光の道 10 4日前に割られた窓は、修復に至っていない。 魔法の力は大抵自分がかけた魔法を解いて元の形に戻すか、生き物を元の形に戻して治療するかということで、こういう人口造形物は人の手で直すしかないと言って、客間で数日を過ごした。 慣れないベッドが揺れるたびにイライラして、寝付けなかった。 なのに昨夜。 あんな床で寝たのに、深く眠りに落ちた自分がいて、じゃあ今日なら慣れない客室のベッドでも寝れるんじゃないかと思ったけれど、やっぱり駄目みたい。 あんな埃っぽい毛布に包まれていただけなのに、昨夜の方がずっとずっと寝心地が良かった。 溜息落としながら体を起こすと、見慣れぬ調度品に部屋の空気がやけに静まり返っているのが何だか寂しさを増幅させる。 城内には、あのマントの男に怪我を負わされた人が多くいて、チョッパーはもちろん回復魔法が使えるからとその治療に借り出されたし、それならとウソップやロビンも自ら手伝いに行った。 じゃあ自分も手伝いに行こうとすると、サンジが「ナミさんはお疲れでしょうからゆっくり休んでください」と言って、代わりに俺がと部屋を出て行ったのだ。 そうすると、部屋に残った自分がぽつんと取り残された気がして、何となくやるせない。 書庫で見つけたあの文献をもう一度読もうとランプに火を灯して、枕元に置いてあったそれを開いた。 「・・・これよね。絶対これ。」 幼い頃には難しい古語で書かれたこの本が読めなくて、でもその絵がすごく気になって、一生懸命勉強して読めるようになったのだから、ベルメールが古の文献を口にした時、真っ先にこの書物を思い出した。 置いてある場所だって知っている。 「太古に現れた黒魔導士・・・その力、火、水、雷、氷を操って、世に災いをもたらす。この先が滲んで読めないのよね。このくだりがきっとアイツのことなのに」 なんだろう、この文字。 保存状態が悪かったのか、水に沁みて読めなくなったその部分が、とても大切な気がする。 「『天・・・・・神・・・て・・・・光・・・封・・・・・・・・我が子?・・・・・証・・・剣・・・黒・・・・・・・・絶つ』・・・かしら?こんなんじゃ全然わかんないわ。えっと・・・『守』と、『光』?『王』?・・・『でいたという。』──いたというじゃないわよ、いたというじゃ。これでどうやって読めっていうのよ、もう!」 閉じた本の表紙には、太古の国を模した絵が描かれていた。 想像上の絵なのだろうけれど、本の内容からして語り伝えられたその国の描写をことこまかに再現している。 それが、どこかで見た覚えがあって、まだ字も読めない頃にはこの国が自分の故郷なのかと思ったぐらい。 でも、読んでみれば既に滅びた国家の話だと明記されていて、大きく肩を落としたことがある。 (手がかりになると思ったのに・・・) 古びた表紙を指でなぞっても、本が返事をするわけもない。 諦めてランプの火を消すと、ナミは寝心地の悪いベッドにころんと体を横たえて、じっと言葉の意味を考えていた。 これだけじゃ手がかりとも言えない。 でも、今回の事件だって何も見えない。 (ルフィ・・・あんたなら大丈夫よね) それにしても、数日前には石を狙って、今度は剣を狙うなんてどういうことだろう。 この国を狙っている───? そうとは思えない。 もしそれが最終的な目標だとしたら、国王の命を奪うはずではないか。 そうすれば、あっという間に国は混沌に巻き込まれる。 でも、今日だってお義父さんに怪我を負わせただけでさっさと逃げようとしていたし、手にしていたのはあの剣──刀だけだった。 4日前だって、私が寝ていたから、何もせずに立ち去ろうとした。 ゾロと対峙した時のことを思えば、他にも多くの兵士や、軍人上がりの義父をいとも容易く致命傷を与えているのだから、それをする力は十分にあるはず。 (でも、それをしない───) 疑問は募るばかりで、暗闇の中瞳を開いたままに考え込んでいると、ドアが開かれた音が耳に届いた。 あの子たちの誰かが自分を心配して戻ってきたのだろうと「お疲れさま」と見もせずに言うと「何でてめェがここにいる」と不機嫌そうなあの声が返ってきた。 「・・・ゾロ?あんた何しに・・・やだ、まさか・・・」 「また変なこと考えてんじゃねェだろうな。言っとくが俺ァてめェの姉貴とやらにこの部屋が空いてるって言われて」 きょろっと廊下を見渡すと、案内した女官がささっと廊下の向こうへ逃げるように去って行った。 「ノジコってば・・・何考えてんのよ」 「さぁな。そりより俺ァどこで寝りゃいい」 「ノジコが何も言わなかった?この隣も、その隣も、全部客室なんだから好きなとこで寝ればいいじゃない」 この女の姉貴には怪我人が多くて客室が埋まっているから、この部屋で寝ろと言われたのだが。 実際、そこら中から血の匂いがプンプンしてるし、廊下を歩いてりゃそこここの部屋の扉の僅かな隙間から、呻き声や回復魔法の光が漏れていた。 「どこも空いてねェみてェだが。」 「んもう!知らないわよ。いいから早く出て行きなさい!」 「俺に命令すんな」 少しムッとした声で言うと、ゾロは後ろ手に扉を閉めてつかつかとベッドに歩み寄った。 「昨日は俺が毛布を譲ったろ。今日はてめェが譲るのが筋ってもんじゃねェか」 「どういう筋よ。そんなの聞いたこともな・・・ちょ、ちょっと!返してよ!」 シーツをめくるとナミは慌てて体を起こしてそれにしがみ付いてきた。 (これが王女サマ・・・嘘だろ、嘘。) だが、確かに来ている夜着は月光も映えてさらりと流れてはナミの体の曲線を美しく描き出している。 高級そうな布地はそれに限ったことでなく、自分が今掴んでいるシーツにしたって、やけにすべすべしていて慣れない触感が気味悪い。 振り払おうとそれを揺らすと、ナミの体も大きく揺れた。 「あんた、お酒呑んでるでしょう?」 「飲んで悪ィか」 酒の甘い香りが男からする。 それだけでなく、服も変わって、石鹸の香りも揺れた腕から仄かに匂った。 「お風呂にまで入っちゃって、どんだけくつろいでんのよ」 「てめェの姉貴が入れって言ったんだ。」 「断りなさいよ」 「てめェこそいいモン着てるじゃねェか」 シーツからナミがパッと手を離したものだから、引っ張っていた自分は反動で危うく倒れそうになった。 ナミは両手で体を庇う。 また何か変なことを考えているのだろうと内心で溜息ついてその女にシーツを大きくかぶせた。 何するの、と騒いでシーツの中でもぞもぞ動くナミを尻目に窓際に立つと、空に白んでいる。 遠くの山の片鱗は、光に際立ってもう夜明けの時分なのだと告げていた。 日付を越えてからの方が良いだろう、と月も高く昇った頃合を見計らってこの城に忍び込んだのだから、長い夜も過ぎれば短いもので朝日が昇ってもおかしくはない。 白む空に残る月は既に光を失って、ただ切り取られた紙片のようにそこにぽっかりと浮かんでいた。 どさりと窓辺の床に腰を下ろして絨毯の上で寝転がると、ようやくシーツから顔を出したナミがまた不機嫌そうに「そこで寝るつもり?」と訊いてきた。 「お姫サマってのは床じゃ寝れねェらしいからな」 何ですって、と声を荒げかけてナミはハッと息を呑んだ。 「──私のこと?」 「他に誰がいるんだ」 そうか。 聞いちゃったんだ。 お義母さんか、ノジコから。 あの黒いマントの男が気になって、そっちまで気が回らなかった。 でも、それにしちゃ─── 「何も変わらないじゃない」 「・・・何が。」 「態度も。その失礼な口の聞き方も。」 失礼で悪かったな、と呟いて、男は顔だけをナミに向けると「何でてめェに」と言って笑った。 日が昇る。 窓の向こうの山の端は、白い光に縁取られて太陽が顔を覗かせた。 ちらちら揺れる陽光は次第に強さを帯びて彼女の顔を照らし出した。 白い肌が、桜色に染まっている。 「熱でもあんのか」 「・・・・・・え?」 ぱちぱちと瞳を瞬かせた女を気遣ったと知られるのも気恥ずかしく、ゾロは「てめェの方が」と慌てて言葉を変えた。 「何考えてるわからねェ」 「それは、あんたよ」 「わかりやすいってェ言っただろ、てめェが。その口で」 「今はわかんないの」 白いシーツを被せられたベッドは窓から差し込む光を受けてその輪郭をはっきりと影の中に浮き立たせているのだから、ナミがその上で動けば、自然とゆらりと揺れた小さな動きも目の端に入って、美しい景色よりも何故だかその時は、そんな光景が目に残って焼きついた。 夜着はするりと彼女の体の上を滑って、その流れる曲線を艶めかしくも描き出す。 近付いてくるナミの、その服の裾がひらひらと揺れる様がまるで風の動きのようで、もしも風をこの目で見ることができるなら、こんな感じかとどうでもいいことを考えていると、寝転がった自分の傍らにナミが腰を下ろした。 「お願いがあるの」 あぁ。そういやこの女、もう一つお願いするかもしれねェと散々仄めかしてやがった。 じゃあ、今、それを言うということは、この女の目に俺は少なからず悪く映らなかったのだろう。 何故だ。 急に心が軽くなった。 「今日のあの男、前にルビーを奪って東の方角へ向けて飛び去ったわ」 「東──?こっから先は海しかねェんじゃねェのか」 「草原には遊牧民族が暮らしてるけど、彼らが今年どの辺りで暮らしているかはわからない。草原を越えれば確かに海よ。小島がたくさんあるから、アイツはそこにアジトを構えているのかも」 「あの野郎ならもう倒したじゃねェか」 「バカね、あれは魔法で操ってただけ。実体じゃないの。それに、もし本物だとしたらあんなに簡単に倒せるわけがないわ」 「そりゃどういう意味だ」 ゾロは、彼の力を認められなかったと聞いてしまったのだろう。 思いっきり顔を顰めて不機嫌を示すと体を起こして私の顔をじっと見た。 次の言葉次第ではケンカ腰になってやろうと思っているみたい。 「でも、いくら私にだってわかることとわかんないことがあるのよね」 「・・・つまり。てめェにわかってるのは俺の力じゃその実体ってのが倒せねェってことか」 「あんただからじゃないわ。現にあんたは魔法が効かなかった相手を斬ったんだから。実体はね、違うのよ。何となくそう思うの。私じゃなきゃいけないような気がする」 「大した自信だぜ」 ナミは至極冷静な顔で首を静かに振った。 「自信とかそういうのじゃない。だってこれが痛くなるから。」 そっと左肩からその二の腕にかけて指でなぞると、ナミはもう一度「だから私が行かなきゃいけないのよ」と言った。 だって、あの時に感じた痛みはまるで何か、叫びのようだった。 あの男を見た時にこの刺青から熱のようなものが全身に広がって、私の中に眠っていた何かが、私がそいつを倒さなければならない運命にあると教えてくれたみたいだった。 確信じゃない。 でも、きっと、間違ってはいない。 「こんな曖昧なことで先を決めちゃいけない?」 「誰がそんなこと言ったんだよ」 言うと、ゾロは傍らに寝かせた刀をじっと見ていた。 気付けば太陽はその姿をすべて山の上に覗かせて、白んでいた空は青く澄んでいた。 息を深く吸うと、開かれてもいない窓の向こうからつんと湿った空気が体を包んでいる。 肌につめたいのに、でもなんだか清々しい。 「私、ルビーを・・・ルフィを、取り返しに行くわ。私が行くの。ゾロ、あんたも」 「来る?」 間を置いて、次に聞かされた言葉はえらく簡潔で、しかもナミの声だって軽いにもほどがある。 まるでちょっとそこまでと誘っているのと何ら変わりないその言葉を聞いて、一瞬返す言葉を見失うと、ナミがふと、俺の顔を見て笑った。 「口がへの字」 細っこい指は触れるか触れぬかわからないほどに優しく唇の端をつついた。 「あんたが来たいなら連れてってあげてもいいって言ってんのよ。」 「──報酬は」 「私」 冗談めいた言葉に女は笑顔を見せて自分を指差した。 「こんなに可愛い子と旅できるのよ。嬉しいでしょ?」 「・・・まァ、そんなとこか」 「何?何か言った?」 「いや。」 ふぁ、と欠伸を一つしてゾロは絨毯の上に寝転がると「俺もそいつに用がある」と言った。 あの男、操られていたとは言っていたが王妃によれば言葉はどこか遠くにいる実体が話しているはずだということだった。 では、刀のことを知っていたそいつはもしかしたら3本目の刀のことも知っているかもしれない。 「ついてってやる。」 「用があるなら、報酬なんて関係ないじゃない。」 「それとこれとは別だ。てめェみたいなのと一緒にいたらこっちの手間が増える」 「そんなことないわよ。方向音痴のあんたの方が足手まといにならないように気をつけなさい」 旅に出たことがねェくせに、どこまでも生意気な女はそう言ってベッドへと戻っていった。 (別に、私とあの子たちだけでいいのよ) 言い聞かせてシーツを被る。 (こいつに頼らなくても、皆がいれば大丈夫) あれで案外頼りになる仲間なのだから。 ううん、彼らのほかに誰か連れていくっていうのも癪なのよ。 でもそれじゃお義父さんが心配して、話は平行線を辿るだけ。 私がここを飛び出たら、それこそ軍隊を引き連れて私の後を追ってきちゃうだろうし、何よりお義父さんのその心配はすごくわかるから。 あの広い草原で、赤ん坊の微かな泣き声を聞きつけて、それで私を見つけてくれた。 すぐに王宮で、第二王女として育てられることになった私をずっとずっと見守ってくれた。 落ち込んだ時は傍らではらはらして、私の存在を非難する人を剣をかざして追いかけちゃったこともある。 心配させたくないの。 このお城は私には似合わない。 ここは私のおうちじゃない。 でも、そんなお義父さんと私を自分の子供のように育ててくれたお義母さんと、私を一番理解してくれたノジコと、皆がいる場所だから。 幼い頃から、自分の本当の故郷を知りたいと思う気持ちは捨てられなくて、いつも窓に立って町の門から続く草原の中の道の先、その彼方向こうを見ていた。いつか、私はあの道の向こうに必ず行くのだと。 ここに居る自分は、本当の自分ではなくって、皆に守られているだけの自分が悲しくって、でも自分で大好きな家族を振り切る勇気もなくって、毎日その道を見ていた。 ウソップの予言は、ウソップ自身だって感じ取ったことを言葉にするだけで本人も意味がわかっていない。 私がずっと待っていた人。 皆はそれを、私たちと一緒にルフィを取り返す旅に出る人だと思っている。 だってウソップとチョッパーと、あのサンジくんにしたってどうやったら自分たちがいなくなった仲間を取り返す旅に出れるかって話し合っていて、彼らだって本当は自分たちだけで大切な仲間を助けに行きたいのに、でも、結局ロビンが誰か一人、力の立つ人間を見つければいいと言ったから、私が【その人】を待っているのだと思っている。 本当はね、違うの。 それは、きっと私をここから連れ出してくれる人。 誰かが、私をここから連れてってくれるんじゃないかなんて思っていたのだけど、そんなの自分が弱いって言ってるみたいで、思うたびに懸命に打ち消した。 ウソップの予言を聞いた瞬間に、その思いが不意に蘇った。 ゾロ。 あんたがそうみたい。 こんな事になって、私は結局あの子たちに頼って、あんたも連れて行こうとしていて、なんて弱い。 それでもね、今は自分に嘘を吐く気分じゃないの。 私は弱いのよ。 どうしたって、弱いの。 だけど、あの子たちがいるから強くなれるの。 挫けそうになる心をしっかりと奮い立たせられるの。 私をここから連れ出してくれる人が、今ここに居るこの男かもしれないって思うと、嬉しくなるのよ。 私はとっても弱い。 だけど、弱いから頑張れるんだわ。 「否定する必要があったのかしら」 「話かけんな。俺ァ眠いんだ」 「独り言よ。勝手に聞いたらお金もらうから」 「・・てめェのそういう理屈は一体どっから───」 「連れて行くのはね、あんただからってわけじゃないかもしれないの。悪いわね。でも、あんたが来てくれて良かったわ」 ベッドの上でくるっと振り向いた女は、眠気など感じようもないほどに大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。 「私が怪我しないように、ちゃんと守るのよ」 「知るか。てめェのことぐらいてめェで何とかしろ」 「あんたって、モテないでしょ?」 「・・・・・・・独り言に答える義理はねェ」 ゾロはしかめっ面のまま瞳を閉じて、私の言葉を聞くまいとしている。 どうせ寝るならソファだってあるのに。 ベッドから一番遠い窓際で、朝の光に邪魔されながら眠ろうとしてる。 (一応、気を遣ってんのかしら) すっごく分かり辛いのだけど、でもこれがゾロなりの優しさなのだろう。 そうと知って心が少し温かくなった。 「それから、あんたで良かったわ」 彼の唇が、少しへの字に曲がった気がした。 |
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