恋 唄 4 人に気を許してはいけないよ、と教えられて育った。 人は自分以外の存在を認めないから。 人は羨む生き物だから。 長く生きていれば父のその言葉は真実だったのだろうと思うこともあるし、けれども好奇心を抑えきれずに人に身をやつして、言葉を掛けてみれば大抵の人間は笑顔を返してくれる時などは、父は極端なことを言って自分を怖がらせようとしたのかと思ってしまうこともある。 そんな考えの自分は一族の厄介者で、故郷から追われ、暫しの時を他国で過ごし、どうしても父や兄達を忘れられずに悔い改めて戻ってみれば、一族は既にいなかった。 そこで待っていれば帰ってくるかとも思ったが、いくら時を経ても彼らは姿を現すことはない。 諦めかけたその時にひょっこりと顔を見せたのが多くの兄の中で一番自分に年近かったゾロという兄だ。 彼は放浪癖というよりも道に迷いやすくて、自分が追われる直前も父や兄がしきりに「またか」と言っては呆れたように溜息をついていた。 兄は、涸れることのない私の涙を見て『この辺りに人が増えたからだろ』と励ますように言った。 『空気も悪くなった。どこかへ養生しに行ったかもしれねェじゃねェか』 では、どこへ行ったのか後を追おうとしても彼らの痕跡はどこにも残されていない。 人里へ下りることはどうしても憚られて、拘泥は消えずついに兄にそれを頼むと彼は少しだけ眉を顰めた後に渋々と頷いた。 それから幾年月が経っただろう。 一番近い人家まで兄の足ならそう遠くもない筈なのに、兄はいつまで待っても帰らない。 もしやこれは本格的にどこかで迷っているのか、それともここに帰れぬ事情があるのかと不安が頂点に達した時に、現れたのがあの黒い姿をしたあの異形の妖怪だった。 棲家にしていた洞穴から必死の態で逃げて、父に教わったこの山の神を祀る祠のすぐ側に、あの妖怪に喰われて命を落とした猟師の小屋を見つけてそこを塒にしていれば、彼の者は襲ってこない。 終日私を見張ってはいるようだけれど、きっと神様は信仰深い私たちの一族を忘れていなかったのだろう。 その日も産土神に、天地の、八百万の神々に深く感謝の祈りを捧げていつものように家へと戻ると、明るい髪を束ねた人間の女が家の前に立っていた。 『あら。珍しいわね。こんなところであんたみたいなのに会えるとは思ってなかったわ』 人の姿をしていない自分に気付いて、物陰に身を潜めようとすると、笑い声が背を追ってきた。 『大丈夫よ、誰もあんたを傷つけようなんて思ってないわ。私の言葉も通じてるんでしょ。何もしないから出てきなさい。しばらくの間泊めて欲しいのよ。知り合いが化け物に食べられそうになっちゃったのよね。一応結界は張ったけど・・・ねェ、あんたの背中に乗せてここまで運んでくれない?』 『・・・・・・』 『警戒しないで。人型にはなれる?ほら』 差し伸べた手からは、白檀の甘い香りが漂ってきた。 じっと彼女を見ていると、困ったように笑ってからその女性は臆すこともなく私の首に抱きついて『わァ、ふかふか』と喜びの声で笑う。 急に、今まで一人だった自分を思い出して胸が苦しくなって、我慢していた涙がぽろぽろこぼれていた。 『え?な、何?私何も・・・』 慌てふためく女は宥めるように私の頭を何度も何度も撫でて『怖がらないで』と繰り返す。 その優しさがまた嬉しくて、胸に沁みて、涙はとめどなく溢れ落ちた。 ******** 「アイツは泣き虫だからな、昔っから」 「やっぱりあんた達の一族ってもう・・・?」 「・・・俺が知るか。まァ十中八九人間にやられたんだろ。てめェら自分の生活さえ良きゃいいと思ってっからな。こんな街道山ん中に作られちゃ昔っからここに住んでる俺らにはいい迷惑だ」 「そう・・・ごめんね」 その項をそっと撫でてナミが心底申し訳なさそうに呟いた。 振り返ったゾロが「てめェの責任じゃねェ」と言うと、頭を振る。 「・・・いやに素直じゃねェか」 「悪い?ちょっとは可哀想と思ってやってんのよ、これでも」 「・・・・・・そう思うなら今夜返してもらいてェもんだな。どうせこき使うつもりで俺を探しに来たんだろ」 「こき使うんじゃないわ。あんたじゃなきゃ駄目なのよ。ビビにはさせられないから」 へっと鼻で笑って、大きな体躯は風を唸らせ駆けていった。 ******** 家から走り出て暫し、ようやく梢の合間で歩みを止めてビビは肩でしていた息を静めようと胸に手を置いて大きな息を吐いた。 走ったせいか、鼓動がなかなかおさまらない。 (違うわ・・・走ったせいじゃなくって・・・) それは、あの人のせいだということはわかっている。 彼が引き寄せたあの腕が、あまりにも逞しくて。 本気を出したら私の方が力が強いのは当然なのに、どうしてか咄嗟に抗うことが出来なかった。 あんなにも優しく触れられて、けれども私の正体がばれてしまったのかと身を強張らせれば、大丈夫と言わんばかりにゆっくりと自分を、その胸に抱き寄せた。 「・・・熱いわ・・・」 頬に手を添えて、誰に言うでもなく呟けば声は風に乗って儚く消えていく。 唇を重ね合わせるということが、何か彼との間に深い関係を結んでしまうような気がして、ようやく我に返って拒むと彼があまりに悔いていたものだから、居た堪れなくなってしまった。 「何だったのかしら・・・?」 彼の顔を思い出すと、ずきんと胸が痛む。 この気持ちは何だろうと自問するけれども答えは出ない。 「コーザ・・・」 小さく名を呼んで、ビビは一つ、溜息を漏らして手をついていた木に持たれかかった。 (いけない・・・遠くに来過ぎたかしら・・・) 見慣れぬ景色にぼんやりとそんなことを思って、瞳だけで辺りを見渡す。 あの妖怪の姿も気配もないことに少し安堵した。 (戻らなきゃ・・・) でも、家に戻ったらコーザがいる。 どんな顔をして会えばいいんだろう。 人はこんな時、どんな顔をするんだろう? そういえば、私・・・どんな顔をして家を出てきたの? あぁ、ナミさんがいたら相談できるのに。 お兄様の気配を近くに感じるからすぐ戻るって言ったのに、昨夜はとうとう帰らなかった。 私もついていった方が良かったのかしら。 それならきっと昨日の内には戻れたわ。 ・・・でも、コーザを置いていくわけにはいかなかったんだもの。 あんなに苦しんでたコーザを置いてはいけなかった。 彼がせめて目を覚ますまではと。 だって、何度も言うの。 熱に浮かされて、何度も何度も呟くの。 何度も。 手を差し伸べては、誰か、と呼ぶ。 誰を呼んでいるのだろうとナミさんに訊いてみれば、彼は過去に色々あって考えすぎるくせに頭が固いのが玉に傷なんて揶揄していたけれど、その後でナミさんは「もっと広い目で見りゃ幸運とも言えないこともないのに、バカよね。救いを求めるぐらいなら自分でどうにかすればいいのよ」と呆れたように呟いた。 誰か。 その後に続く言葉は、何だろう。 苦悶の表情を見ている内に続きが気になって、気になって堪らなくなったけど、ようやく目を覚ました彼はそんな自分もすっかり忘れて大人びた笑顔ばかりを自分に向ける。 「人って・・・よく、わからないわ」 戸惑いの言葉を漏らして、ビビは足元の小石をこつんと蹴った。 ころころと草土の上を転がっていったそれを、目で追っていると、それは人の爪先に当たって止まる。 足音すらも気付かなかった。 顔を上げれば、コーザが立っていて、その眼は自分をじぃっと見据えていた。 「コー・・・ど、どうしてここに・・・?」 「・・・・・・ビビ」 「あ、あのね、さっきのことは・・・その・・・ごめんなさい。私驚いたの。あんなの初めてで・・・私・・・あの、コーザが嫌いとかじゃないのよ。ただ、その・・・」 「ビビ」 「ご、ごめんなさいっ!」 自分を見つめる視線に耐え切れなくなって、瞳を固く閉じると、彼の手が肩に置かれた。 おさまりかけていた鼓動がまた早くなっていく。 「コーザ・・・?」 おそるおそる瞳を開くと、そこには眼前に迫った彼の顔があった。 (さっきの・・・ 続き、なんだろうか? 唇を重ねて、そうしたら何があるの? この鼓動がおさまるの? 「コーザ」 ビビ、とまた名を呼ばれた時、ビビは優しく瞳を閉じた。 ******** 俺を呼んだ声がした。 そう思ってコーザはいつしか閉じていた眼を開けると、がばりと身体を起こして周囲に目をやった。 「ビビか・・・?」 さわりと辺りの林から、木の葉の音だけが返ってくる。 その静けさに胸騒ぎを覚えて、素早く錫杖を手に外へと飛び出した。 「ビビ・・・ッ!どこにいる!?」 声を荒げて名を呼べど、己のこだまばかりが返ってきた。 嫌な空気だ。 ねっとりと身体に纏わりつく空気だ。 この気配には覚えがある。 あの化け物め、非力な女が一人になるのを待っていやがった。 「くそっ・・・畜生が・・・!」 ガチッと黒の棒で木の幹を叩くなりコーザは闇雲に走り出した。 ばさりと舞い落ちてきた木の葉が幾重も重なって視界を遮る。 手で払うこともせずに走り出せば、風がザァと耳元で鳴った。 物の怪の気配濃厚な方向目指し、今は只それだけを目標にするしかない。 緑に囲まれたこの山中がいやに鬱蒼と暗く見えるのは己の不安をかき消すことができぬからに過ぎない。 嫌な汗が背筋を伝って流れていった。 (無理にでも引きとめりゃ良かった・・・!) そうだ、彼女が家を飛び出そうとした時、外で一人いるのは危ないと。 冷静に判断すればすぐにでもわかろうことだと言うのに、己は戸惑いを隠せず、自ら行動を起こすこともできず、彼女の背を見つめるばかりだったではないか。 不安が強くなればそれだけ後悔は深くなる。 ビビの身に何かが起こっている。 迫るあの物の怪の気配に確信すら持ってコーザはひたすらに走った。 それが目前に迫った時、彼の裾は泥にまみれあちこちの枝にひっかけた服はところどころ擦り切れていた。 額から流れる汗を拭うことすらせず、茶色の髪は乱れてその汗に張り付いていた。 肩を荒く動かしながらそれを確認するなりゆらりと動き出した彼の瞳に怒りの色濃く、眉間に深い皺が刻まれていた。 「・・・・何が、あった・・・」 辺りに血が飛び散って、緑の葉も黒い土も赤く濡れていた。 「・・・・・・ビビッ!!」 血を流して倒れていた少女の傍らに跪き、細い肩を揺さぶると、瞳がうっすらと開いていく。 ぼんやりと歪む視界に映った彼に、ビビは確かめるように「コーザなの?」と問いかけた。 「あァ、何があった?この傷は・・・ヤツにやられたのか?」 「・・・・良かった、コーザ。本物のコーザだわ。」 「おい、ビビ・・・」 言ったっきりまた瞳を閉じてしまった彼女を抱きかかえると、その胸からは真っ赤な血が、どくどくと流れ出て薄紫の着物が黒く染まっていた。 腰に巻かれた袴の帯で留めるように錫杖を背に射すと、コーザは血の気の引いた彼女の顔に憤怒の色消すことなく、しかしまずは彼女の手当てが先だと思い至って容易く手折れそうなほどの彼女の身体を抱えたまま今来た道をまた走り出した。 腹がいやに熱いのは、おそらく自分の傷も開いてしまったのだろう。 だがそんなことはどうでも良い。 どうでも良いのだ。 この腕に抱えた少女を、どうにかして助けなければならぬ。 そればかりが頭に在って、己の痛みなどはついぞ感じなかった。 ビビは一層血色を失い、頼りない呼吸がコーザの胸を締め付けた。 見慣れた庵にようやく着いて、さっきまで自分が寝ていた床に彼女を横たえた。 薬草を、いや、自分を手当てしてくれた時の薬があるだろう。 それはどこかと部屋を見渡していると、弱々しくも自分の服の裾を引っ張って、ビビが言う。 「・・・大丈夫よ。コーザ。」 「大丈夫なわけがあるかっ!おい、薬はどこにある。」 「大丈夫なの。私は・・・」 だって、あなたとは違うから 言った筈の言葉は、彼の耳に届くことなく少女はそれきり瞳を閉じて苦しげに喉の奥で何かを呻くばかりだった。 深い、暗闇に吸い取られていくような感がそこには在った。 遠くからはあの法師の声が聞こえてくる。 あぁ・・・でも大丈夫よ。 私たちはこうやって傷を癒す。 経験はない。 でもこの体に流れる血が教えてくれるから。 眠りなさい、と。 眠ればきっと良くなるから、と。 百年も眠れば目が覚めるでしょう。 その時あなたはもういないのね、コーザ。 あなたは人間だから。 私よりずっと早くに死んでしまう、人間だから。 あの続きだけが気になるわ。 私がもし、あの時あなたのなすがままにしていたら、私はもしかしたら・・・ 眠いわ。 コーザ、心配してくれてありがとう。 人間ってとても不思議ね。 次に目が覚めた時、あなたがいないことが少しだけ寂しい。 だって、聞きたいことがたくさんあるの。 あったの。 短い命の間にあなたが何を経験して、何を考えて、生きてきたのか。 私がもし人間なら、あなたが何に苦しんでいるかもわかったのかしら。 人間って、不思議ね。 |
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