100HIT踏んでくださった迦葉ゆえ様に捧げます。
I hate...


4





どこをどう走ったのか、記憶が定かではない。
けれども体はいつもの道を覚えていて、気付いた時には家にいた。

もうナミの足音を聞けば玄関まで駆けてくるほどに慣れた仔猫が、いつものように抱き上げてくれないナミの後をニャーニャーと鳴きながらついてくる。それすらも耳に入らず、ナミは自分の部屋に戻ってすぐにドア閉めた。


衝動を、抑えられなかった。


あの教師の顔が目の前に近づいて、衝動を止められなくなってしまった。

キスしたい、と思った。

キス?

ううん、キスじゃない。

方法はキスだったけれども、その奥底にあったものは、彼を気を引きたいという何とも単純明快な理由。
どことなく自分を子供として、生徒として見ている彼の中の自分の存在を、特別なものにしたいという衝動が体を突き動かしていた。

自分の髪に触れた彼の手は、あまりにも温かかった。
まるで子供を嗜めるように撫でられて、そうではないと心のどこかにいた自分が叫んだ。

そうではない。

私が望むことは『コレ』じゃない。





では、求めていたものは・・・───




(認めなければいけないの?)



微かな声で呟いて、ナミはぺたんと力無く座り込んだ。

背をつけたドアの向こうで、仔猫がカシカシと扉を引っかいている。



その震動が微かに伝わって、その音を遠くに聞きながら、ナミは瞳を閉じた。

カシカシ、カシカシ。

これは私の心を引っかく音だ。



ドアを開けて、とせがまれる。

誰が?




私が?



アイツが?





心のドアを開けて・・・───


その先にあるものを認めろって急かしている。


(・・・だって、『先生』よ)

(しかも大嫌いだった『先生』よ)

(なのに、何で?)



こんな事になったのよ・・・?


こんなの、私じゃないわ。

こんな私は知らない。

わからない。
いつから、こうなったの?

チョッパーを連れていったあの日から?
アイツがチョッパーを病院に連れていったあの日から?


それともずっと前、から・・・───


特別に嫌いで、特別に避けていた相手は、自分の中で『特別』であることに変わりはないということ。



自分を見るあの目が嫌い。

落ち着かない。
妙にそわそわしてしまう。
初めて見た時からそうだった。
男は嫌い。特にロロノア・ゾロという教師が嫌い。

(でも、一番嫌いなのは・・・)


その男の視線が向けられた時の自分が、一番───




嫌い。





*            *            *





「・・・き、ゾロの兄貴ッ!」

打突の音に入り混じって、突然自分の名を強く呼ぶ声がゾロを現実に引き戻した。
真新しい緑色の畳がじわりと裸足から冷たさを送り込んで、この剣道場の感覚は好きだ。
真夏ともなれば、この体育館は好んで足を向ける場所でもある。
落ち着くのだ。
そこにいれば余計なことを考えずに剣道に打ち込める。

昔から自分にとって、この場所はそういう場所だった筈だ。


だが、今日ばかりは幼い頃から養われたその感覚すらも忘れ去ってしまうほどに、ゾロは深く一人の少女のことだけを考えていた。

名を呼んだ生徒が困ったような顔でじっと見ている。


「・・・俺を兄貴って呼ぶなって言ってるだろ。『先生』と呼べ。『先生』と」

ナミに言う言葉と全く正反対の事を言って、ゾロが剣呑な目付きで生徒を睨めば周りにいた誰もが彼の虫の居所を察して、自分に火の粉が降りかからないようにとまた打ち込みの練習を始めた。

「はぁ・・・あの・・・そろそろ終わる準備してもいいっすか?もう7時過ぎてやすが・・・」

そう言って、ヨサクが体育館の壁にかかった大きな時計を指差した。
たしかに、窓の外には暗い空が広がっている。

忌々しげにちっと鳴らした舌は自分に対するものだ。


あの意地っ張りな少女をどうにかしてやろうなどと思ったことが間違いだった。

そうだ。ただの生徒だったはずの彼女をどうにかしてやろうなどと。

よくよく考えればすぐにわかることだった。

教え子の一人を特別な目で見ることになるのだから。


だから、これは罰だ。


あの瞬間から嫌になるほど落ち着かない、焦れたようなこの気持ちは、罰だ。

あの時から胸がざわめいて、息が苦しくなる。


罰だ。


あの少女は先にそれに気付いたのだろう。
だから、警戒を顕にした。

教師と教え子ではなく、『男と女』になることを察して、だから『駄目』だと言った。


気付かなかったのは俺だけだ。

何故気付かなかった。

アイツが次第に心を開いてきたことをバカ素直に受け止めて。
何故その裏にあるものを気付けなかった。





・・・何故、それを喜んだ・・・───?





組んだ腕の中で拳をぐっと握り締めれば、自分の力で掌に爪が食い込んでいった。


「浮かれてたかよ、俺が・・・」



ぽつりと言った言葉を、ヨサクが不思議そうに首を傾げて聞いていた。


何でもねぇ、と言ってゾロはようやく地面に張り付いていたかのように固まってしまった重い足を動かした。





*            *            *





ああ、今日も空は青い。

梅雨の後、初夏の入り口。

見上げれば大嫌いな眩しい光を携えて、高く、青い空がナミの頭上に広がっていた。

木陰に入ればほっとする。

じりじりと照りつける太陽の光はあの教師の眼差しにも似ている。

歩けば木陰は後ろに過ぎ去って、またその光に晒される。

逃げ場がない。

苦虫を噛み潰したような顔でちらりと視線を上にやれば、青い空を見上げていた男の後姿。


(もう・・・関係ないわよ)

大嫌い。

空も、あの男も、大嫌い。

どこまで行っても頭の上から私を見下ろしている。
眩しい光をそこに乗せて、それで私を射抜こうとしている。







───大嫌い




ナミがそう呟いて、自分の影に視線を落とした。

頭の後ろがじりじりと熱くなっていく。

それでも負けるもんかとばかりに、少女が下唇を噛んで俯いたままに校門をくぐろうとした時、不意に後ろから級友の声が聞こえた。

「姐さーん!!」



無視。

そうやって呼ぶなって言ってんのに。

あのバカどもときたら、何回言ってもわかんないのね。

大体、何で私が『姐さん』なのよ?

アイツらってば今年になって一緒のクラスになってからいつもそう。



「姐さんってば!」

「おはようございます!!」


もう一人もいるのね。ほんと、アイツらなんでいっつもつるんでんおかしら。

何だっていいわ、もう。無視、無視。


「なんすか。ご機嫌ななめっすね。」

「姐さんまで」



・・・何よ、その『まで』ってのは・・・

と。

いけない。つい顔を上げそうになっちゃった。

無視だってば。





だけど、こいつら同じ教室なのよね・・・───



「姐さん、昨日のリーダーの宿題やってきやしたか?」
「俺ら部活が長引いて紙一重でやれなかったんす!」


部活が長引いて。

へぇ、そう。アイツってば私があんだけ悩んだのに悠長に部活の指導に力入れてたってワケね。
見上げた『大人』だこと。
さすが私を教育してやるなんて言っただけあるわよ。

どうせ私は子供よ。

自分の胸のもやもやを、何の考えもなしに行動に移しちゃった、バカな子供よ。

昨日一晩、たかだか数秒触れた唇の感触を忘れられずに眠れなかったバカな子供よ。





ナミがぴたっと足を止めた。


「・・・姐さん?」
「どうしたんすか?あ、もしかして姐さんも宿題忘れたん・・・」

「・・・───うるさいっ!」

ひっと軽い悲鳴をあげて、ジョニーとヨサクは鞄も手離して両手で顔面をガードした。








だが、いつまで待っても予想していた拳が降ってこない。


おそるおそる開かれた二人の目に映ったのは、拳を振りかざしたままポロポロと涙を流す少女の姿だった。


「・・・あ、姐さんっ!?」
「どうしたんですかっ??」

慌てて二人が詰め寄って、ようやくナミの拳がゆっくりと降りていった。
その拳で両頬を伝う涙をごしごしと拭って、ナミは「何でもない」と呟いて、くるりと踵を返したかと思うと、途端に駆け出した。


「あ、姐さん・・・そっちは教室じゃ・・・!」
「宿題忘れたぐれぇでそんな・・・」

少々頓珍漢が言葉でも、懸命にナミを励ます声を背に受けて、それでもナミはどうしても教室まで行く気になれなかった。教室に行けば、担任のあの男の顔を見てしまうことになる。昨日の今日で、平然とした顔なんて装えるわけもない。


怒ってる?
呆れてる?

きっと、子供がいきがって・・・なんて思ってるわね。

ええそうよ。子供よ。

・・・子供よ。



本当は私だってわかってるわ。

何で、アイツにキスしたくなったか。

アイツの気持ちを自分に向けさせようなんて思っちゃったのか。




わかってるわよ。



子供だから、気付かなかった。

好きな人の話をして、きゃあきゃあ騒ぐ友達たちをバカにして。
自分はそれを知らないだけだったのに、バカにして。

何て子供じみていたんだろう。

一人の人の行動に、ハラハラして、ドキドキして、イライラして。




けど、それすらも心地良いということを、彼女達は知っていた。

それを楽しんでいた。



私は。
それすらも知らなくて。

ただ、初めてのこの衝動に突き動かされて。

自分の気持ちだけに突き動かされて。



気付けば大失態。


自分の中にある感情を上手く表現できなかった。


(本当に、子供だわ・・・───)

これで、自分をいい女だなんて言い切っていたなんてね。
アイツにバカにされてもしょうがないわよね。

あの男は、きっとわかっていたのね。




教室へと向かう学生達を追い越して、人気のない古い廊下に差し掛かった時、止めていた筈の涙がまたどんどん溢れて流れていった。

誰もいない静かな廊下に響く自分の足音に気付いて、ようやく歩を遅めようとした時に、軋む板の間に躓いて、ナミの体は前のめりに倒れていた。
膝に熱い痛みが走る。

見れば、膝小僧がすりむけて、赤い血がうっすらとにじんでいた。






「・・・ほんと、ボロいんだから・・・」


ぽろっと涙がまた一つ零れ落ちた。

それは古くなって所々黒ずんだ板の上にぽつっと落ちてじわりと広がっていく。





「・・・本当に・・・」

ぽつん。



「嫌い」

ぽつん。



「嫌いばっかり」





震える唇を健気にもきゅ、と結んで、ナミは静かにその部屋へと入って、重い扉を閉めた。





古い廊下に寂しげに残された数滴の涙は次第に床に馴染むようにして染み込んで、数分もすれば跡形もなく消え去っていた。



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