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幽霊さがし




6




更けて闇は藍色。

膨らんだ月の輪郭をなぞり、光に照らされて縹色。

私たちの白いシャツは校庭のオレンジ色の街灯を遠くに受けた。

ゾロのピアスだけはきらきら月光にまばゆく白く、浮かび上がった。



「あいつで最後か」

あれだけ雨が続いていたにも関わらず、夕方になってからりと晴れた空が日の入りを遅らせたその日、見回りの教師が私たちを教室から追い出した。
でもあまりにずっとクラブハウスの裏に居るわけにもいかないからとぶらぶらと学校の敷地を歩いてその内体育館の脇に置かれたベンチに腰を下ろした。
グラウンドは雨が降っていたからなのか、運動部の生徒も居ないから後ろの体育館から屋内で活動するバスケ部やバレー部の声が響いてくるばかりだった。

「どうやったら見えんのよ。」

時刻はとうに夜の8時を過ぎて、薄闇の時間も終わり、街灯の所為で一つも見えない星が空に浮かぶ。
月だけがぽっかりと私たちの目に映る。
この高校の敷地に置かれた街灯は夜も遅くなれば消えてしまうのだと、家が近いというゾロが説明するから、どうせならこんな時間まで居たことだしそれを待ってもいいという結論に達した。グラウンドを挟んでプールと、連なったクラブハウスが見える。
ゾロは400mトラックが悠に二つは入りそうなこの大きなグラウンドの向こう側に何となく動いていた影を指して「鍵閉めてるだろ」と言い切った。そんな事を言われても私の目にはどう目を細めてもぼんやりと人影があそこに居るというぐらいしかわからない。
それも私たちと同じ白いシャツならまだ動きもはっきり見えるけど、ゾロ曰く水泳部の部長じゃないかという生徒は紺色のジャージを着ているのだから、そこに誰か居る、ぐらいしか判別できなくて当然。

「眼悪ィんじゃねェか。でけェ割りに」

「あんたが普通じゃないのよ。狩りに適してんじゃない」

「狩り?」

「眼がいい人にはぴったりっぽいもん。」

他愛ないお喋りだけど、すごく心地良い。

私は彼の隣に居て、今更気取る必要もないし、それはゾロにしたってきっとそう。
───ま、ゾロが人によって態度変えるとも思わないけど。
もしかしたらこいつ、彼女の前でも同じなんじゃないかしら。
彼女・・・・・・

「できる顔じゃないわよねェ。あんたもうちょっと笑顔見せればいいのに。」

「あ?何の話だ。」

「べっつに。ねぇ、仔猫見たんでしょ?何匹居たの?」

「口に咥えてた。茶色い奴。」

「じゃあ一匹?」

「そうだろ。」

「ふぅん。早く見たいな。何であんただけ先に見てんのよ。」

「何でって・・・そりゃ俺が朝あそこ通って来たからだろ・・・おい、何笑ってやがる」

「だって真面目に答えるんだもん」

アハハ、と笑い声を出すとゾロは不遜な表情のまま「聞いたのはテメェじゃねェか」と愚痴った。


一頻り笑ってると、最後の部員はいつの間にか居なくなっていた。
これで堂々と猫を呼ぶことが出来る。
でももしも驚かせてしまったら、子育て中は気が立ってるってテレビで見たことがあるし、と足音をしのばせながらクラブハウスへと近づいていくと、後ろを歩くゾロはまるで気にしてない態でいつも通り大股に芝の上を歩いて行く。わかってないわね、とその背に文句を付けたら、ゾロは振り返ってそっちの声の方がでかいとまるで諭すように言った。

「あ。」

「何だよ。」

「ううん、何でもない」

今ね、振り返った顔が、このなだらかな坂になった草地ではゾロの視線は私より下にあって、初めて見たわけじゃないのにこの場所だったらゾロより私の方が背が高いように見えるって気付いたから、嬉しくなったのよ。

だっていっつも見下ろされてばっかりだもん。

私は背が低い方じゃないし、高い方でもない。
それでもゾロほど背が高い人はあまり近くで話すことがなかったから、いつも見下ろされて軽口叩かれたらつい私も反発したくなる。
負けず嫌いって言うのかしら。

でも今はほら、ゾロのつむじも見えるわよ。

ふふ。何か楽しい。

「ゾロ。ね、ゾロってば。」

「だから何だよ・・・?!」



何度も呼ばれて振り返るとナミの顔が間近にあった。
斜面を俺が先に降りれば、後からついてきてた女は、いつもはその丸っこい瞳で俺を見上げてくるくせに、今は真正面にある。
校庭から与えられた光を背に陰影を浮き立たせたナミの、唇だけは瑞々しく───こいつ、先公に叱られてもまだ唇に何か塗ってんのか。あ、いやいや、さっき茶ァ飲んでたか。(しかも俺の金で)
じゃあその所為か。

その所為だ。

その所為に違いない。


とにかく何かを唇に付けたに違いない。

でなくば俺と同じ人間のくせに何でこうも違う。

「──何だ」

もう一度聞き返せば、潤う唇の両端がぴっと上げられた。
随分とご機嫌らしい。

開いていくナミの口の動きをじっと見た。

突然、女と二人で居るという今を意識する自分に気づかされた。


ナミの髪は染めたわけでもねェのに明るい色で、校庭から射すオレンジ色の光に溶ける。
俺と同じ制服とは思えないシャツはアイロンがかけられて、固そうな皺を作り、だと言うのにナミの体の線はどこかやわらかい。

ナミの胸に視線が行きそうになった自分を咄嗟に抑えてあさってを見やった。

「おなか空かない?」

ナミの声は軽い響きを持って耳に届いた。

「今もう8時半よ。」

「あぁ、そういや・・・夏の大会前で張り切ってんのか」

水泳部の奴らがこんなに遅くまでやってるとは思わなかった。
それを言えば、まだ体育館にも明かりは灯っている。

「テスト前だからじゃない?テスト期間って部活出来ないもん」

「やるだろ。やりてェ奴は。」

「私おなか空いちゃった。なんかおごってよ、ゾロ。」

せっかく話に乗ってやってんのに、ナミは自分の意思主張を優先したいらしく話を元に戻してそう言った。
機嫌よく聞こえた声は、俺に何か奢らせようという腹だったかららしい。
だが、ナミの小賢しい態度が今は有難い。

「さっきおごってやっただろ。茶。」

「あんた120円のお茶で女に奢ったつもりでいるわけ?ご飯よ、ご飯。」

「帰れよ。親が心配してるぜ」

「さっきメールしたから大丈夫よ。何よ。お金ないの?甲斐性ない奴ね。しょうがないわ、あんたの家で我慢してあげる。」

「何がしょうがねェだ、何が。絶対ェ来んな!」

さすがに家に女を連れて行くと親がうるさいだろうと想像に易く、そう返せばナミは本気なのか冗談なのか俺の反応を楽しんで噴出した。何だこいつ。やっぱり今日は機嫌がいいらしい。そんなに猫が好きだったのか。

こんな時間まで残ってるぐらいだから、さぞ、猫が好きなんだろうとは思ってたが、見るだけでここまで機嫌が良くなるなら相当だ。

「さ、そうと決まったら早く仔猫見つけちゃいましょvvv」

「決まってねェ。いいか、俺んちにはあげねェからな。よく覚えとけ。」

「だっておごってくれないんでしょ?お金がなくて。」

「金は・・・・」

あるにはあると言ってから、しまったと口を噤んだが、遅かった。
ナミはしてやったりとばかりに相好を崩し、俺が前言撤回する前にありがとう、と先手を打ってきた。

大きな溜息と共にわかった、と頷くとまた一層嬉しげに顔を綻ばせる。


今朝、金網を潜って猫を見た時に頭にふっと浮かんだのはこの顔だった。
まさか俺がおごることでこの顔を見せられることになるとは思わなかった。
晩飯浮いたぐらいでそうも嬉しいもんか。


「食い意地張ってんな」

「乙女心よ。」

「腹がか?」

「・・・・わかんない奴ね。違うわよ。あんたが奢ることに決まってんじゃない。」

「じゃ、金か。強欲過ぎて身ィ滅ぼしても知らねェぞ」

全くこの女の将来が心配にもなるってもんだ。

たかが飯奢るぐれェでそんな顔見せんな。

ナミが余計なお世話よ、と言った時、茂みの奥で猫が啼いた。




+++++++++++++++++++++++++++




あの日もこんな夜だった。

そう思いながら買い物したばかりの小さなビニール袋を軽く振った。
かさりかさりと白い袋が手で揺れた。

夜になっても蒸し暑い空気が身にまとわり付く。

明日からまた仕事が始まる、と思うと今夜ぐらいはどこかに食べに行こうかとか、それともやっぱり家でのんびり過ごそうかと数時間で終わる今日という一日を楽しむ方法を考え始める。

最中に見上げた空にはぽっかりと月が浮かんでいて、またあの夏を思い出した。

思い出してしまうのはきっと、高校を卒業して何年も経つというのに、きっと、自分が彼に未練を残しているからだ、と毎年毎年、この時期に繰り返す。

未練がましくあの高校から離れられない私は何だろうと少し落ち込む。

色んな人と付き合ったけど、深く思い合うこともなく終わってしまったのは、きっと私がまだ彼の影を引き摺っているからだ。

そんなこと言ったら、あいつは怒るのかしら。

俺の所為にすんなって言うかもしれない。

「自分勝手なのはどっちよ」

誰にも届かない声で呟いた。


静かに遠くの道路を走る車の音が辺りにこだましてく。

後は沈黙。
私の足音しか響かない夜道。

お盆になれば、夏祭りの一つや二つしてそうなものだけど、一人暮らしの自分にはどうも縁遠く、どこで開催されているかも果たして今日が開催日なのかもわからない。

つまんないもんね、と我が身を省みて心中で溜息をついた。


私はゾロを忘れられない。


時が経てば経つほど後悔は深く、どうしてあの夏、私は素直になれなかったんだろうと思う。

だけどそれと同時に、じゃあ、今の自分だったらどうだろうと考えてみても、やっぱり素直になれないかも知れない。

振り絞れなかった勇気を悔いても今それが出来るかと言ったら、今度は重なった年数の分だけ出来ない気がする。


あぁ、でも、あの日々は思い出すたびに恥ずかしいはずなのに、落ち込みそうになるのに、すごく眩い。


思い出だから美化されてるのよ、と自分に言い聞かせても、言い聞かせても、やっぱりあの日々ほど私は甘い気持ちも切ない気持ちも味わえることはなかった。

だって、その他の日々をいくら思い出そうとしてもそこにゾロは居ない。


ゾロが居たあの日々だから、私は忘れられない。


彼の腕の感触も、その声も、懐かしさにもどかしくて涙が溢れそうになる。

寂しいとか切ないとかそんな感情からくる涙じゃない。



彼の熱を思い出しただけで幸せになれるから、泣きたくなる。



(馬鹿みたい───)


履いたミュールの踵が鳴らす音は私の足の動きに合わせて少しか細くなった。

そういえば昼間には煩いぐらい鳴いてた蝉の声が聞こえない、と思った。

歩みを止めるとしんと沈黙が耳を衝く。




「もう、忘れるべきじゃない?」


「そうよ。もう忘れるべきよね。」


自問自答を口にしたのは、強く自らに言い聞かせなければという気持ちが働いたからに違いない。
それでも私はまだ躊躇っていた。
思い出を捨てることがこんなに難しいとは思わなかった。

悔しい。

だってきっとゾロは私のことなんかとっくに忘れてるのに。

ゾロだけじゃない。

ビビも、エースも、今頃どうしてるんだろう。

大学からの友人との連絡はまだ取ってるけど、高校までの友人とはほとんど連絡が途絶えたままになっている。
新しい生活に忙しかったのもあるし、皆全国に散らばったのだから、よく顔を会わせる友人たちの方が生活に深く入り込んでしまって、ただ一人、この街に戻ってきた私だけが時間に取り残された気がした。

仕事のためにこの地に戻ってからは愈々ゾロのことを思い出してしまう。



再び歩き出した。

家へと向かっていた足を、全く別方向に向ける。


オレンジ色の街灯に浮かぶあの校舎を、何となく見たくなった。


あの日、幽霊を探していた私たちが最後に別れたあの場所を見たくなった。


こういうことを引き摺っていると言うんだろうか、と内心で自嘲する。


だけど私はやっぱりゾロを忘れたくないから、彼の熱を感じたあの場所は特別。




なんて滑稽。


一番幽霊を怖がっていた私が一人、まだ幽霊さがしを続けてる。




+++++++++++++++++++++++++++




「あ、逃げた!!」

ナミが一声、声を上げるとその白い物体は茂みすらも構わないとばかりにさっとプールの方へと移動していった。

大声出すなっつった女が一番に驚かしてんのは俺の気のせいか。気のせいってことにしとこう。ここで突っ込んだらナミの機嫌が著しく悪くなるだろう。
こんだけ気を遣ってやってんのに、ナミはすぐに振り向いて「何を驚かせてんのよ!」と俺を叱咤した。

「待て。今のはどう考えてもテメェが驚かせたんだろ。」

「しっ!追いかけるわよ!」

しっ・・・ってなァ・・・───まァいいか。
走り出した女に今更俺の声は届かねェみてェだからな。

ナミの後を追ってプールへと行く。
金網で囲われたプールは他の地面より高く、クラブハウスや校庭に面していない場所は白い壁となって部外者の目から隠されていた。
つまり、俺たちから逃げていった猫は逃げ場を失った形になる。

「もういいだろ。遠目でも見れたんなら」

「でもせっかくこんな時間まで待ったのよ。もうちょっと近くで見たくなんないの?」

「白かったから親猫だろ。今の。ガキはどっかに隠れてんじゃねェか」

プールの土台となるコンクリートの壁面に手を付いて、ナミはぴょんぴょんと跳ねた。
長く続いた雨の所為で湿った地面は、壁際ともなればそれなりに水がまだ溜まって居ると言うのに一向に構わず「あんた見える?見えない?」と必死になってプールサイドを覗こうとしている。

「見える」

「居るの?仔猫は?」

「プールサイドは見える」

「誰がそんなもん見えるかどうか聞いてんのよ!」

思いっきり頬を抓られた。

痛ェと文句を言う前にすぐにナミの細い指は離れて、プールの入り口へと小走りに駆けていく。

俺が見ても何もいないのだから、とうに違う場所へと逃げてしまったはずだが、俺の意見を訊く前にナミは安っぽい金網で仕切られたプールへと足を踏み入れていた。

「あぁ、もう居ない・・・」

がっくりと項垂れた女はすぐに振り返って「あっ」と息を詰めたような小声を漏らした。

「今!あんたの後ろ!」

「・・・・?」

振り返ったが、何もいない。

きょろきょろと辺りを見渡してみても、光が届く範囲には動く影一つない。

「あぁ、もう・・・っ!今居たのに・・・」

「へェ。すばしっこいな。さすがに。」

「さすがに、じゃないわよ」

ナミが肩を落としたまま俺を睨み上げた。

「ウソつき。仔猫、咥えてたけど茶色くなかったわよ。白かったわ。」

「いや、茶色だったぜ。」

「ううん、絶対白よ。あんたパンか何かと間違えたんじゃない?」

「お前より眼ェいい俺が茶色っつってんだから茶色だ。」

「あんたが見た時雨も降ってたじゃない。見間違いよ。それでも今日見れたからまァいいわ。嘘吐いた代償はデザートも付けてくれれば許してあげる」

デザートって、こいつどこに食いに行くつもりだ。
こんな時間に制服で行けるとこなんか限られてんのに。
コンビニ・・・で納得しそうな奴じゃねェな。

「ケーキでいいわよv」

さらに奢ってもらうことが嬉しいのかナミはすぐに上機嫌な笑みを取り戻した。

生温い夜風が水面を打ち、プールサイドでぱしゃりと返った波の音に何故今日はそう機嫌がいいのかと訊いてやろうかと思ったのに、この青いプールを照らすはずの照明は既に落とされて、月光だけだと言うのに、プール開きから間もなく、澄み切った水にはその月すらも眩く受け止め水底に描かれた青や赤の線はゆらゆらと揺れていた。

俺の目に映る万物が、ただ柔らかく、だから、女にそれを訊くことがどうでも良くなった。

ナミが笑ってたからだ。

小賢しげに笑った後に、俺の目を見て、もう一度唇の端を上げた。

不意に、先刻腹の中を締め付けられたような感情が俺の中に蘇った。

世界はやわらかく、だが、やわらかく揺れるものは歪んでも見える。

歩き出したナミの手を無意識の内に掴んでいた。
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