一時間も早く家を出てみなさいよ、凍死するような気分になっちゃうわ。 そんなことを友達に言ったら、思いっきり笑われた。 ───じゃあ、そんなに早い時間に来なきゃいいじゃない。用もないのに。 うん、その通りなのよね。 でもね。 ちょっとね、興味深いものを発見しちゃったのよ。 え?ううん、それは秘密。 まだ誰にも言えないの。 LOVE, the days ナミ 「何よ、ナミ。あんた随分早起きじゃない」 そのくるんとウェーブがかった髪を寝癖ではねさせたノジコは未だ瞼をとろんと半分閉じたまま、一つ大きな欠伸をした。声をかけられた少女は、パチンと制服のリボンを襟元に止め、鞄を手に取った。 「図書室に昨日新しい本がたくさん入ったの。 その整理をしなきゃいけないのよ。 ああ、もう・・・何で、図書委員なんかになっちゃったのかしら。 本を寄贈したとか言う大富豪の気紛れのせいで よりにもよってこの冬によ?こんな朝早く、出かけなきゃいけないなんて・・・」 よほどの鬱憤が溜まっているのか、妹は得意の早口で一気にまくしたてて、腕時計を見ながら「じゃあ行ってくるわ」とパタパタと走って行った。 「図書委員ね・・・あんたには、ぴったりだと思うけどねぇ」 読書好きな妹のこと、どうせあんな事を言いながら、新しい本を読める期待感を持っているに違いない。 (ほんと、素直じゃないんだから) コーヒーを入れながらノジコは知らず、苦笑していた。 ───あぁ、もう面倒くさいったら。 同じ言葉を何度もブツブツと呟いて、ナミはぶるっと一つ身震いした。 そもそも、冬なんて好きじゃない。 寒いわ、行事が多くて出費がかさなるわ、自慢の玉のような肌も、ちゃんとお手入れしなきゃカサカサになるわ。 冬に入ったばかりの12月だと言うのに、ナミの心は冷たい風に吹かれるたびに沈んでいった。 もうこうなったら、腹いせに今日届くという本を読破してやろうかしら。 50冊ほど、寄贈されると言ってたわ。 よし、決めた。今年の冬はそいつらをやっつけてやるわ! ナミはどちらかというと、可愛い。 いや、どちらかというまでもなく、可愛い。 本を読む姿はまるで淑女のようだし、ノートを開いて真面目に黒板を写す姿は知的美人。 笑えば一輪の花のように可憐で、まさに立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。 だが、あくまでもそれは『黙っていれば』の話。 口を開けば出るわ出るわの悪口雑言。 読書によって蓄積していく彼女のボキャブラリーは、まるでそれを惜しみなく披露するかの如く、その柔らかな唇から洪水のように溢れては、相手を言い負かしていく。 その上、さっぱりとした本来の気質も入り混じって、ナミの歯に衣着せぬ物言いは、ナミの容姿に惹かれて寄ってくる男どもをすべからく、退けていたのだ。 もちろん、そんなナミに彼氏はいない。 よって、クリスマスも、お正月も、バレンタインも、年末年始にぎっしり詰まった行事はナミの目にはただ面倒なものというものにしか映らないのだ。 言うなれば、彼女の恋人は『本』 ナミは新しい男・・・いや、本たちに会える期待感で、寒さへの不快感をかき消していった。 丘の上のナミの家から、急勾配の緩やかなカーブを描く坂道を降りればバス停がある。 3人ほどが座れる長椅子と、それを覆うような茶色の透明の屋根と、それと同じく茶色のプラスチックの風除けをつけたバス停。 いつもの時間なら、通勤するサラリーマンや通学する学生が行列を作っている筈のバス停に、この朝6時の一番早い時間ともなると、さすがに人の姿はなかった。 無人のバス停を見れば、本当にバスは来るのかという不安が途端に胸に湧き上がって、ナミは少し駆け足でバス停に走りよって、時刻表を確認した。 (・・・そうよね。ちゃんと家を出る前に確認したんだから、来るに決まってるわ) 時刻表に書かれた数字に安堵したかのように、ほっと一息ついて、その時刻表に瞳を向けたまま、もしかして朝座れるのは初めてじゃないだろうか─いつもは行列の最初の三人しか座れないそのベンチにナミの腰は下ろされた。 むぎゅ。 「・・・・・・っ!?」 冷たく固いベンチとは違う触感。 慌ててナミは立ち上がって、自分のお尻に当たったそれを確かめようとそこへ視線を落とした。 (・・・誰、これ・・・) そこには一人の男が寝ていた。 そう、寝ていた。 ナミが思いっきりその顔に体重を落としたというのに。 瞳を開くこともなく、気持ち良さそうに眠っているのだ。 その大きな瞳を瞬かせて、男の顔を覗き込む。 緑の髪。左耳の三連ピアスは金に輝いて、ナミと同じ高校の制服は、ネクタイもシャツも緩められている。 (こんな奴、うちの高校にいたかしら?) 同じバス停を使っているのだから、もしかしたら中学も同じだったかもしれない。 けれども、いくら記憶を搾り出そうとしても、ナミの頭にそれらしい人物は浮んでこなかった。 それにしても、この男。 まだ寝ている。 片手を男の顔から数cmほどまで近づけて、左右に振ってみる。 起きない。 本当に寝ているようだ。 (変な奴・・・───) ナミが口の中で呟いた時、バスの姿が見えた。 乗客をほとんど乗せていないバスは、他に車も走っていない住宅街の合間にあるそのポプラ並木を、その重い体で茶色の枯れ葉を踏み分けてバス停へと着いた。 プシュッと排気音が聞こえても、男はまだ起きない。 ビーッと音が鳴って扉がガタンと開いても、それでも男はまだ起きない。 (起こした方がいいかしら?) そう思った時、マイクを通した運転手の声が静かな住宅街の朝の空気を破るかのように響いた。 『お客さーん!起きてくださいよー』 パチッ (あ、起きた) 男は、むくっと体を起こして頭をボリボリと掻くとすぐに足下にあった大きなスポーツバッグを肩にかけてバスに乗り込んだ。 綺麗な翡翠色の瞳を一瞬、ナミへと向けてから。 その瞳の色の鮮やかさにナミの胸がきゅっと締め付けられたことをナミは瞬時に悟っていた。 何て深い緑。 何て美しい緑。 あんな瞳は見たことない。 目と目が合った瞬間に高鳴った胸は、その日一日中、ナミが男を忘れることを許さなかった。 ++++++++++++++++++ 「図書委員の仕事って、一日じゃなかったの?」 ノジコが今朝もまた暗い内から起きて、さっさと学校へと出かけようとするナミに声を掛けた。 「う〜ん、まぁそこそこね」 「・・・・・・?」 いつもならば、一つ聞けば十の答えを返す妹があまりにも短く答える。 その上、そこそこ、とはこれまたどういう意味だろうかと、ノジコが首を傾げた時、ナミはもう玄関のドアを開けて、軽い足取りで朝もやの中を走って行った。 あれから一週間。 ナミは毎日朝一番のバスに乗る。 いつものように赤くなった膝小僧も気にもせずに坂を駆け下りていけば、今日もあの男は寝ていた。 白い吐息が朝の冷たい空気に溶けていって、少し深呼吸をした後に彼女はそっと男を覗き込んだ。 ツン、とその頬をつついてみる。 (やっぱり、起きないのよね・・・) もしやと思った3日目に、彼に初めて触れてみた。 こんなに寒いのに、男の肌は冬を思わせぬ暖かさで、ナミの心臓は早鐘のように鳴った。 初めは額を、その細く白い指でちょんっと弾いた。 彼は起きない。 その日から、ナミの好奇心がムクムクと膨らんでいったのだ。 髪を摘んで、軽く引っ張ってみる。 頬を摘んで、軽く抓ってみる。 鼻を摘んで、軽く揺すってみる。 最後にはついつい我慢できなくて、クスクス笑みを漏らしてしまう。 それでも、彼はバスが来て、運転手の声がするまで決して瞳を開けないのだ。 そして今日で一週間。 ナミは今日こそ、という気持ちを胸に坂を駆け下りた。 今日こそ、彼に声を掛けてみよう。 彼の頬の上で止まっていた指をそっと制服の肩あたりまで下ろしてみる。 この手を肩に置いて、揺すって、声を掛けたら・・・さしものこの男でも起きるんじゃないかしら? その宝石のような翡翠色の瞳を、ナミに向けてくれるだろう。 その瞬間を味わいたいという衝動がナミを動かしている。 だが、あとほんの僅か、というところでその細い指は動きを止めていた。 (起こして・・・起こしたら、何を言えばいいの?) 突如として、そんな疑問が今更ながらにナミの頭に浮んだ。 (『おはよう』・・・なんか違うわね) (『はじめまして』・・・毎朝、バス停で会ってるじゃない) (『起きて』・・・一体何のために、って怒りそう・・・) 駄目だ。かけるべき言葉が何も見つからない。 饒舌なことがナミの短所でもあり、そして最大の長所だと言うのに、彼女の頭の中の辞書をいくら懸命に調べても、今、この男にかけるために適切な言葉が何一つ見つからないのだ。 そうこうしている内に、バスがやってきた。 (・・・明日に持ち越しだわ) ふわ、と欠伸をしながらバスに乗り、一番後ろの席で腕組みして眠ってしまった男を見て、ナミは一つ溜息をついてからいつものようにまるで避けるように彼とは正反対に一番前の席に座って、今朝突き当たった言葉の壁を乗り越えようと思いを巡らせていた。 けれども、やはり言葉は思いつかない。 彼の性格も趣味も、ましてや名前も知らない自分に一体どんな言葉を用意することができるのだろう。 彼の瞳を自分だけに向けるために、見つづけてもらうために、一体何を話し掛ければ、彼の気を引くことができるのか。 そんな事を考えていると、次第に思考は彼への言葉ではなく、彼が一体どんな人物かということに向かって走り出していた。 彼は・・・おそらく、あんなに大きなスポーツバッグを持っているのだから、運動部だろうと思う。 こんなに寒いというのに、ろくにボタンを止められていないシャツのはだけた胸元からは、ちらりと逞しい筋肉が見えた。何部だろう。 ああ、運動部ということは、女の子のマネージャーがいたりもするのよね。 もしかして、マネージャーと付き合ってたりとか・・・? そうよね。見た目はまぁ格好いいと思うし・・・彼女がいて当然だわ。 まぁ私より可愛い子なんてそういないとは思うけどね? ・・・違うわよ。何考えてるの、私は。 別に彼に彼女がいたところで、その子と私を比べてどうするの? 興味があるだけよ。 彼女になりたいとか、そういうワケじゃないんだから。 あの全然起きない彼が、一体どういう人なのか。普段何しているのか。彼女にどんな甘い言葉を囁いているのか、ちょっと興味があるだけ。 あの人の彼女って大変そうね。 デートの時もあんな調子で寝てるのかしらね。 私だったら、怒っちゃうだろうな。 でも、いつもあんなに幸せそうに寝ているから・・・起こしたくなくなっちゃうかもね。 彼のあの胸に抱かれて寝たら気持ち良さそうだし・・・ って、違うんだってば。 興味があるだけよ。 それ以外に・・・何の感情も持ってないんだから。 ふるふるっとオレンジの髪を揺らして、ナミは自分を落ち着かせようといつものように鞄から本を取り出した。高校まで30分。バスの中では本を読むのがナミの日課となっている。 (・・・内容が頭に入らないわ・・・) 彼と、いるかどうかもわからない彼女の影が頭にちらついて、活字がまるで異世界の言葉のように見えてしまう。何となく火照ってしまった頬に手を当てて、パタンと閉じられた本をまた鞄の中にしまいこんだその時、新たに乗ってきた乗客の中の一人がナミの名を呼んだ。 「ナミすゎ〜ん♪おはようございます♪♪♪」 バスの中にいた人たちの視線は、途端にその金髪の男に集められていく。 「サンジくん。早いわね」 いそいそとナミの隣まで来て、その長い腕を吊革にかけた男に、ナミが笑顔を見せた。 このサンジという男はクラスメートだ。 気の強いナミを物ともせずに、アタックしつづけてきたのだが、最近後輩のビビという彼女ができてナミとはいい友達という関係が成り立っていた。 ただ、何となく。 今は一番会いたくない男でもある。 「ナミさんが最近このバスに乗ってるって聞きまして♪朝からその麗しい顔を見れるなんてなんつー幸せ♪♪♪俺って果報者だなぁ」 「ちょ、ちょっと・・・!そんなこと大声で言わないでよ。勘違いされちゃうでしょ!?」 「勘違い・・・?」 サンジが不思議そうな顔をした。 いつもなら軽くあしらうこの少女らしからぬ言動だ。 次の瞬間、サンジが突然きょろきょろっとバスの中を見渡した。 「どうしたの?」 「・・・いや、ビビちゃんに聞いたんですけど、最近ナミさんがいくら話し掛けても上の空だって・・・」 ビビは、ナミと同じ図書委員だ。 何故かナミに懐いていて、教室にもよく来ていたからサンジとも付き合うようになった。 その彼女からサンジがナミの様子を聞いていたところで、別段不思議なことでも何でもない。 「もしかしたら、好きな奴でもいるんですか?」 サンジの瞳がきらんと怪しく輝く。 「わざわざ一時間以上早いこのバスに乗ってるってことは、この中にその相手がいるんでしょ?」 小声で耳打ちしたサンジの言葉は、ナミの顔を赤く染め上げるのに十分だった。 「いっ、いないわよ!変な事言わないでよね。私はただ本を読むために早く来てるだけで・・・」 「へぇ・・・俺の勘が外れちゃいましたか?いや、ビビちゃんがそんな事言ってたから、ナミさんの心を奪ったにっくき男の顔を拝めると思って、今日は早起きしたんですけどね」 「・・・呆れた。そんなことのために?」 「そりゃあ!」 サンジがドンと胸を叩いて、大声でバスの中に響き渡るような声で誇らしげに言った。 「俺ァ、貴方をお守りする愛の貴公子ですから♪」 (ば・・・ば・・・ば・・・バカ───ッ!!!何でそんな大声出すのよっ!) 口をパクパクさせるナミが物珍しいのか、サンジは「だから、何でも俺に言いつけてくださいね」なんて微笑んで、空いた手を座っているナミの肩に回す。 「ちょっと!ビビに言いつけるわよっ?!」 その言葉でサンジの腕を肩からどかせて、ナミは赤くした頬を膨らませていた。 ++++++++++++++++++ 今朝もまた、ナミは坂道を走っていた。 いつもよりも早く、本当に止まれるのかと思うほど全速力で走って行く。 バス停に着いて、荒い息に胸を抑えながら、彼女の顔は途端に曇っていった。 (今日も、いない・・・───) あの日。 サンジがバスに乗ってきた次の日から、彼はバス停に現れなくなった。 言葉を交わしたこともない。 名前すらも知らない。 そんな彼に、サンジの事は関係ないはず。 それなのにあの日を境にしたかのように、彼はぴたりと姿を現さなくなってしまった。 一体どうして。 もしかして、病気でもしたのだろうか。 それとも怪我して入院・・・───? ナミは想定できる限りのあらゆる事態を一人想像しては、ふるふると首を振って、懸命に考えを打ち消した。 もう彼の姿を見なくなって一週間。 (せめて、名前だけでも聞いておけば良かった) あれほど、声を掛けることを躊躇ったというのに、いざ彼の姿が消えてしまうとその時どうして何もしなかったのかという後悔ばかりが募っていく。 冬の朝は寒い、ということを今更ながらにひしひしと感じて、ナミは今朝もただ一人、かじかんだ指に吐息を吐きかけながらバスを待った。 バスは来る。 一人で待つナミを乗せるために。 朝の空気に不釣合いな音を鳴らして、扉は開かれていく。 彼が消えた日から数日は、いつもの運転手が不思議そうな顔で運転席から身を乗り出して、いる筈のない男の姿を探していた。 けれども、もう男がいないことに慣れてしまったのか、今朝は運転手も至って普通の顔で振り向きもしない。 バスはナミを乗せたらすぐに扉を閉めて走り出した。 「ナミさん、元気がないですね」 どこか不安げな表情を浮かべたビビがそう聞いたのは、それから二日後のことだった。 サンジも含めて三人でナミ達二年生の教室で昼食を食べていた時に、会話に参加しないナミを気遣って心配症のビビは思い切って訊いた。 「そう?別に、私は元気よ・・・」 サンジとビビはその返事を聞いて、思わず顔を見合わせてしまう。 一体どこが元気だと言うのか。 いつものようにペラペラと喋るナミはどこにも見当たらない。 饒舌でないことは、稀にある。 例えばそれはナミが今読んでいる本の続きを読みたくてウズウズしている時だったり、男から告白されて、ついいつもの様に歯に衣着せぬ物言いで断ったら、翌日にはその話が噂となって尾ひれがどんどんついて、ナミにとっては不名誉な話になっていたり。 でも、そんな時は大抵ナミは一日も経てばどうでもいいとばかりにいつものナミに戻っていると言うのに。 どうしたことか、この一週間日増しにナミは落ち込んでいくばかりで、ついに今日に至っては言葉に覇気の欠片すらも感じられないのだ。 そんな事を思っていれば、ナミは数え切れないほど落とした溜息をまた一つ、はぁとその唇から漏らした。 「ナミさん・・・やっぱり変。何かあったんですか?」 「ナミさん、俺らで良ければ力になりますよ♪」 ナミの右手はビビに。 ナミの左手はサンジに。 それぞれ力強く握り締められて、ナミが驚きの眼差しで二人を見つめた。 二人は至極真剣な面持ちでナミの言葉を待っている。 つまり、それほどまで自分が落ち込んでいたのだ。 いつもなら、多少引きずるような事があっても、翌日にはもう笑顔を見せる自信があったのに。 そう言えば、いつこの人達とまともに会話したんだろう? あの男の事ばかり考えて、ほとんどろくに口を聞かなかったような気がする。 この私ともあろうものが。 話すことを忘れていたなんて。 「あんた達に言っても、どうにもならないと思うけど・・・」 困ったように眉をひそめて、それでも友人達の気持ちをありがたく受け取って、ナミはようやく彼女らしからぬ重い口を開いた。 二週間ほど前にね。 バス停である男と会ったのよ。おl。おp 話したこともないし、名前だって知らないのよ? そいつってばね、いつも寝てるの。 私が気付かなくて、そいつの顔に思いっきり座ったってのによ? 信じられないでしょ? それで、ちょっと・・・ほんのちょっとだけど、気になったのよ。 どんな奴なんだろって。 面白いのよ。何しても起きないの。 「・・・でも、いなくなっちゃったのよ。一週間前から、姿を現さなくなっちゃったの・・・」 最後にぽつりと呟いたナミの瞳が切なげに臥せられた。 「この高校の人ですか?」 「うん。うちの制服着てたわ」 「そいつの名前は?」 「知らないわよ・・・」 そしてまたナミがはぁとため息をつく。 困ったように、ビビがサンジを見ると、彼もまた肩を竦めてしょうがないとばかりに首を振った。 (こりゃ、どこからどう見ても恋の病じゃねぇか・・・) (ナミさん、やっぱり好きな人がいるのね) 無言のうちに目で会話する二人の姿すらも、今のナミにとっては何だか余計に自分の身を切り裂いていくような気がする。その幸せ、多少は分けてもらいたいもんだわと内心呟いて、ナミはまた瞳を伏せた。 そんなナミの姿を見て、サンジが躊躇うように、それでもナミの恋を実らせてあげなければ・・・ナミに笑顔を取り戻させてあげなければ、という思いに駆られて尋ねた。 「ナミさん、そいつぁどんな奴なんだ?」 「どんなって・・・髪は緑で、ああ、耳にピアスを三つつけてたわ。校則違反よね」 瞬間、ビビとサンジの瞳が大きく見開かれる。 「緑の髪?」 「三つのピアス?」 「「それって・・・」」 二人の反応に首をかしげたナミの前で、サンジとビビは目を見合わせたかと思うと、途端に噴出していた。 「な、何よっ!?何で笑うの?」 「な、何でって・・・ハハ・・・ナミさん、そりゃあこの学校でクソ有名な奴ですよ」 「ナミさんってば・・・本ばかり読んでるから・・・」 くすくすっとビビは笑った後に、名を告げた。 「その人、ロロノア・ゾロさんですよ」 「ロロノア・ゾロ・・・?」 「剣道部で、二年生のロロノア・ゾロさんです。同じ学年なのに・・・」 見る見るうちにナミの顔が赤く染まっていく。 (お、同じ学年だったのね・・・) 内心穴があったら入りたいような恥ずかしさに襲われて、けれどもナミはそれを隠すように反論していた。 「だ、だって・・・あんな奴、見たことも聞いたこともないわ」 「確かになぁ。ナミさんは図書室に篭りっきりだし、奴ァ筋肉バカで図書室なんて寄り付かねぇようなクソマリモだし・・・知らないのも、しょうがねえかもな。けど、ナミさん。奴は剣道で全国大会とか行ってんですよ。壮行会とかで見たことないですか?」 壮行会。 運動部が県大会とか、全国大会に出場が決まった時にやるアレ? ああ、興味ないからいつもこっそり本を読んでたわ・・・ だって運動部なんて興味ないし。 体育会系の男なんて、ことさら自分には無縁の奴らだと思っていたし。 ・・・でもまぁ、彼の広い胸には少しときめいたような・・・ ち、違うんだってば。 もう。最近こんな事考えてばっかり。 そうじゃなくて、あの寝てばっかりの男が、どんな奴かという・・・そう! 未知の生物に対する知的探究心なのよ、これは! 「ナミさん、本を読み出すと止まらないから・・・」 苦笑したビビの言葉に、ナミの顔はまた一段と顔を赤くして、口を尖らせた。 「なら、ナミさん。明日は奴はバス停にいるはずだぜ」 「・・・どうして?」 「今は試験期間中で、運動部はどこも試験休み中だから、朝練がなかったんじゃないですか? でも今日で試験は終わりですし、明日からまたきっと会えますよ♪」 「・・・・・・あ。」 ナミの間抜けな声に、ビビとサンジはまた笑ってしまった。 その夜、この恋人達のメールの内容がナミの恋の話一色だったことをナミは知る由もない。 ++++++++++++++++++ また胸が高鳴っている。 今朝、ナミは坂道をゆっくりと歩いていた。 あのカーブが途切れた時に、そのバス停は目に入る。 彼はサンジくんが言った通り、今日からまたあそこにいるのだろうか。 ロロノア・ゾロ。 昨日から何度も呟いてみたその名前は、彼にぴったりで、ナミはその名を口にするたびに心地良い痛みに体を震わせた。 彼にぴったりの名前だわ。 あの、目付きの悪い男。 まさしく『ゾロ』って感じよね。 あら、呼び捨てにしちゃったわ・・・ うん、『ゾロ』って名前、いいわ。 早く呼んでみたいわね。 ・・・って、違う違う! だから、私は別にそういうつもりじゃないんだし、彼なんて私の事をどうやって認識してるんだか・・・ ま、いいとこバス停にいる女・・・でしょうね。 こんな朝早くに、運動部でもないのに学校へ行く私を変に思ってるのかも・・・ そんな事、ないわね。 まず私に対して興味がないってのが一番有り得るわ・・・ 結局私だけが彼を意識して、私だけが振り回されて勝手に落ち込んでたのよね。 いいえ、別にそんなに意識してるわけじゃないわよ? でもね、ちょっと・・・ちょっとだけ、格好いいかな、とか。 剣道やってるって聞いて、袴が似合いそうだとか。 彼はどんな声してるのかな、とか。 本当にちょっと興味があるだけなの。 ああ、でも・・・私の意識とは裏腹に足が震えている。 一週間、探し求めた姿をようやく見れるというのに、心の中にあるのは期待よりも不安だ。 サンジとビビがあの後交互に説明してくれたロロノア・ゾロという男が、もしもそこにいなかったら? 同じ高校に通っているというのに、何故か繋がりが消えてしまうような不安がナミの胸の中にじわりと広がっていく。 (いますように。いますように。) 何度も何度も呟いて、ナミは遠目に見えたバス停にその影を探した。 いた・・・─── 心なしか軽くなった足取りが次第に小走りになっていく。 バス停に着いた時は、一週間前までと何ら変わらぬ光景がナミを迎え入れていた。 ベンチの上でごろりと横になって、両腕を枕に眠っている男。 うっすらとした朝の光が彼の耳につけられたピアスに反射して、ナミの瞳を細めさせた。 「・・・おはよ」 聞いている筈もない男に、ナミの唇から自然と言葉が漏れて、彼女は初めて彼に話し掛けていた。 ずっと言いたかったのよ。 おはよう、いつも寝てるのね。 おはよう、起きないといつかバスに乗り遅れるわよ。 おはよう、今日もここにいてくれたのね。 何て罪作りな男かしら。 寝ているだけで、こんなに私を私らしくさせてくれないなんてね。 責任取ってもらいたいぐらいだわ。 そんな事を思って不意に唇から言葉が漏れていた。 言い終えた瞬間、ナミの体が固まってしまう。 彼の瞳がふっと開いたのだ。 その深緑色の瞳がじっとナミを見据えて、彼女の心臓をぎゅっと掴んだその時、バスの排気音が突然鳴り響いて、いつしか彼らを乗せるバスが、そのバス停に止まっていた。 (・・・やだ・・・聞かれた!) 我に返ったナミの顔が林檎のように赤く染められて、彼女は慌てて手にしていた鞄を抱きかかえるように胸の前で持ち直すと、逃げるようにして乗降口へと向かった。 だが。低く、それでいて聞く者の心を鷲掴みにするような不思議に凛とした響きを持つ声がナミの背を追って、ナミはその足を止めていた。 「───名前は」 握っていた冷たい鉄の手すりがじわりと暖かくなる。 「───なぁ。名前は」 振り返れば、いつものようにスポーツバッグを肩に掛け、ポリポリと頭を掻きながらナミを見つめる彼の姿。 「・・・ナミ」 か細い声で少女が答えると、男は口の端を上げて、にっと笑った。 バックミラーに二人の姿が映る。 腕組みした男の隣には、頬を染めて俯く少女。 運転手の『発車します』という声は、心なしか弾んでいた。 --------Fin. -------- LOVE, the days ゾロ編はこちら |
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