800HIT踏んでくださった真牙様に捧げます。
馬鹿ね。




あぁ。それで結構。




そう言って、彼は笑った。




雪晴まで



1




潮風ももう慣れた。
鈍行列車しか通らないこの町は、夏になれば海水浴客で賑わう。
駅を出たら目の前は海。

水色の空は、深い蒼の海を決して受け入れていないようにも見えて、いつ来てもこの風景に寂しさを感じてしまうのは、今が冬で、海岸には数人のサーファーしかいないからだろうか。小さく見えるその影は、決して上手とも思えない。小さな波に足を取られてひっくり返ったそれを見て、ナミはふっと吐き捨てるような息をついて立ち上がった。

スカートについた砂を払って、線路沿いに歩き出す。

海からの風は、暖流の乗せてきた温かい空気を伴って冬だというのに白い息も出ない。

(あの日は、雪だって降ってたわね・・・───)

ネオンの繁華街からは星も、月すらも見えなかった。

そりゃもう真っ黒な闇ばかりで、空を見上げようなんて思いつく人なんて誰一人としていなかった。

私だって、そんなこと忘れてたわ。
夜には月や星が空に浮かぶなんて。


天を指した彼の指につられて上を見たら、一片の雪。


ふわんっと舞い降りた雪の結晶が頬に落ちたあの冷たさは、火照った顔でじわりと溶けて。

雪を暖かいと感じたのは、あの時が最初で最後。





そんなことを思い出して、ナミはくすりと笑いながら事務所のドアを開けた。


「ナミさん、お帰りなさい」

笑って出迎えたビビという女性は、さっきまで見ていた空と同じ色の髪を揺らして親しげな笑顔を見せる。

「もうこの辺りには慣れましたか?」
「そうね。やっと細かい道も憶えられたってところかしら。」
「良かった。ここは昔漁師町だったから、結構道が入り組んでるでしょ?初めての人には慣れるまでが大変らしくって。前に来た人もそれで結局肌に馴染まないって感じちゃったらしくて、東京で仕事を見つけるって・・・」

ここから都心まで出るには電車で二時間もない。
この町に飽きた人間はその身近な都会に職を求めることも多くなく、ナミの前にこの事務所で働いていた女性も勤めて半年で夏以外には活気の片鱗すらも見せず、古くは寺社参拝客で賑わった古道ばかりが立派なこの町に飽いてしまったのだと、ビビは言った。何せここと来たら海から上がればすぐに山で、傾斜の中に作られた路地はどこも入り組んだ坂道─ここで育った者でなければ、どうしてもこの土地に馴染めないのはままあることで、その彼女が見切りをつけるが早いか早々にこの会計事務所の職を辞めてこの地を去ってしまったのもしょうがない。
けれども新しく来たナミという名の女性は、どうも今まで見てきた余所者と違って、この町に自ら馴染もうとしている。

昼休みの度に事務所の周りを散歩してはこの町を知ろうとするし、休みの日にしたってビビを誘って町の案内をしてくれと頼む。

けれどもまるでそれが急いているようにも見えて、根っからの心配性のビビはふと不安になって「ナミさんは、東京から来たんでしょう?」と問いかけた。

「やっぱりこの町じゃ不便だから・・・帰りたくなりませんか?」

ハンガーに掛けたクリーム色のコートをロッカーに仕舞っていたナミがくるっと振り返って「どうして?」と、微かに口元を緩めながら逆に聞き返してくる。


「だって、東京の方が断然いいでしょうし、ナミさんここに来る前は会社を経営していたって・・・」
「・・・そんなの、もう関係ないわ。今はこの事務所で働いてるんだもの。ビビと一緒にね」

そうでしょう、とばかりに微笑みかけてナミは窓際の自分のデスクに戻って行った。

会計事務所で働いていると言っても、ナミやビビは一般事務を担当しているのだから、電話の受付や雑務をこなすだけで、別段この仕事に不満があるわけでもないけれども会社のトップにいたという経歴を持つナミが本当に自分と同じOLで満足していないのだろうか、と思う。

けれどもその疑問をぶつければいつだってナミはこんな風に笑うばかりで、だからこそビビはナミには自分に言えない思いがあるのではないかと不安になるのだ。


ビビにとっては、休日まで一緒に出かけるようになった同僚というのはナミが初めてで、彼女がもしも今辞めてしまったら残念で仕方ない。

この女性の背景に一体何があるのだろうと思う気持ちはあるのに、それを訊いては嫌われてしまうのではないかとも思って、結局今日もそれ以上何も訊けずに一日を終えた。




*******************




もう何年経ったんだろう。

あの頃は移りゆく季節すらもどうでも良くって、ただ突き進むだけの毎日だった。
友人に誘われて作った会社が意外なほどに軌道に乗って、その内友人は社長職が忙しいからと自分一人にそれを任せて結婚。
社長が結婚退職なんて、これだから女がバカにされてしまうんだ、なんて思っていたっけ。


でも結局は自分も同じ道を選んでることに違いはない。


都心に買ったマンションも売り払って、その輝かしい経歴も捨てて、こんな田舎町にやってきたんだから。


(アイツのために、ね───)


でも、後悔はない。

その証拠に、彼を思えばじわりと胸が温かくなって。
ほらね。

いつしか口元が緩んでしまう自分がいるもの。




冬風冷たい中、窓を開ければ潮の香り。





「私はここよ。あんたは・・・」


どこにいるの、と何とも軽い声は夜空に溶け込んで、ナミはじっと星の瞬きを見ていた。

小高い位置にある自分のアパートからはこの町と、それが面している海岸を眼下に一望することができる。

ベランダに出て寒風に身を摩りながらもじっと暗闇を見つめ続けていれば、不意に一筋の光が遠くに浮かび上がった。電車だ。耳を澄ませば、線路の上をゆっくり惰行で走るその電車は次第にブレーキ音を響かせて、仄かな光を浮かび上がらせていた小さな駅に止まった。

(あの辺りが、事務所ね)

ピッと人差し指をその明かりに向けて、ついっとそれを動かしていく。

(それから。あそこがビビのお家)

駅から程近い辺りを指して、同僚の姿を思い出す。




くるっと指を回した。



「さぁ、あんたはどこ?」




まるで宝物を探す少女のように、頬を緩ませたナミは暗闇から聞こえて来る微かな波音に身をゆだねるようにそっと瞳を閉じた。




風が吹く。



ひゅうっとオレンジ色の髪を揺らしたそれが、まるであの冬の日に出会った男のようで、ナミは唇にやわらかく指を当てて「おやすみなさい」と呟いた後に惜しむようにゆっくりと部屋へと入った。




*******************




「ナミさんは今日は休みでしたっけ?」

「あぁ。何でも、風邪ひいたとかで・・・引っ越してきたばっかりだし、疲れがたまってるのかもな」

書類と睨めっこしながら、上司が手短にそう言って、顔を上げた。
「今日は君も早く上がって、彼女の家に行ってあげなさい。慣れない土地で一人暮らししてるんじゃ、色々と心細いだろう」

人情厚いこの町では、こんなことも日常茶飯事だ。
ビビとナミが仲が良いことも知ってるし、新入社員がまた辞めてしまうという辞退も避けたい。ここで、この事務所は人手が足りず彼女が必要だということをナミに教える良いチャンスと思う裏心もあって、夕方にはビビを追い払うようにして仕事を上がらせた上司は満面の笑顔で「彼女によろしく」と言って、ビビの肩をポンっと叩いた。

夕方と言ったって、それは名ばかりで冬なのだから外はもう暗い。

古びた外灯の並ぶ坂道を越えて、細い階段を上って、ビビはナミへの手土産にと買った買い物袋を一度持ち直してからそのアパートのドアを叩いた。

軽くノックするのは、ビビもこの町で育った人間という証明に他ならない。

まだ漁師町の名残あるこの町では、ようやく鍵を掛ける習慣が根付いてきたものの、それでも誰もがまず戸に手を掛けてその扉を開けようとする。開かなければノックして家人の名を呼ぶ。それでもダメならインターフォンという文明の利器を使う。

ただ、ビビにとってナミの家に来ることは初めてで、少し躊躇った後にビビは名を呼びながらノックした。

いきなり開ける、というのはさすがに田舎じみた慣習だと知っているのだ。




しばらく待ってみたが、返事はない。


ととっと小走りにまた坂道に作られた階段の公道に出て見上げれば、ナミの部屋の電気が灯されていない。

(寝てるのかしら・・・?)

そうかもしれない。

風邪で体調を崩して、会社を休んでいるのだから。

一人でご飯も作るのも辛いのかもしれないし。


そうだとすれば、起こすのは気がひけるのだけれど、それでも起こして鍵さえ開けてくれれば自分が料理を作った方が良いだろう。

またそのドアに駆け寄って、今度はインターフォンを鳴らした。

冷たい扉に耳を当てて中の様子を伺えば、物音一つなく、自分の鳴らしたチャイムが響いて消えていく。

一旦、扉から離れてどうしたものかと首を捻っていると、不意に後ろから声を掛けられた。



「ビビ。どうしたの。こんなところまで来て」


振り返れば、至って平然としたナミがそこに立っている。


「ナミさん・・・あの、会社を休まれたからお見舞いに・・・でも、もう治ったんですか?」

あんまり辛くはなさそう、とナミの顔をじっと見てさも不思議そうな瞳を見せたビビに、ナミは明るく笑って言った。

「あぁ。ズル休みしちゃったのよ。心配かけて悪かったわね。せっかく来てくれたんだから、上がってちょうだい。」

さぁ、と鍵を開けたナミがビビの手を引いた。


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