その花、手折るなかれ 2 季節は、冬の入り口まで来ていることを告げる。 山は紅葉で彩られ、ところどころ湧き出る清水は肌を冷たく刺す。 夕暮れが未だ黄に色づこうかと迷う樺の葉をその光で橙に染める頃、何故か俺は頂上に着いてその息を呑むほどの晩秋の景色を眼下に臨んでいた。 またやってしまったらしい。 頂上の大岩に一人座し、大きな溜息をつく。 戦の火種のないこの国の山は、樹齢何百年かと思わせる樹木に阻まれて頂上とて容易に眼下を望めるものではない。 だがこの大岩に乗ればそれもたやすい。 それに気付いてから、この岩はゾロにとって唯一の目印となっている。 この岩を越えれば国境。 薄暗くなってきた空を見上げてゾロは腰元に結わえ付けていたサンジの握り飯に齧り付いた。 冷たくなった米は、それでもこの国の豊かさを示している。 この山の反対側、隣の国より先は戦のために農民達は徴兵され、当然の如く働き手を失った農村はどこも農作物の出来が悪い。 その上年貢の取り立ても年々尋常ではなくなり、民は皆、簸得や粟を喰らっているのだ。 最後の一口を呑むようにして食べてから、竹筒に入った水を口に含んだ。 世の事情に関心があるわけではない自分の耳にもそんな話は入ってくる。 それだけ世が荒れているのだということ。 だが、自分はそれをどう思うつもりもない。 上で一体何が起ころうが、自分は一人で生き抜く自信もある。 草々に仮初の我が家に戻って、また修行を続けるだけ。 どうせ今度は下りて行けばいいだけだ。 眼下に広がる広大な樹の海を見渡して挑むようにそれを見据えた。 (・・・・・?) 何だ、ありゃ・・・ 山の中に有り得ない物を認めて、ゾロは眉を顰めた。 暗くなりかけた空に一本の煙が立っている。 旅人が通る街道はこの山にはない。 自分がここに来た頃には山賊や盗賊が山の反対側から来たものだが、全て蹴散らした。 まさかその残党が来たのだろうか。 途端に、家に置いた我が身同然のそれらを思い出す。 名刀雪走。そして、妖刀三代鬼徹。 今携えた和道一文字と共に、ゾロにとっては唯一手放せない代物─── もしも山賊の残党共が自分の家に火でもかけているのだとしたら・・・? 立ち上る狼煙は明らかに山の中腹。 我が家があるべき場所と一致している。 「・・・くそっ!」 舌打ちを残して、ゾロは黒煙目指して走り出した。 夜ともなれば落ちて重なった木の葉が土と混ざってぬかるみを帯びる山中は、決して駆けやすいものではない。 だがゾロは力強い足取りでそれを苦ともせずにただ駆け下りていく。 時折、木や岩に上って煙の所在を確認すれば、それは右にあったり左にあったり、はたまた既に追い越していたりと、ゾロの苛立ちをただ増幅させるばかりだった。 今宵は満月。 月明りだけが彼を助くる存在として、その山中を青く浮き立たせていた。 荒い呼吸を吐き、季節を感じさせぬ熱気を体を帯びて体中を汗まみれにして、ようやく小屋の姿を遠目に認めた時、ようやく安堵の溜息を漏らしてゾロは歩みを遅めた。 小屋は無事だ。 火が放たれたということもないらしい。 物を焼いた後のあの焦げ臭さが風に混ざってくるということがない。 ただ、その茅葺の屋根から煙が立ち昇っている。 誰かが我が家にいる事に違いはないが、気配に殺気がない。 おそらくこの山の中で迷った者か、もしも山賊の残党だとしても、自分が負ける気はしない。 その「もしも」のために深く息を吐いて呼吸を整えると、途端にゾロは気配を消してそっと小屋へと近づいた。 物音は・・・しない。 息を殺して中の様子を探る。 この明るい月光さえなければ、格子の間から中の様子を探れると言うものだが、頭を少しでも出そうものなら暗い室内から一目瞭然、相手は自分の姿を認めることができるだろうと、それは諦めて戸口に立ち耳を欹てた。 一人? 人の気配はする。 相手もそれを隠そうとはしていない。 ということはやはり旅人か。 だが、やけに静かだ。 たった一人だとしても、衣擦れの音一つしない。 身じろぎもせず、息を殺している。 どうにも妙だ。 眉を顰めて、ゾロは腰にある和道一文字に手をかけ、一つ軽く深呼吸してから勢い良く引き戸を蹴破った。 「人の家で何してやが・・・・・・っ?」 抜きかけた和道一文字を持つ手が固まってしまった。 消えた火の熱を中に宿して炭がプスプスと小さな煙を吐き出すその囲炉裏の横にいたのは、女。 ぴくりとも動かない。 行き倒れだろうか。死んでいるとしか思えない。 だとしたら、人の家で何と迷惑な。 刀を鞘に収めて、視線だけでそのあばら屋の中を見渡す。 自分にとって唯一無二の宝。二本の宝は、自分が家を出た時と同じく、部屋の隅に立てかけられていた。 ようやく大きく息を吐いて、ゾロは土間を通ってその腰を落ち着けた。 草鞋を脱いで、倒れたその細い体に近づいてみる。 格子の間から漏れ出す月光の下、その体はあくまでも白く、細く─── そして、しなやかだった。 どこかしら上等な織物なのだろうか。 華美ではないが、肌触りの良さそうな小袖を身に纏っているところを見れば、農民とも思えないし、旅をするには軽装過ぎる。 足を見れば、草鞋すらも履かなかったのだろうか。 その足の裏は泥まみれになっていた。 そして何よりもその顔。 死んでいるからだろうか。 血色のないその肌は、飽くまでも透き通り、僅かに開かれた唇は荒れていた。 腰までの長い髪に隠されたその瞳を見てみたいと、ゾロは橙のその髪に触れた。 瞬間、あまりの軽い触り心地に心臓が高鳴る。 息を呑んでその髪を払えば、およそこの世の物と思えぬ甘い香りがふわっと自分とその女の周囲に漂った。 そしてその顔にまた鼓動が早くなる。 美しい、とはこの事なのだろう。 小さな顔に添えられたその閉じられた瞳に長い睫がかかっている。 すっと通った鼻筋も、形良く彎曲したその眉も。 おおよそ「綺麗」という言葉を示すための材料に過ぎない。 体を横にして倒れているその女。 もったいねぇ、と呟いた後、慌てて首を振る。 何を。 死んだ女に何を思ったのだ、自分は・・・─── 自分らしくない。 溜息を漏らして、ようやく立ち上がって腰の刀を外した時、その静かな部屋の中、吐息が漏れた気がした。 振り返って、女の口に手をやる。 (・・・生きてる・・・) 僅かに開いたその唇からは、確かに微かな息が漏れていた。 |
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