最近どうにも気になる女がいる。

あれだな、あれ。

よちよち歩きの子供をつい目で追っちまうだろ?


まさに、そんな感じだ。

その女をつい目で追っちまうんだ。



その女が誰かって?


それがわかりゃ、俺だって苦労しねぇ。






LOVE, the days ゾロ




その日、ゾロはいつものように少し早めにバス停へと来ていた。
彼の朝は早い。

暗い内に目を擦りながら起き出して、ロードワークノ出る。
30分ほど走って、朝食代わりに水分を含んだら、シャワーを浴びて制服に着替えてすぐに剣道部の朝練の為に早々に家を出る。
と言うのも、高校まで直通のバスが止まるバス停は、彼の家からは実際はバスを乗り継いでいかねばならない。
徒歩ならば30分。
その道を小走りで「これも修行だ」などと呟きながら行けば、15分ほどでバス停に着く。
そしてバスが来るまでの一時を、誰もいないバス停のベンチに寝転んでうとうととまどろむ。
これが、毎朝の日課だった。

だが、今朝は酷く不愉快な・・・いや、愉快とも言うべき事件が起こった。


どこからか、軽い足音が聞こえてきたかと思うと、それは寝転ぶ彼の頭上で止まる。
吐息の軽さから、女の気配を感じ取った瞬間、その女は思いっきり彼の顔に座ってきたのだ。

慌てて目を開けば、そこは黒。

(黒・・・───?)

柔らかな感触だけが顔面を覆って、何も見えないかと思えば、ビクッと怯んだその物体は一瞬で離れていった。
彼の瞳に離れていく瞬間、彼を覆っていた『黒』の正体と、見慣れた制服がちらりと視界に入った時についはっとして目を閉じてしまった。

(黒か・・・まぁ、嫌じゃねぇな。制服の下に黒ってのがまた・・・───)
そんな妄想を膨らませていると、閉じた瞼の向こうですうぅっと空気が動いていく。
途端に、甘酸っぱいような芳香がゾロの鼻腔をくすぐっていった。

(・・・蜜柑みてぇだ)

頭の中に、丸い蜜柑がころんころんと転がっていく。
その蜜柑にちょん、ちょん、ちょんっと丸がつけられて、ゾロは胸中笑いを堪えることに必死だった。

蜜柑の女。

下着は黒。

その顔を見てみたいという衝動に駆られる。

けれども、ここで瞳を開けたら、この狸寝入りがバレてしまうのではないかと、ゾロは懸命に感情を押し殺していた。




やがて遠くから聞きなれたエンジン音が聞こえてくる。

高校に通い始めてから、ほぼ毎日乗っているこのバスの運転手は既にゾロと顔見知りで、バスをバス停に付けると、必ずゾロを起こしてくれるのだ。

今朝もその呑気な声が聞こえた時、ようやくゾロは瞳を開いた。
足下の、道着や僅かな筆記用具の入った重い鞄を肩に掛けて、黒い下着の蜜柑女の顔を見てやろうと向き直る。


そこには。

少し驚いたような顔で、その茶色の瞳を真っ直ぐに自分へと向けている少女がいた。


(こりゃ・・・いい女じゃねぇか)

しっかり蜜柑を想像していたゾロは彼女の悟られぬように小さくゴクリと息を呑んだ。

一瞬の邂逅。
寒さに赤くなった鼻頭も、瞳を縁取る長い睫も、柔らかそうなその唇も。
そして、思わず抱きたくなるような、男を誘うその体も。
その一瞬だけでゾロの脳裏に焼き付けられて、彼はその日、初めてバスの中で眠らずに学校に着くまでの30分、その女の蜜柑色の髪を見つめつづけていた。





翌朝。まさかと思ったが、女がまた同じ時刻にバス亭へとやってきた。
やはり、ゾロは寝たフリをしてしまう。
別に起きてたっていいのだが。

昨夜抱いた女の妄想が頭について離れない。

彼は布団に潜ってもなかなか寝付けなかった。
理由はあの女。
あの女の黒いパンツが・・・いや、あの顔が、目に焼き付いて寝られないのだ。
そしてあの柔らかな尻の感触。
手で触ればどんなに気持ち良いだろうか、などと考えてしまう自分がいた。
どんなにそれを頭から追い出そうとしても、女の影は次第に艶やかな姿になって、ゾロを誘った。

その女が来たのだと、昨日と同じ軽い足音を聞いて判断する。

目など開けられる筈もない。

そんなことを思って、また狸寝入りを続けていた3日目。
突然、額に冷たいものが触れた。

ふわっと香ったその匂いで女の指が自分の額に触れたのだとわかった。

(・・・何だ?)

何故、女が自分の額をつついたのか?
虫でも止まってたか?
・・・いや、この寒空にそんなことは有り得ない。

では、何故?


けれども、その日から女は次第に積極的になっていった。

ゾロの胸がどんどん掻き毟られていく。
女の細く、冷たく、そしてたまらくいい香りを放つ腕がそっと自分に近づけられた気配を感じて、ゾロの体は熱くなる。ともすれば、瞳を開いて女の腕を掴み、そしてそのまま抱き締めたいとも思ってしまう。
けれども、女の指が自分の肌の熱を奪った後に、頭の上から漏れてくるやけに楽しげなクスクスという吐息に、ゾロはそうしてはならないのだと悟るのだ。

玩具のように扱われるのは不本意きわまりないのだが。
それでも嬉しそうな気配を察すれば、まぁいいかと思う。




こんな事が続いて、一週間。

ゾロはこの時間を楽しみにしている自分に気付いていた。


日を追うごとに女への妄想は膨らんで、もしかしたらこの女は自分を好きなんじゃないかとさえ思ってしまう。
一度そう思えば、やけにその女が気になって、バスの中でバックミラー越しに女を観察するようになっていた。

少女はいつも最前列の席に腰掛けて、おもむろに鞄から本を取り出すと、それを読み出す。
よくもまぁ頭が痛くならねぇもんだ、俺なら絶対に吐き気でどうにかなっている、と初めは見ているだけで顔をしかめてしまったものだが、よくよく見ていれば本と向き合っている時の彼女は完全に本の世界に入り込んでいるようで、一度などは友達だろうか、女子高生が話し掛けたのに何も答えず、高校に着いてからようやく隣に顔見知りがいると気付いたほどだ。

校内で女の姿を探してみれば、目立つオレンジの頭がいつも図書室の中にぴょこんと見えることを知った。
剣道場を出れば見えるその頭は、暗くなるまで図書室の同じ場所にいる。
下校時間が過ぎた頃に女の頭がようやく動いて、図書室の窓やカーテンを閉めている。
暗闇の中に浮んだ図書室の光の中の彼女は、やはりそのオレンジの髪を眩しく輝かせて、ゾロの頭の中の妄想を掻き立てていくのだ。
2〜3日もして、ようやく彼女が図書委員ということに気付き、得心した。

よほど本が好きなのだろう。
自分とは正反対の人種だ。
自慢じゃないが、本は枕にするためにあるとしか思えない。
開いて数秒で心地良い眠りが自分を誘う。
よくもまぁそこまで、文字だらけの物ばかり見つめていられるもんだ。
せっかく可愛いツラしてんのに、下向いてばっかりじゃねぇか。
もっと、顔を上げろ。
顔を上げれば、ここに俺がいる事に気付くだろ?

女がカーテンを閉めるために図書室の窓際に現れる時を見計らって、ゾロはその窓を見上げてはそう呟いた。

気付け。
俺に気付け。

呪文のように心の中で呟いてみたものの、女は一向に気付く気配がない。


その日、ゾロはついに心に決めた。
今日こそ寝たフリなんて男らしくねぇことはしないで、女に名前を聞こうと。
いつも俺ばっかりが触られてるなど、フェアじゃない。
俺にだって、触る権利ぐらいある筈だ。

名前を聞いて、そして、彼女に言う。

俺と付き合えってな。
文句はねぇ筈だ。
散々俺に触って、俺を誘ったんだ。
そういう気がなきゃ、そんな事しねえだろ?

・・・・・・・いや。
そう、でもないものなのか?

あれだけいい女なんだ。男の一人や二人いたって可笑しくはない。
しかも、下着は黒。いや、別にそこにこだわりを持ってるわけじゃねぇが、流石にアレにはまいった。どうにも頭に焼き付いて離れねぇ。

女の裸を思い浮かべた時、どうしたって、黒い下着を身に付けさせてしまうのだ。
頭の中のその女は、ひどく妖しく艶かしく、甘い吐息を漏らす。
それだけの女に、男がいないわけがない。



人間というものは、恋愛という迷路にはまると、どんなに実直な者も猜疑心を抱いてしまう。
例え普段、考えなしに行動する者でも、その迷路にはまってしまえば一瞬の内に哲学者となって、思考回路を全て使ってあらゆる想定をしてしまうものだ。

ゾロは今、その迷路にはまっていた。
思考は迷子になって、抜け出せないが故にそれはどんどん悪い答えを導き出そうとする。
希望を忘れてしまって、ゾロは落胆の内に一週間目を迎えていた。





今日も女の指がゾロの頬に触れる。

その甘美なまでの刹那に、ゾロは内心で嘆息を漏らさずにはいられない。
この一瞬だけで、この女をたまらなく愛しいと思ってしまうのだ。

彼女は今、どんな顔を自分に向けているのか。
瞳を開いてやろうか。

だが、それをすれば、この一週間続いたこの時間は終わるかもしれない。

女の気紛れかもしれない。自分をからかっているだけかもしれない。
それでも、と思う。

それでも、一日でも長く、この時間が続けば良いと・・・───

ゾロがそう思った瞬間、不意に流れる空気が変わった。



彼女の体温がすっと下りて行き、自分の肩の上で止まった気配を感じる。
その手が下ろされれば、自分の肩に彼女の手がかかる事になって・・・つまり・・・


(・・・俺を起こそうとしてんのか!?)

待て。
いきなり、それはないだろう。

こっちにも心の準備ってもんが必要だ。

お、落ち着け・・・落ち着け・・・



変に慌ててしまっては、今までの狸寝入りがバレるだけだ。

何度も何度も、心の中で深呼吸をしていると、遠くからバスが走ってくる音が聞こえてきた。




彼女の手は、ゾロの肩に置かれることなくその体温は遠ざかっていく。





(・・・期待させやがって・・・)

彼はいつもの席に座って、不機嫌そのものの面持ちでバックミラー越しに少女を睨んでいた。

何で触らなかった?

いつものように触ればいい。
そして、俺を起こせば、俺は瞳を開けてお前を見ることができたのに・・・


そんなことを思って、顔をしかめたまた鏡に映った彼女を見ていた時に、ようやく彼女の様子がいつもと違うことに気付いた。


いつものように本を開かない。
かと思えば、一人で顔を赤らめてはその橙の髪を揺らして首を振り、変にそわそわして鞄から本を取り出して読もうとしたにも関わらず、すぐにそれを閉じてまたぼぅっと空を見つめている。

何だ、一体・・・?

いつも一人、最前列の席で本の世界に耽っている筈の彼女が明らかに本来の彼女らしからぬ仕草を見せて、ゾロが眉間に深い皺を作ったときに、突然バスの中にあった頭がある一点に集中した。

彼女に気を取られている間に、その騒々しい男が乗ってきたのだ。


金髪、碧眼、しなやかな手足。
猫なで声を出しながら、その男が迷わずに向かった先は、ゾロの心を占めていた彼女の隣。
女もその男を知っているのだろう。
バックミラーに映った少女が微笑んでいる。

面白くない。

彼女の笑顔を初めて見た。

それが、自分に向けられたものではないことが、極めて面白くない。

かと思えば、少女はぽっと頬を染めて、男に何か反論している。

ああ、面白くねぇ。
ゾロの呟きは、前に座っていた男子学生に聞こえたらしく、その少年が一瞬ビクッとした。
それほどまで苛立ちを隠せなかった。



───見なければいい。
それはわかっている。
だが、見てしまう。

くるくる変わる女の顔を、それが自分に向けられたものではないとしても、目が離せないほどに魅入られてしまっているのだ。


(・・・クソッ!何で俺ばっか・・・)

そうだ。
何故、自分ばかりが、女に翻弄されている?

不平等じゃねぇか。

苛立ちも絶頂に達しようとしたその時、最前列にいる筈の男の声がバスの中に響き渡っていた。


「俺ァ、貴方をお守りする愛の貴公子ですから♪」


頬を染めた女が驚いて、しかし、金髪男がその細い肩に手を回した時、女は少しも嫌がらずに馴れたような顔をして、何事か囁いたかと思うと、染まった頬を膨らませていた。

それは、どこからどう見ても痴話喧嘩にしか見えなくて、ゾロはこの一週間どこか浮かれていた自分を思い出して、一人恥じていた。



彼女の様子がおかしかったのは、きっとあの男と約束していたから・・・───

あの女が俺のものになるなどと考えていた自分を、ただひたすら恥じていた。

全く、朝から不快過ぎるほど不快だ。
何となく今日は最悪な一日になるような気がして、固く目を瞑った。

もう、夢見る時間は終わったのだと自分に言い聞かせながら。




++++++++++++++++++




「ちょっと、ゾロ!」
二学期末考査を終えて、ゾロが自分の席で大きな伸びをした時に、教室の戸口で自分を手招きする女がいた。

姉のくいな。
幼い頃からゾロよりも剣道の腕が立つこの姉が、剣道部の強いこの高校にいる事は何ら不思議ではないのだが(と言うより、むしろゾロが後から入学したのだが・・・)何にしても口うるさい。
なるべく学校では話し掛けるなとあれほど言っておいたにも関わらず、教室まで来た姉に対してゾロは剣呑な目付きを返しながら、渋々と彼女の指示通りに教室の外に出た。

「何だよ?」
ぶっきらぼうに言って、ズボンのポケットに両手を入れた自分よりも身長の高い弟を見て、くいなが呆れたように言う。
「姉に向かって『何だよ?』とはどういうこと?」
「別に何を言おうが俺の勝手だろうが」
「あーあ、小っちゃい頃はあんなに可愛かったのにね・・・いつの間にそんなに生意気に育っちゃったのかしら・・・」
「・・・あァ?だから、何の用なんだよ?」

ぐっとゾロの頬が抓られた。

「その口の利き方、直しなさい!そんなんだからあんた部長になれなかったのよ?」
「別になりたかねぇって言ってるだろ?」
頬を摩りながら、ゾロは口を尖らせる。

「全く・・・我が弟ながら、先が思いやられるわね。部長がね、心配してたわよ。部活が試験休み中でも、あんたいつだって朝早くから学校に来て、自主練を欠かさなかったのに、この試験の間中、一回も姿を見せなかったって。自分が聞いたら無視されたからって私に泣きついてきたの」

ああ、そう言えば。一度、剣道部の新部長が来て「朝練しないなんて珍しいな」なんて言ってやがった。
朝練に行く気にもなれなかった、というのが本当のところだ。
朝、あのバスに乗ればあの女を見ちまうだろ。
そしたら、俺は馬鹿みてぇに女の事ばっか考える。
女には、彼氏がいるってのにだ。
そんな馬鹿げたことがあるか?
試験に入ったのをこれ幸いと、あのバスには乗らなくなった。

だが、失敗だった。

女の顔を見ない時間が、女を忘れさせてくれるかと思っていたのに、実際はその反対で顔を見なければ見ないほど、脳裏に焼きついた女の顔が鮮やかに思い出されて、ついに夢にまで出てきやがったんだ。

けど、そんな事他人に説明できるわけがねぇ。面倒ってのもあって返事を返さなかったな。
何だ。それでくいなに泣きつくのか。なんてぇ弱虫だ。それで部長が務まんのか?

「知ってるわよ、ゾロ。あんた失恋しちゃったんでしょ?」

「・・・はァ?」

「ああ、いいのいいの。そこらへんも部長に全部聞いたから。最近、部活中にゾロが同じ時間に道場から出て、図書室をぼ〜っと見上げてるってね。あの子に惚れちゃったんだって?」

「・・・・・・ッ!?」

ゾロの顔が面白いほど赤く染まって、途切れた言葉がなくともくいなにその心がしっかり伝わった瞬間、くいながにやりと口の端を上げた。

「・・・待てよ。知ってんのか?アイツの事・・・」
はたと気付いて、姉の言葉を心の中で反芻する。
『あの子』という意味ありげな代名詞は、姉があの女を知っているという意味ではないのか?

「知ってるも何も、あんなに可愛い子、有名じゃないわけないじゃない」
「じゃあ、アイツの名前とか・・・も、か?」
「・・・は?」
もごもごと口を動かすゾロを前に、くいなが目を丸くして気の抜けた返事を返した。

「だから、アイツの・・・」
「あんた知らないの?」

あぁ、もうこれだから剣道バカは・・・と、くいなが額に手を当てて黒髪を揺らした。

(てめェも十分、剣道バカじゃだろうが・・・)
しかし、こんな言葉を言ってしまっては、また姉に小突かれるに違いない。
長年培ってきた経験が、ゾロの口を噤ませた。

「可愛い顔して、キップがいい。可愛い顔して毒舌で、可愛い顔して猫みたい。
 廊下歩けば誰でも一度は彼女の噂を聞くもんよ?
 まぁ大抵は告白しようとして近づいて、逆に彼女にフラれた男が流した噂だと思うけど。
 つまり、噂が付き纏う子ってのはその分、男をフッてきてるってことね。
 私の見たところ、女には評判がいいからいい子には違いないと思うけど」

ほォ。
そうなのか。
あんな顔して、毒舌とはこれまた・・・
なるほど、でもそういう女には確かに黒の下着がぴったりなような・・・待て。
何で俺はいっつもあの『黒』ばっか思い出してんだ?

違うだろう。
今驚くべきところは、だ。
あの女がそこまで有名になるのは、男をフッてきた証拠だというくいなの言葉だ。

だが、それぐれぇじゃねぇと、女はつまらねぇ。
悪評のある女ほど、調教してやりたくなるってもんだ。

「その上、彼女ってあんだけ可愛いのに、その噂が邪魔して彼氏がいないらしいのよね〜」

ピクン、とゾロの眉が片方だけあげられた。

「・・・いるだろ?俺ァこの目で見たからな」

「それって金髪の男の子のこと?彼女の隣にいつもいる・・・」

「あァ・・・多分」

「ははぁ・・・成る程ね。それであんた失恋したと思って塞ぎこんでたってわけ。
 あんたにもそんな可愛いとこがあったのね。
 よしよし、可愛い弟に特別教えてあげよう!」

何だそりゃ。
くいな、何でそんなに活き活きしてんだ?

剣道以外でこんなに瞳を輝かせた姉は見たことがない。
その事があまりに不気味に思えて、ゾロは自然と顔をしかめていた。

「あの金髪の子、サンジくんって言って、校内の女の子皆に声を掛けてるようなプレイボーイなのよ。勿論、私も前に声掛けられてね。今はいい友達。根は結構いい奴なのよね。ああ見えて本命の子をすごく大切にするのよ。勿論、本命って言うのは『あの子』・・・」

ピクピクッと、ゾロの額に青筋が立てられていく。

そんなわかりやすい弟を前にしてくいなは内心苦笑してしまった。
剣道バカで女の影など一度も見せなかった弟も、一人の男だったのね、という一種の母性本能がふと心の中に湧き上がってくる。

「・・・だったんだけどね」
「だった?」
「そう。今は、一年生の彼女がいるわよ。つまり、あんたの憧れの彼女は当然フリーだし、今まで誰かと付き合ったって噂も一度も聞いたことがないわ。だって入学当時から彼女自身も男を寄せ付けないし、あのサンジくんが傍らにいて守ってたんだから。ま、今は親友としてやっぱりまだ他の男から守ってるみたいだけどね」

「・・・じゃ・・・」

「あんたの早とちりね。あーあ、これだから剣道ばっかやってないで、彼女の一人や二人作りなさいって言ってあげてたのよ。本当にあんたってば・・・」
「そんな事より・・・それじゃ、アイツの名前、教えてくれりゃあいいだろ?」

さっきから『彼女』とか『あの子』とか。
確実にゾロが知りたがっているとわかって、くいなはそれを敢えて口にしないのだ。

「それぐらい、自分で聞きなさいよ」

くいながドンッと拳をゾロの胸に突きつけた。

「そういうきっかけが一番大切なのよ?」

そう言って、姉はさも愉快そうに笑った。




++++++++++++++++++




どれだけ悩んで、どれだけ焦っても、朝はいつもと同じ時間にやってくる。

ゾロはその晩、うとうとしては夢の中の彼女の幻影を追い、手を伸ばしたところでふっと消えるその姿に何度も暗闇の中で目を覚ました。
目覚ましが鳴った途端に飛び起きて、慌ててパジャマ代わりのジャージを脱ぎ捨てて、ロードワーク用のジャージを着る。くいなは「どっちも同じ」なんて笑うけれども、そこにはちょっとしたこだわりがあるのだ。
スニーカーを履いて外に出れば、暗闇には雲一つ浮んでいなかった。
今日は晴れるだろう。
何となく良い兆しだ。
そう思って、ゾロはいつもの道を走った。
家に帰れば、10分も早くロードワークを終えたことに気付く。

だが、のんびりとしていられる気分ではない。
シャワーを適当に浴びて、制服を引っ掛けるように着て、ネクタイも締めずに家を出た。

一週間、自ら避けつづけた女に会うために。
そして、今日こそ女の名前を訊くために。

冬の風が体を吹き付けることも厭わず、ゾロはいつしか全速力でバス停へと走っていた。

体中を滝の様な汗が流れて、そこに着いた時、ゾロは肩で荒い呼吸をしていた。

太陽はまだ東の空を少し明るく照らすだけで、その顔を覗かせてはいない。
薄闇の中、いつものバス停は寂しげにそこに佇んでいた。

彼女の姿があるわけもない。
鞄につっこんである時計を探して、時間を見れば、まだ6時にもなっていない。
彼女が来るまであと20分も残されていた。
ぐいっと汗をぬぐって、手に持っていたえんじ色のネクタイをようやくいつものように適当に巻く。

ああ、何だかまだるっこしいとばかりに、結び目をぎゅっと作って、ベンチに横たわって深く息を吸った。

朝の空気が火照った体に入り込んで心地良い。

まず、彼女の足音が聞こえたら、どうしようか。
体を起こして、朝もやの中駆けて来る少女にキス・・・じゃねぇだろ。
それじゃただの変態だ。

まずは、自己紹介・・・か?
人に名前を訊く時は、てめぇから言わねぇとな。

・・・って、そんな事ができるか。

『俺、ロロノア・ゾロ』

ッか〜・・・言えねぇな。ただの阿呆みてぇだ。

やっぱストレートに訊くか。

ああ、しかし・・・やべぇ。逃げたくなってきた。
そもそも、あの女が来るかどうかなんてわからねぇじゃねぇか。
二週間前のあの日、いきなりこの時間に来るようになった。
けど、この一週間は俺が来てなかったし、まだあの女がこの時間にバスに乗っているという確証などどこにもない。

(・・・来い・・・来い・・・来い・・・)
ゾロはいつものように瞳を閉じて、念仏のようにブツブツそれを呟いていた。

ふと、耳を欹てる。

(・・・来た)

いつもの足音。小走りに駆けてくる、軽やかな足取り。

さぁ、体を起こすんだ。











いかん。

何故か体が動かない。

目も開けられねぇ。

女がすぐそこまで来てるってのに。

なんつー体たらくだ。


俺ァこんなに意気地ねぇ男だったか?

動けよ。何で動かねぇんだ?


女が顔を覗かせるまで、あと3歩。

ああ、体が石のように重くなってやがる。

あと2歩。

俺の瞼に誰が接着剤をつけやがった。

あと1歩。

・・・何で、動かねぇんだよ?




自分がこれほどまでに情けない男だとは思わなかった。
あれだけ女を振り向かせたいと。その名を呼びたい、呼ぶために知りたいと思っていたのに、かつて経験したことのないこの状況に、ゾロの体は凍り付いてしまったかのように動かなかった。

気配がする。

風除けのついたこのバス停は、そこに入れば周りの雑音も、風の音すらも遮断されて、仄かに暖かな空気を留めている。

ふっと空気が流れるのが、彼女が来た証拠。

(・・・俺は、馬鹿野郎だ・・・)

この期に及んで狸寝入りを決め込んでる。
こりゃくいなに笑われるな、と覚悟したその時、想像よりもずっと甘く、そしてゾロの体の緊張をほぐすかのような慈しみに溢れた声が耳に届いた。

「・・・おはよ」

瞳がようやく開いた。

女を見る。

今のは聞き間違いなんかじゃない。

女は確かに俺を見て、俺にその体を向けて、その柔らかな唇から漏らした甘い声を俺に聞かせた。

もう一度。もう一度、声を聞かせろよ。
その甘い声を俺に聞かせろ。

途端に、女は耳まで赤くして俯いてしまった。

おい。何で俯くんだ?
俺に聞かせろって。
その顔を上げて、俺を見ろって・・・




バスが来た。とんだ邪魔者だ。くそっ。俺らに気付かずに通り過ぎろ。
・・・駄目だ。しっかり止まって、女は俺から逃げるようにして乗降口へと駆け寄っていく。

待てよ。まだお前の名前も聞いてねぇ。

慌てて起き上がって、足下のバッグを救い上げるように持って、いつものように肩に引っ提げて女の後を追う。

バスに乗り込まれたら、もうチャンスは失われてしまう気がする。
今日しかない、と何かが俺に告げているのだ。
そんな思いがゾロに忘れていた言葉をようやく思い出させた。
聞きたかったこと。
それは、彼女の名。



「───名前は」

教えろ。でねぇと、俺がお前を呼べないだろうが。
お前の名前を呼びてぇんだ。俺は。
お前を初めて見た時からな。

足を止めた。
そうだ。俺を見ろ。

「───なぁ。名前は」

女が振り返って、俺を見た。
その頬が桜色に染まって、揺れる瞳はしっかりと俺に向けられていた。

その顔があまりにもあどけなくて、ゾロは一瞬それを受け止められずに所在なさげに頭をポリポリと掻いてしまう。





「・・・ナミ」




バスのエンジン音にかき消されてしまいそうな女の声。

やはりその声はどこまでも甘く、ゾロの胸をぐっと詰まらせる。

いい声だ。
想像していたよりも、ずっといい声だ。

その言葉で毒を吐くって?いいな。早く聞きてぇもんだ。
いくらでも聞かせてみろ。
俺にとっちゃ、それすらも欲情を掻き立てる道具にしか思えねぇよ。

今から、お前を惚れさせてやるから。

自然と口元が緩んでいく。


ナミというその女が、少し俯いてその場で立ち竦んでしまった。
俺は促すように歩を進める。

バスの中に入れば、いつもの乗客が乗降口でもたついていた俺たちを、何事があったのかとちらと横目で見ていた。

見てろ、お前ら。

俺はこの女を手に入れる。
もう逃がさねぇ。



その内、お前らが口にするようになる。


「いつも乗っているバスで、いつの間にか付き合いだしてた高校生がいる」













ああ、その日が楽しみだ。




───今日からバックミラーを見る必要はねぇな。















--------Fin. --------



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