かれた仔猫がニャーと力無く鳴いていた。 * * * 翌朝、ナミはやはり鞄を揺らさぬように両腕で抱きかかえたまま、講師室へと急いだ。 走ってしまえば、鞄の中にいる小さな猫に震動を与えてしまう。 また昨晩も、今朝も吐いてしまったこの仔猫を、本当は病院に連れて行くべきかもとは思ったが、それよりも今日はマキノの事が気に掛かって、学校へと来ていた。 マキノが何事もなく学校に来ているならそれでいい。 それさえ知れば、すぐにあの担任に事情を言って、授業が始まるよりも先に動物病院へと行けば良い。 もしあの担任が渋い顔をしたって、病院には行く。 そう決めて、ナミはとにかくマキノの無事を知るために少し早めに学校に来て、彼女がいるべき講師室へと向かっていた。 建て付けが悪いのだろうか。 古くなったからだろうか。 見た目よりも重いその扉を、腕にぐっと力を入れて開ければ、ガラッと壊れたような音が響く。 それすらもいつものこと。 気にも留めずにナミはその薄茶色の瞳で小さな部屋の中に黒髪の女教師の姿を探し求めていた。 だが、そこにいたのはロロノア・ゾロ、ただ一人。 しかも、ナミの気も知らずに机に突っ伏してぐーすか眠りこけている。 「先生、起きてッ!マキノ先生は?どうなったの?」 昨日、マキノが救急車に乗せられた時、ついていこうとしたナミに「家に帰れ」と言って帰したのがこの男だ。 校医が付き添っていくから、と言っていたし、お前が行ったところで何になるとも言われた。 辛辣な言葉に苛立ちを覚えたものの、それでも狼狽していたナミはついその言葉に従ってしまった。 だが、時間が経てば経つほどにマキノの苦痛に歪んだ顔が思い出されてしまって、どうしてついていかなかったのかという後悔で胸がいっぱいになった。 いつもの自分なら、そんな事言われたって救急車に乗り込んでただろうに。 そんなことを思って、ナミは布団の中、眠れない頭であのゾロという男への怒りの気持ちを膨らませた。 (アイツがあんな事、言うからよ・・・───!) もしもマキノ先生が大変なことになっていたら、許さないから、と何度も呟いた。 しかし。 ここまで来てみれば、その男は呑気な顔で寝ているではないか。 いくら声をかけても起きない。 肩を揺さぶっても、面倒そうにその手を払うだけ。 (これだから、嫌なのよ!コイツ・・・───) 大体にして、こんなふうにマイペースで。 人の気も知らないで、睨むわ寝るわ、本当にもう最低な男。 白衣だって、これ毎日ずっと着てるけど。 ・・・何でここまでヨレヨレなのっ!? 白衣じゃなくて、色衣だわ。 裾のあたりなんて、チョークの粉が色々混じって、何ともカラフル。 その上、捲り上げられてる袖の裾のあたりは何となく黒ずんでるし。 一体いつ洗ったのよ? 本当に汚いわね。 これだから、男って嫌なのよ。 「もうッ!いい加減起きてよっ!」 ゴン。 あ。しまった。 つい、いつもみたいに手が出ちゃったわ。 一応、コイツも『先生』なのに。 「・・・・・・・・・っテェ・・・」 ようやく男の声がして、むくりとその体が起き上がった。 「・・・何だ?何か頭が・・・」 「そ、そんなことよりっ!先生、マキノ先生は?昨日あれからどうなったの?知ってるんでしょっ?!」 頭をさすりながらもゆっくりと向けられた視線に戸惑うこともなく、ナミが矢継ぎ早にそう尋ねると、ゾロは少し眉をひそめて訝しんでいる。 「テメェ、今俺の頭殴っただろ・・・?」 「どうだっていいでしょ?ねぇ、先生!マキノ先生は?何でまだ来てないの?」 どうだっていいって・・・とブツブツ言いながらも、彼が救急車で運ばれていった同僚の事態を説明した。 「切迫流産だと」 説明、と言うのは語弊がある。 たった一言そう言って、また頭をさすりながら自分を殴った生徒をじとっとした目で睨んでいるだけなのだ。 だが、マキノのことで頭がいっぱいのナミはそんな視線に怯むこともなく驚きの表情を浮かべていた。 「・・・流産・・・って・・・─── えぇっ!?マキノ先生、妊娠してたのっ!?」 「本人も知らなかったらしいがな。とにかく、それでしばらくは入院だと。」 「じゃ、じゃあ・・・でも・・・」 「一応、子供は無事でしばらく入院するんだと。まぁ詳しい事は知らねぇが・・・それより、猫、早く出してやれよ」 言われてから、ようやく鞄の中で窮屈な思いをしている仔猫を思い出し、ナミは紺色の通学バッグを床に下ろすと自分もその場にしゃがみこんで優しく仔猫を抱き上げた。仔猫は体調が悪いはずなのに、ナミの手の中でその棒のような脚をバタバタと元気に動かして、懸命にナミから逃げようとしている。 「先生、この子毎日吐いてるのよ。だから、今日このまま病院に連れて行ってもいい?」 「・・・・・・はァ?」 なんとも間抜けな声で聞き返す男に、ナミが眉をひそめる。 「『はァ?』じゃないわ。ご飯あげても吐いちゃうのよ。病気かもしれないでしょ?・・・そういう事だから、一時間目は遅刻しますって言ってるの!」 「・・・お前、よく担任の前でそんな事言えるな・・・」 「担任だからいいんじゃない。」 学校を休むにしたって、その連絡事項は最終的に担任に伝えられる。 もしも今、目の前にいるのが担任教諭でなく、マキノだったとしたら後から間接的にその理由を訊いた担任教師にまた再度同じ理由を説明するという二度手間がかかってしまう。 (まぁ、コイツって仕事熱心じゃないからそんなこと気にもしないかもしれないけど・・・) それでも、直接自分の口から理由を説明できるということは有難いことには違いない。 ナミは仔猫を大切そうに抱いたまま、担任の顔を見上げた。 床に跪いている彼女が自然と、椅子に座った男に上目遣いを送る形になる。 少しだけ眉間に皺を寄せて、唇を結んだまま大きな瞳を向けられて、彼は少しだけ考えた後に首を振った。 「いや、テメェは授業に出ろ。学生は勉強するもんだ」 「勉強はちゃんとしてるわ。今日だけじゃない!ケチッ!この子がどうなってもいいのっ?」 「ケチ・・・って・・・テメェそれが教師に向かって言うセリフか!?」 「先生、この子が死んだら解剖しようとか思ってるんでしょ? もう・・・これだから油断ならないわ。 そうよね、隣には生物学教室で道具は色々揃ってるし・・・」 「アホ」 パコッと黒い出席簿でナミの頭を軽く叩いて、ゾロが呆れたように立ち上がった。 「解剖なんざこの学校来て一回もしてねぇぞ」 そうなの? してないの? あら。てっきり生物といえば解剖だと思ったんだけど・・・ 中学の時に蛙を解剖した時はちょっと面白かったわ。興味引かれちゃったのよね。 未知の世界を知ったというか・・・他の子達がきゃあきゃあ言う中、一人でメスを進めたんだっけ。 だから、生物といえば解剖のイメージが強かったんだけど。 ホントは生物って嫌いなわけじゃないのよ。 ただ、コイツの授業だから取らなかっただけで・・・ あ、でも生物を取ってる子に教科書だけは見せてもらったことがあるわ。 遺伝子とかそんな事がたくさん書いてあった気がする。 ・・・確かに、一年生の時に教わった化学でも実験なんてしなかったわね。 じゃ・・・─── 「本当にしてないの?」 すたすたとドアに向かって歩いて行く教師が怪訝な顔で振り返って言う。 「テメェは俺を嫌って俺の授業取ってねぇからそう思うのかも知んねぇけどな。 疑うなら生物取ってる奴にでも聞いてみりゃいいだろうが」 呆れたようにさらりと言われた言葉に、一瞬ナミは嫌な痛みが心臓に突き刺さるのを感じていた。 『俺を嫌って』というその言葉。 もちろん、この教師も自分がそう思っていることはわかっていた。 だが、こうやって面と向かって言われて、ナミは自分の心を見透かされていたことに気付き、顔を赤くして俯いてしまった。 「ホームルームだけは見逃してやる。 一時間目は空き時間だから、俺が病院連れてってやる。 それでいいな?」 いいな、と訊きながらもナミの返事を待つでもなく、男は部屋から出て行った。 乱暴な足音が遠ざかっていく。 (・・・そんなに悪い奴じゃないのかも・・・) そう言えば、朝は剣道部の朝練に付き合っているはずなのに、今日は何故かこの部屋にいた。 ナミがマキノを心配して来ることを察して待っていたのだろうか。 あんながさつな男にそんな気遣いができるとも思えないのだが、けれども、それ以外にあの男がここにいた理由が思いつかない。 ナミの中にあった『ロロノア・ゾロ』という教師に対する偏見は次第に薄れていく。 「・・・ツッ・・・」 あの担任の事に思いを巡らせていた少女の唇から、苦痛の声が漏れた。 ずっと手に抱かれたままの仔猫の小さな、鋭い爪が彼女の手を引っかいたのだ。 「ああ、ごめん。下ろして欲しいわよね」 そっと冷たい床の上に下ろすと、仔猫はよろよろとフラつきながらも何とか踏ん張って立ち上がり、その蒼い瞳で興味深そうに部屋の中を見渡してから、少しずつ歩き始めた。 |
Next >> Back to TOP |