どうかしましたか、と彼女は問う。

何もと素っ気無く返して彼は咥えていたタバコに火をつけた。

小さな炎貝を近づけると細く巻いた葉巻の先から白い煙、うっすらとのぼっていく。


僅かに小首を傾げた後に、金色の髪をおさげにまとめた女は困ったように微笑んで、背を向けた。
汚れた包帯を手にして去る彼女の背に逸らしていた視線をまたやって、男はちりちりと燃えるタバコを、深く吸い込んだ。





雲の流れる時





パガヤの一人娘は最近元気がない。
仕方がない、母を亡くしたばかりなのだから。
スカイピアに住む人々の間では近頃そんな会話が交わされていた。

白い雲が波となって押し寄せるエンジェルビーチに行けば、少女はいつも白く輝く海の向こうをじっと見つめていた。母はどこへ行ったかと父に訊けば、困りきった顔に渋った声音で「私が頼りなかったばかりに。すみません」と謝る。


幼いながらも、母にもう会えないということはわかっていて、だからこそ無性にその手に抱かれたくてコニスはもしかしたらまた母に会えるのではないかと毎日母と訪れていたこのビーチで彼女を待っていた。
幾日も、幾月も、少女は諦めることをせず終日雲の浜辺に腰を下ろして海を見る。

とうとう、パガヤはそんな娘を見かねてある日、気晴らしにどこか、遠くへ行ってみようかと娘に声を掛けた。

「・・・そこに母上はいますか?」

「それは・・・」

言葉を濁した父からふいっと顔を背けて年のころ10にも及ばないだろう少女は「じゃあ行きません」と言う。

「気分転換になりますよ。船を買ったんです。可愛いカラスがついていて、コニスさんも欲しいと言っていたでしょう」

「エンジェルビーチに行くの。」

「・・・コニスさん、あそこに行っても・・・」

「行くの」


言ったっきり、コニスはソファから飛び降りてたたっと玄関の扉へと駆けていった。

切り抜かれた雲の階段はどこかふわふわとして沈みきった気分を励まそうとする。
それでも一段一段降りていくたびに幼い少女の心は深く落ち込んで、ビーチに着いた頃にはすっかり心は閉ざされていた。

青い空には白い雲の海がよく似合うわねと言って、母は束ねた髪を風に任せたままに波打ち際で遊ぶ自分を嬉しげに見つめてはふと、海の彼方に目を向けてまるでうっとりとしてその先をじっと見据えていた。

きっと、だから、母は海の向こうへと行ってしまったのだ。

あそこから帰ってくるんだ。



でも何故か泣きたくなるのは母が死んだという事実をおぼろげながらも認めだした自分がいて、だけど認めてはいけないから唇を噛んで泣くのを我慢する。

風が熱くなっていく瞼を冷ましてくれる。

涙をぐっと堪えていると、次第に日は落ちて空の上にも夜が訪れる。

そんなことを繰り返して、3月目のその日、コニスはいつもと同じようにじっと海を見ていた。




「帰ってきたらウェイバーの乗り方を教えてもらうの」

「お料理も。父上のお料理は何だか変な味がするもの」

肩より伸びたやわらかな金色の髪は優しく揺れた。

「そうだ。母上みたいに三つ編みにしたいな。」





「だから」




「帰ってきて」



小さな呟きは溜息と一緒に落ちていく。

白い雲はそれすらも吸い取ってゆらりと揺れては波を寄せた。


眦に浮かんだ涙をごしごしと拭うと、ぼやけた視界に一点、何かが海の彼方からやってくるのが見えた。

(母上───?)


まさかと瞬きを何度も繰り返すと、それは猛然とビーチへ向かって一直線に向かってくる。

次第に近付く影にコニスは、日頃父に聞かされていた『シャンディア』の話を思い出した。
記憶と、見慣れない衣服をまとった人間の影が結びついて慌てて立ち上がろうとしたその時すでに遅く、流れる風よりも速く、それが海がひゅうと飛んで雲の浜辺に倒れこんだ。




***********************




「・・・くそっ!こんなモン・・・!!」

がばりと起き上がった少年は背の羽についた水滴を手で払うと足に付けていたウェイバーを脱ぎ捨てた。
無骨な動作は自分の見てきたどの人間とも違う。
スカイピアの住民は皆、物腰もやわらかいし、滅多なことで大声を出さない。
汚い言葉だって使わないし、コニスにしたってそれが当然のことだと思っていた。

ただ目の前にいる少年は、自分が見てきた人間とはおおよそ違って何か大声でがなり立てた後には不機嫌そうにきょろきょろと辺りを見渡している。

その視線が自分のそれとぶつかり合って、コニスはようやく思い出したように「へそ!」と挨拶の言葉を口にするとぺこりと頭を下げた。


「・・・てめェ、空の民か。じゃあここは・・・」

少年は挨拶も返そうとしないで小さく舌を打ち鳴らした。


ブーツ型のウェイバーの練習を仲間たちと隠れ里の近くの海でしていただけだったのに、どうもうまく扱えず、その内皆が上達していく様を横目で見てつい負けん気が起きたのだ。自分にだって出来ると勢いづけて走り出せば、今度は上手く止まることが出来ず、仲間たちの声を後ろにどんどんと千切れた雲の合間を走り続けて、気付けば先祖の仇、空の民が住むスカイピアに辿り着いていたのだ。

舌打ちしてしまうのも当然で、自分たちの先祖から強制的にその土地を奪った空の民が暮らす島になど足を踏み入れたくもない。
平穏と安息だけに守られたような浜辺に居て少年は不快感ばかりを募らせた。

「どこから来たんですか?」

苛立ちも隠さずにウェイバーを荒々しい手つきで調整しようと躍起になっていると、少女は僅かに躊躇った後で少年の背に尋ねた。

フン、と鼻を鳴らして大人のような口ぶりで「てめェには関係ない」と言い放った少年を、だが、コニスはそう気にするでもなくその手元を覗き込んで「ウェイバーが壊れてしまったんですね」とまた話しかける。

「私の父上はウェイバーを直すお仕事をしているんです。うちに・・・」

手を伸ばすと、よく日に焼けた腕で彼はそれを払った。
叩かれた痛みに驚いて華奢な腕を引っ込めた少女は、初めて他人に拒絶されたことに大きな瞳で彼を見た。

年の頃は自分とさほど変わらない。
でもなんだか目付きがいやに鋭くて、顔も幼いながらに精悍な面差しを忍ばせている。
焼けた肌は自分とは対照的で浅黒い。

何よりも、その見慣れぬ衣装は自分達が身に付けた服とは段違いに肌を顕にしていて、そのことが不思議でならない。

「誰が、空の民の力なんか」

「寒くはないのですか?」

「・・・空の民の質問に答える義理なんかねェよ」

言って、少年はまたウェイバーについたダイアルを覗き込んでいる。


「あの・・・」

「お前と話すことなんかない。とっととどっか行きやがれ」

とうとうコニスはしょぼんと項垂れて、立ち上がった。

彼に声を掛けてしまったのは、初めて見たシャンディアの民というものへの好奇心と、不躾なまでの彼の言動をもっと見て、聞いてみたくてしょうがなくなったからだ。
だが浅黒い肌の少年は自分を拒絶するように俯いているし、何だか居た堪れなくなってコニスはその場を去ろうとした。

一歩、二歩歩いてちらっと振り返ると少年はまた何か文句を言って靴の形をしたウェイバーを放り投げた。


こんな所一秒も居たくないのに、帰る手段はこの慣れぬウェイバーで、だのにそれが片方壊れてしまってはもうどうしようもない。きっと自分がこの方角へと来たことは仲間達が大人に伝えているから助けが来るだろう。しかし、助けられるというのも癪で苛立ちは募るばかりだ。

肘を足の上に乗せてその手の平に顔を置いたまま、少年は雲の海の向こうをしかめっ面で睨んでいた。


「直らないんですか?」

不意に少女の声がまた耳に届いて、ワイパーはまた深く眉を顰めると、ぶっきらぼうに「まだいたのか」と答えた。
話しかけるなという態で振り向きもしない。

「私の父上なら直せるかもしれません」

コニスはそうだ、と途端に嬉しげな声を風に乗せると、先刻まで怖気づいていた心も忘れて彼の傍らに放り出されたままの靴に駆け寄った。拾ってみれば年端もいかぬ幼女にとっては随分と重い。両手で大切そうに胸の前で抱えなおすと、唖然としている少年に微笑みを返した。

「父上に見せてきます!ここに居てくださいね!」

「誰が空の民なんかに───お、おいッ!返せ!この野郎っ!!」


さっきまでは努めて大人ぶろうとしていたのだろう、少年の声は焦りに僅かながら本来の高さを取り戻すと、ビーチに大きく響き渡った。

追いかけようとしても、コニスは慣れた足取りで雲の階段を駆け上がっていく。
その先には空の民の居住区なのか、白い建物が点在していてそればかりは憚られて、少年が足元の雲を無造作に蹴り散らすと乳濁色の小さな雲が浜辺に撒き散らされてはその欠片、海にぷかりと浮かんで次第に流れて消えていった。




***********************




家に駆け込むと、パガヤはソファに座って本を読んでいたらしい。
パタパタと走り寄る娘にさて、どうしたのかとおもむろに顔を上げてその手に持った本を閉じた。

「おかえりなさい、コニスさん。」

「父上、こ、これ・・・っ」


長い長い階段を上った先にある家まで走ってきたのだから、コニスの息が上がるのも当然で、額からは汗が流れているし肩を大きく揺らしているコニスにパガヤは「落ち着いてください」と言うと、キッチンから水を一杯、グラスに入れて持ってきた。
どうぞ、と言って手渡されたそれをごくごく飲み干す娘に細い目を尚更細めていると、コニスの足元に見慣れぬ靴がある。

「コニスさん、それは?」

飲み干したグラスを慌てて卓上に置いて、コニスはそれを手にとって懇願の眼差しで父を見上げた。

「壊れたの。父上、直せませんか?」

「・・・さて。あまり見ない型ですね。お友達のものですか?」

「あの・・・初めて会ったんです。でも、とても困ってたの。直せませんか、父上」

パガヤは娘の顔をただ、じっと見つめていた。
手にしたウェイバーはこのスカイピアではそうそうお目にかかれないもので、聞くところによるとシャンディアの民はスケート状の靴に貝を仕込んで雲の上を走ることに長けていると言う。

見れば、そのサイズは決して大人用とも思えない。

(シャンディアの子供が、迷ってここまで来てしまったのでしょうか?)

また娘に視線を移してパガヤは食い入るように、必死な顔で自分を見上げているコニスににこりとやわらかな笑みを返した。

「何とかなるでしょう。貝が壊れてしまったようです。取り替えればまた使えますよ。ただ、30分ほどかかります。すみません。」

花開くような笑顔が、パガヤにとっては何よりだった。
妻に先立たれてこの方、ついぞ笑顔を見せなかった一人娘がまた笑ったのだ。
それだけで暗く気落ちしていた自分さえも励まされていくのだ。
言葉を聞いてまた玄関へと走っていった娘の背に「気をつけて」と声を掛けると、パガヤは工具箱を取ってきましょうと誰に言うでもなく呟いて、自室へと入っていった。



長い階段は、下りる時の方が気をつけなければいけないのだと母に言われて育った少女は、一段も飛ばさずに小さな足で、けれども微かに気が急いて小走りに下りていった。
エンジェルビーチに着いてきょろきょろを辺りを見渡すと、大きく海に突き出した木の根元に少年は腕を枕にごろりと寝転がっていた。

雲の海から寄せる細波は穏やかな音を奏でている。

心なしか嬉しくなって、彼に駆け寄るとコニスはその肩にそっと手を置いた。

「俺は別に頼んでねェからな」

そう言って、少年は自分に背を向けるようにごろんと寝返りを打つ。
こんなに機嫌が悪いのは、きっと靴が直らないと思っているからだろうと一人得心して、コニスは殊更に明るい声で「直るみたいです」と言った。

「父上が30分もしたら、直りますって。父上はウェイバーを直すお仕事をしているんです。だから・・・えっと、もう大丈夫です」

「空の民の助けなんかいらねェって言っただろ。待ってりゃその内俺の仲間が迎えに来てくれるんだ。」

「あの・・・私、聞きたいことがあるの」

「人の話聞いてんのか?」

さっきからどうもこの少女は自分の話をあっさり無視して話を進めようとする。
平和ボケしてると大人たちが空の民のことを笑っていたことを思い出して、こういうことだったのかと少年の心の中で何となく納得がいった。自分たちの土地を奪っておいて、その罪も知らず、悔いる気持ちも微塵もなく、ただにこにこと笑っているばかりでこっちの気を削ごうとする。

だからこそ、何でこんな奴らにまだ自分たちの故郷を奪われたままなのかとふつふつと心には怒りが沸いて、少年は突然起き上がると剣呑な眼差しで少女を見た。

ウェーブがかった金色の髪を揺らして、少しだけ首を傾げた少女はまた微笑んで話を続ける。
やはり何もわかってないらしい。

「あなたはどこから来たんですか?」

「・・・・俺たちの隠れ里を知ってどうするんだよ。お前の父親が聞いてこいって言ったのか?」

コニスはぱちぱちっと瞳を瞬かせると、いいえ、と顔を左右に大きく振った。

「私は海の向こうから母上が帰ってくるのを待っているの。途中で会いませんでしたか?」

「別に空の民になんか会って・・・俺には関係ないだろ」

つい真剣なコニスに答えてやった自分がいて、そんな己に気付いて言葉を飲み込むと、少年は素っ気無い言葉で自分の過ちを正そうとした。

「・・・会ってないんですか。」

溜息ついて、コニスは海に目をやった。
白の世界が燦然と、けれどもどこか切なく見えてふわりふわりと漂っていく雲が幼心にいやに哀しく映って見える。
次第に視界はぼやけて、気付けばとうとう母の死からこの方、ずっと我慢してきた涙が頬を伝って流れ落ちていた。

手の甲で拭っても拭っても、涙はどんどん零れていく。

慌てたのは大人びてつっけんどんな言葉を返してきた少年で、彼は何度も何度も横目で彼女の泣き顔を確認しては、自分の所為かと心苦しく、しまいには唇を尖らせて少女が何か言うのをまんじりともせず待っていたのだが、暫く彼女が涙を流すばかりで口を開かないことに耐えかねて、ついに自分から沈黙を破ってしまった。

「母ちゃんってのはどこに行ったんだ」

少女は強く唇を噛み締めた後に「どこにも」と微かな声で答える。

「・・・・?どこにも行ってねェなら、家に帰りゃいいじゃねェか」

「家には、いないの」

「はァ?だってどこにも行ってねェんだろ?」

混乱しきった顔で少女に振り向くと、大きな瞳に涙を溜めた彼女はつっと顔を俯かせて「でも会えないんです」と寂しげに呟いた。

「意味がわかんねェ。会いたいなら会いに行けばいいだろ。空の民って泣き虫だな」

「待ってるんです。母上はきっと海の向こうから帰ってくるから」


でも、と言って、コニスは眦に残る涙も拭わないままに顔を上げた。


「もう三ヶ月も帰ってこないの。ずっと待っているのに」


いい加減、訳が分からない話を聞いているのも苦痛なようで少年は怪訝な顔を顕にすると「馬っ鹿みてェ!」と吐き捨てるように言った。

「それなら待ってても待ってなくても一緒じゃねェか」

ぷかりぷかりと浮かんだ雲が、海の合間にそっと流れてゆらゆらと揺れている。
風は少女の髪を揺らす。
シャンディアの仲間のそれと全然違う、とはたと気付いた。

透けるほどに真っ白な肌に、陽射しを受けて輝く髪は睫毛に残る涙の跡と同じくして光を放つ。

丸く大きな瞳はさっきまで流していた涙に潤んで桜色の唇は、驚きを隠せずに僅かに開いていた。





急に顔を背けてしまったのは、どことなくこのまま彼女を見ていてはいけないような、そんな気が不意に胸に沸いたからだ。






「帰る時は帰るし、帰らないならそのまま帰らない」

僅かにくぐもった声音になって、それでもやっとの思いで伝えると、少年は何が掛かったわけでもないのに頬をぐいっと腕で擦った。

「では、母上はもう帰らないのですか?」

「俺が知るか。」

「父上も、他の人も皆母上は帰らないと言います。」

「何があったか知らねェが、じゃあ帰ってこねェんだろ」



コニスは、少年の言葉を聞き終えるとさっと立ち上がった。

「な、何だよ。何か文句でも・・・」

たじろいで少女を見上げると、そこには怒ってるのか、悲しんでいるのかなんて思わせないほどに満面に笑顔を湛えた少女が居た。

「ウェイバーを取りに行ってきます。今からおうちに帰ればきっと出来てるはずだから」


また返事を待たずに駆け出した少女にあ、と手を出しかけて少年は、宙に浮いた自分の手を見やると存外な様子でそれを引っ込めた。
どうして少女を引きとめようとしたのか自分でもわからない。

でも、何かいけないことを言ってしまったような、そんな気がしてならない。

心は自分を責めている。

後悔にも似た気持ちが在って、何で空の民なんかにとは思うのに、少年はひどく恥じ入ってそんな自分もまた腹立たしく、海の向こうに視線を移すと「ちぇっ」と吐いて雲を見ていた。



──パー!

──ワイパー!!


「・・・・?!」


遠くから、自分を呼ぶ声が聞こえる。


「カマキリ!」


聞き覚えのあるその声に、重かった腰を上げると少年は「ここだ!」と叫んだ。

自分の声に気付いたのだろう。
よくよく目を凝らせば、白い雲の合間に数個の人影が次第に近付いてくるのが見えた。


「ワイパー!こんなとこに・・・!」

そこには幼馴染の顔ばかりで大人は一人もいない。
きっと酋長に叱られることを避けて、皆で自分を探しに来てくれたのだろう。
駆け寄ると、ブラハムが「お前、ウェイバーはどうしたんだよ」と尋ねた。

「あァ、一つ壊れたんだ」

「ワイパーは乱暴過ぎるからなァ。じゃあ、俺の肩につかまれよ。それだったら一個でも行けるだろ」

けど、また勝手に暴走して海に落っこちたらおしまいだけどな、と笑ったカマキリをきっと睨んで、ワイパーは彼の肩に手を乗せた。

ふと、振り返る。


そこにはスカイピア、平和ボケに染まった街並み。
遠目に見えるのは大きな階段を駆け上っていく金髪の少女。


「・・・どうかしたのか?」

カマキリの向こうから顔を覗かせてブラハムが訊く。

何でもねェと言って、ワイパーは少年は、いやに大人びた顔で仲間達を見渡すと、行くぞと声を掛けた。



少女が靴を大事そうに抱えて戻った頃には細波と、一点の雲もない海が残るばかり。
いくら辺りを探しても、あの少年はどこにもいない。
夕暮れまで懸命に探したのだけど、そういえば彼の名前は知らないことに気付いて、薄闇の中コニスは空を見上げた。

星の瞬きと、その中に浮かぶ大きな月。

月光に照らされて一段と白く輝く雲の海。



「帰ってくるの?」


「帰ってこないの?」



でも、きっと帰ってくるときは帰ってきて、帰ってこないときは帰ってこないんだわ。

だってあの子がそう言ったんだもの。



「だけど、待ちたいの」


家に帰るとパガヤが慌てた様子で出迎えた。
随分と遅いからと心配で堪らなかったのだ。
少女の手に、自分の直した靴がまだ在って、一目でシャンディアの子供はもう帰ったのだろうと判断できた。
何せシャンディアは私たちを空の民と呼んで頑なに嫌っている。
長い歴史の果てにそうなったのだから仕方がないのだが、こちらに向かった子供を慌てて追いかけてくるのも道理なのだと心中呟いてパガヤはコニスの頭にそっと手を置いた。

「帰ってしまったのですね。私がもっと早く修理できていれば・・・すみません」

ふるふると首を振って、娘は赤い瞳を隠そうとしたのか笑顔を懸命に浮かべていた。
きっと泣きながらその子の姿を捜していたのだと思うと胸が痛くなったのは、久方ぶりに見た娘の笑顔がまた失われてしまうのではないかという危惧も覚えたからだ。

「コニスさん、縁があればきっとまた会えます。今は神様もシャンディアの方々とお友達になろうと・・・あぁ、難しい話をしてすみません。」

「私、待ちます。父上」

「私は待つの。」

「きっと海の向こうからやってくるの。」


何が?と訊くと、少女ははにかんだ笑みを浮かべた。


「わかりません。でも・・・だから母上も浜辺が好きだったんです。母上の代わりに今度は私が待つの。海からきっと誰かがやってくるんです。今日のあの子みたいに。」

たどたどしくもそう言った娘の言葉は少なからず母の死を受け容れだした彼女の一歩なのだと知って、パガヤは瞳を細めると大きな手で少女の頭をゆっくりと撫でた。




***********************




ワイパーはじわりと流れていく煙を見ていた。

あの時が自分が今までに通り過ぎた時間の中で唯一空の民に心を許したものだったろうと思う。
だが、日々聞かされる先祖の話にすっかり忘れ去っていた。

再び取り戻した穏やかな時間にふと、思い出したのだ。



「ワイパーさん、お食事です」

見ると、トレイを手に持って微笑む女がそこに居る。

軋む体をそうと見せずにトレイを受け取ると、それを膝の上に置いてスープに口をつけた。

コニスはその間もにこにこと嬉しそうな笑顔を自分に向けるばかりで、どうも落ち着かない。

だが長らく病床でこの女の看護を受けていれば見るなと言ってもきっと聞かないだろうということはわかりきっている。

半ば諦めにも似た気持ちでパンを千切った時に、ワイパーは、だが、視線に耐えかねてついに数回の租借でそれを飲み込んだ後にコニスに目を向けた。

「あんた・・・」

「はい?」

何でしょう?とコニスは微笑みを返す。

「俺らに会ったことがあるか。」

「俺ら・・・?」

「シャンディアの民に」

え、と首を傾げてコニスはふと目を逸らした。

「それは・・・あります」

「いつ」

「えっと、昨日は酋長さんがワイパーさんのお見舞いに来てらしたし、その前は確かカマキリさんと道でばったり遭って、ワイパーさんはどうかと訊かれて・・そうそう、同じ日にゲンボウさんがワイパーさんにって干した肉を持ってきたんですけど、まだそれは早いからと・・・あ、ごめんなさい。勝手に断ってしまって・・・」

ぺこんと頭を下げたコニスにもはや出る言葉もない。
何を勘違いしてるのか、最近シャンディアの誰かに会った話をしろと言ったわけではないのに、コニスは深く下げた頭を上げると、ラキと会ったのはいつだとか、カマキリが自分の看護に付きっ切りなコニスに感謝の印だと言っては、シャンディアのお守りをくれた話だとか、別段聞きたくもない話を延々と続けていく。

「もういい」

あっさりと話を打ち切らせてワイパーは心中まさかと呟いた。


馬鹿げている。

この女に過去の自分の思い出に存在した少女と繋げて、何を求めているのだ。

まったくもって馬鹿げている。


スープの最後の一滴を飲み干すと、トレイを脇に避けてワイパーは切り取った雲のベッドの上で敢えてコニスに背を向けてごろりと転がった。


ふふっと漏れた彼女の笑みに苛立ちすらも覚える。


「何だ。何がおかしい」

「だってワイパーさん、あの時と同じ」



言葉の意味をじっと考えた後に振り返ればコニスはもう空いた食器を持って向こうへと歩いていく。

階段を駆け上っていく少女の面影が目に映った。








やっと会えたから。



海の向こうにいたあなたとやっと会えたから。



きっと、雲は今日も波の上をゆっくりと流れている。



私達の時間はそんなふうにゆっくりとゆっくりと。

近付いたら優しく触れて思い出は波に還る。

散りばめられた思い出は細波となって、また私の心に打ち寄せる。

知っているから待てるの。

あなたが心を開いてくれるまで、あの波間を漂う雲のように穏やかに流れる時間の中を───





ただ、ゆっくりと。







〜Fin〜


●捧げさせていただきまっす●
閏月サマ、サイト開設おめでとうございまふー^^
というわけで、ワイコニ同志様に捧げる作品を。
何て久しぶりなワイコニ!そうだよ!ワイコニだヨ!
ワイコニ好きなのに何で最近書いてなかったんだヨ!


長編でなくってごめんなさい〜^^;
一応これでもいつものおいらの2ページ分ぐらいはある・・・かもしれない。
こんなものでよろしければどうぞ貰ってくださいm(u u)m

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