麦わらクラブ依頼ファイル4:裏最終話 |
33 ようやく体を離したのはナミからだった。 それでも、惜しむようにいやに緩慢な動きで恥ずかしげに睫毛を伏せているものだから、彼女の肩や腰にまわしていた腕を解くことが躊躇われて、ゾロはナミの言葉を待った。 二度、瞬きをしてナミはこしこしと瞳を擦ると、顔を上げて笑った。 はにかむような笑顔が、ともすれば泣いているように見えるのは睫毛の縁に残る涙のせいだ、と内心で呟いてゾロはそんな彼女をまた抱き寄せた。 唇を重ねるとナミのそれは僅かに震えている。 いつものように自分に応えてくれない。 もどかしさが募って、顔を離すとゾロは不機嫌そうに眉を顰めた。 「何で・・・」 自分の言いたいことがわかったのだろう、ナミは少し困った顔で「ルフィがいるじゃない」と言う。 「別にいいじゃねェか。」 「良くないわよっ!」 白い手が服の上から腕の肉を抓り上げて、頬を膨らませた女は、けれども、途端に不思議そうな面持ちで和室から顔だけを出して家の中を見渡した。 「・・・そういえば、静かね。アイツがご飯を大人しく待ってられるなんて・・・」 「帰ったんだろ」 「そんなわけないじゃない。目の前にご飯が置いてあるのよ」 「それでも帰ったんだろ」 大きく溜息にも似た息を吐いて、ゾロは頭をがりがり掻くと未だ不思議そうに顔だけを覗かせていたナミを置いて和室から出た。何をするのかと思えば家中のドアを開けていちいち「ルフィ」と声を掛けている。 けれども、ナミの予想を反してルフィの声はどこからも返ってこず、それどころかあの騒がしい少年の気配一つ感じられないのは、ゾロを追って居間に出てきたナミにもわかって、冷え切った食事をちらりと横目で見て、それに手をつけられていないのだからルフィは随分前にここを出て行ったのかもしれないと気付いた。 「いねェぞ」 言った通りだろ、とばかりに胸の前で腕を組んでゾロはダイニングテーブルにどかっと腰を下ろした。 「そうね。帰っちゃったんだわ。ご飯ぐらい食べて行けばいいのに・・・暖め直すわ。あんたもおなか空いたでしょ?先に食べとけば良かったのに」 「そりゃあ・・・だが、今は先に食いてェもんが・・」 「・・・・・・・・エロゾロ。」 腰に伸びてきた手をパシッと叩いて、ナミは冷たい視線をゾロに返した。 ゾロと言えば眉間に深い皺を寄せて口をへの字に曲げたまま不満げにナミを見据えている。 そんなところは記憶があったってなくたって変わらない。 だって、いやに恥ずかしい。 キスすらもせずに、ただ抱き合っていたのだから余計に気恥ずかしい。 それにあの熱い抱擁だけで自分の中は満たされて、これ以上のことをしなくてもいいじゃないかとすら思ってしまう。 長く覚悟を決めていたあの気持ちは、昨日ゾロに抱かれて不意に消し飛んでしまった。 (どうして?) 一度経験したら、後は怖くなくなると思っていたのに。 拒む自分が確かにいて、彼との深い関係を望まない自分が確かにいて、それどころかキスすらも受け容れられなくなっているのはどうしてだろう。 ましてや自分を思い出してくれた男を前にして、それを待ちわびていたはずなのに。 自分の存在を思い出したゾロだから? 私の全てを知っている男だから? わからない。 彼の腕を求めていて、その熱に幸せで堪らないのに、いざその先に進むことを躊躇う自分がいる。 でも、じゃあ思い出す前の彼が良かったかと言えばそれは違うという明瞭なまでの自覚がある。 そんな思いを口にすることもできずに黙って考え込んでしまったナミを悟って、ゾロが口を開いた。 「・・・メシにするんだろ?」 「あ・・・うん。そうね。」 食事が盛られた皿を手に、ナミはキッチンへと歩み出してふと立ち止まった。 「ねぇ、ゾロ。絶対にしなきゃいけないものなの?」 「・・・・・・あァ?するって、何を。」 ゾロは口ではどう言っても、空腹なのに変わりはないようでサンジが用意していった主菜から肉を摘んで口に放り投げて、ナミを見るでもなくぶっきらぼうにそう返した。 「その・・・アレのことじゃない。あんたがさっき言った・・・」 「俺が?何か言ったか?」 「ンもう!エッチの話じゃないっ!」 もぐもぐと口だけを動かしてゾロはちらっと赤面したナミを見やってから「あァ」と頷く素振りを見せた。 「そりゃするんじゃねェか」 「・・・絶対に?」 「てめェな・・・」 口の端に残っていたソースを親指で拭って、それを舐める。 子供のような仕草で、だと言うのにそれが余裕めいて見えるものだから何となく気に障って、持っていた皿を乱暴にまたテーブルの上に置くと、ナミは彼の両頬をぐいっと引っ張ってやった。 「痛ェッ!いきなり何しやが・・・」 「知らないッ!ゾロのバカ!」 「『知らない』ってなァ、人のほっぺた思いっきり抓りやがって・・・」 「だって、私はどうせ知らないわよ。だからって人が真剣に悩んでるのに、何でそう余裕綽々なのよ。ちょっとは真面目に考えてくれたっていいでしょ?」 ひりついた頬を擦りながらナミの言葉を聞いていたゾロは、「充分真面目じゃねェか」と漏らして「何が気に食わねェのか知らねェが」と続けた。 「そうやって頭ん中でこれが普通だとか、絶対こうしなきゃいけねェとか考えてんのがてめェの悪い癖だって何回言ったらわかるんだよ。お前。」 「だって・・・」 「だってもくそもあるか。阿呆。ヤりてェからヤるんだろ。俺ァやりてェ。普通はこうだとか絶対しなきゃいけねェからやりてェんじゃねェ。目の前にお前がいるからやりてェ。それだけだ」 何か悪いかとでも言いたげにゾロはあっけらかんと言い放って、ナミの腰を抱き寄せた。 「悪いか」 「・・・・・・・わかんないわよ、私には」 拗ねたように唇をつんと尖らせて、けれども、ナミはその腕をゾロの首に回して彼の上に座った。 彼の腕はきつ過ぎず緩すぎず、自分の体を包む。 この熱は怖くない。 心地良い。 甘えるように頭を彼の肩に預ければ、その手が自分の髪を梳いていく。 「わかんないわ。こうしているだけでいいのに。昨日は平気だったのに。今朝まで平気だったのに。今は・・・怖い。」 「つまりやりたくねェってことか、そりゃ」 「・・・・・・怒る?」 「てめェが怒られてェなら、怒ってやってもいいぜ」 何それ、と言いかけてナミが頭を上げようとすると、髪の中に差し入れられていた彼の指にぐっと力が入ってそれを止めた。 無言の内に聞け、と言われた気がしてまた力を緩めて彼の言葉を待つ。 視線だけを上にすれば、見上げた視界には彼の顎や頬ばかりが映って、その表情を覗い知ることができない。 「怖いってェのは俺のことか」 無理にナミを手に入れたのだから仕方ない。 男という存在が急に怖くなったとしても、彼女の過去を知ればそれも仕方ないと思える。 いや、寧ろ彼女にその気持ちを思い出させたのは自分ではないかと、記憶が甦ってすぐさま気付いたのだから、後悔の念は止むことなく自分を責め立てるのだ。 彼女が小さく首を振ったと気取って、ゾロは小さく安堵の息を漏らした。 「じゃあ、何を」 「それがわかんないって言ってるのよ。私だって知りたいぐらいなんだから。」 「口だけは達者じゃねェか。人を散々待たせた挙句にこっちがよく覚えてねェ時に許しやがって。正気になったらまたお預けか」 「やっぱり、怒ってんのね。」 そうよね。当然だわ。 私だったらもっと怒ってる。 でも、私だってゾロに抱かれたかった。 ううん、ゾロに抱かれたんだけど。 私の知っている、このゾロに抱かれると思っていたんだもの。 目を閉じればまるで違う男に抱かれているような恐怖がそこにはあって、必死で彼の名を呼んだ。 自分に言い聞かせるように、何度も『彼』を確かめた。 苦しむ彼に私が何かしてあげられるんじゃないかなんてエゴイズムもあった。 それでも、あのゾロが私を求めてくれたから。 何だろう? この感情はどう言葉にすればいいんだろう? 「そんなにきつかったかよ」 「・・・別に。そうじゃないわ」 「俺が嫌になったんじゃねェのか」 「・・・そういうことじゃなくって・・・だから、わかんないの。」 「じゃあ・・・やってみりゃわかるか?」 それを怖いって言ってるのに。 ゾロ、あんたって何でそう短絡的なの。 そういうとこは昔も今も変わらないってことね。 「何だよ、黙りこくって・・・あァ、てめェもたまにゃ女らしく照れてんのか」 「違うわよ。呆れてるの。どうしてあんたってすぐにその方向に持っていくんだか・・・」 「そりゃ男だから」 ・・・ゾロってば開き直ってる。 (・・・怖いのに・・・) 怖いのに、そんなこと言いながら私の体を包む腕はこの上なく優しくて、少しずつ、少しずつ、心が解れていくのが自分でもわかるから厄介なのよ。 「やっぱり駄目。ねェゾロ、あんただってずっと待ってくれてたじゃない。もう少しだけ、待ってもいいでしょ?」 「いや、無理だ。」 言うなりゾロは、ナミを抱えて立ち上がった。 すたすたと寝室へと向かっていくものだから、ナミは瞬時に彼の考えていることを悟って慌てて下りようともがいてみれば、ゾロは苦笑しながらナミを下ろした。 「俺ァ中で待っててやる。覚悟できたら来りゃいい。それならいいだろ」 「何よ、その自信たっぷりの言葉は。行かないわよ。怖いって言ってるじゃない」 ハハッと笑って、ゾロは寝室へと入って行った。 「・・・晩御飯、どうするのよ」 力なく言った後に彼の座っていた椅子に腰を下ろして、ナミはじっとテーブルの上を見つめていた。 冷めた食事をゾロのように指で摘んで口の中に放り込むと、滑らかな筈のソースはざわりと舌の上に残って苛立ちを募らせた。 (どうして、わからないの・・・?) 彼は知っている筈なのに。 いや、知っている筈なんて驕りじゃないかとも思うけれど。 それでも今まで色々言っても賭けに乗ってくれたり、待っててくれたのはそれがゾロの優しさなのだと思っていた。 今朝までのゾロはそれを知らない人だったから。 だから、肌を重ねるにしたって・・・─── (そうだわ・・・そうよ・・・) 大丈夫なフリしたって、見破られることなんてないと思っていたから、だから自分を隠して自分の気持ちにも嘘を吐けたんだと思う。 今のゾロならば全てを知っているから、嘘を吐けない。 だから怖い。 本当の自分を隠せないから。 全ての感情を、さらけ出す瞬間が堪らなく怖い。 その上ゾロと来たらそんな自分の気持ちも知らずにただヤりたいヤりたいの一辺倒で、だから苛立ちが募ってしまうのだ。 じゃあ自分が彼に求めているものは何だろうと問えば、それがまた『わからない』の一言に尽きてしまう。 考えあぐねて、溜息を漏らしながら閉じられた寝室のドアを見る。 「何で、それをしなきゃいけないのよ」 白いドアは黙りこくって、返事など返ってくるはずもない。 不意に肌を刺す空気が冷たくなった気がして、さっきまで自分を抱いていた彼の腕を思い出した。 誰もいない部屋で、悔しげに俯いたナミは拳を固く握り締めて、暫し経って「もう!」と呟くと勢い良く立ち上がってドアを開けた。 「おっ。結構早かったな」 ベッドの上には緑髪の男がごろりと寝そべって、腕を枕に自分を見て笑う。 「ゾロ、起きて。そういうことするために来たんじゃないわ。私だってね、あんたに言ってやりたいことが山ほどあるんだから。」 「へェ。ま、座れよ。」 上半身を起こして、ポンポンと自分の傍らのシーツを叩くと、明かりの灯されていない部屋の中でゾロがニッと笑った。 「何でそう呑気なのよ・・・『座れよ』じゃないでしょ?」 「じゃあ立ったままか?」 「・・・何の話してんのよっ!!」 「何の話って、そりゃお前・・・」 「いいわ、それ以上口を開かないで」 彼と距離を取って、ベッドの端にちょこんと浅く腰を下ろすと怪訝そうな眼も隠さずにゾロを見た。 警戒心顕な彼女が面白い。 ナミには申し訳ないが、実際そう思ってしまうのだ。 全身の毛を逆立てて自分を警戒している。 甘えられているようで、そんな姿がまた心をくすぐる。 顔から笑みを消すことができないでいると、「何笑ってんのよ」とナミが言うものだから、つい噴出してしまった。 「な、何よ?何が可笑しいの?」 「いや、別に。てめェらしいってな」 「私らしいって何?」 「初めっからてめェはそういうもんじゃねェか」 「・・・何言ってるのかさっぱりわかんないわ」 あぁ、それで結構。 お前はそれでいい。 その細い腕を強引に引き寄せた。 強張った体が俺の胸でじたばたもがく。 「何だよ。こうしてるのは嫌じゃねェんだろ」 「それとこれとは別っ!何で笑ってるのか答えなさいよ!」 「俺と」 声音が低くなって、ナミは一瞬、動きを止めた。 「お前だからじゃねェか」 「お前だからじゃねェか」 「抱きてェってのは」 「お前が怖がってんのも」 「『俺』と『お前』だからだろ」 溶けるかと思った。 愛しているなんて言葉よりずっと、その言葉は温かく沁みて、張り詰めていた心が溶けてしまうかと思った。 自分が思い至ったことを、容易く言葉にしてしまった彼は、もしかしたら自分の気持ちを読めるんじゃないかなんて思っては、彼と通じ合えているんだという事実に涙がじわりと浮かんだ。 「あんたと私だからよね」 ゾロは、だろ、とでも言うような笑顔を見せて唇を吸う。 僅かに心は震えて身体を固くすると、その肩を抱いて私の唇を啄ばむように何度もキスをする。 柔らかなキスが続いて、ようやく顔を離せば惜しむようにもう一度、口付けを落として「言っても・・・」とゾロが小さな声を漏らした。 「無理強いできるもんならとっくにやってんだが」 「やったじゃない」 「そりゃ俺じゃねェ。いや、俺だが・・・俺じゃねェ」 「言い訳がましいわ、ゾロ」 そんなことを言って、ナミはふっと笑った。 「でも、あんたじゃないわね。何せ私を突き飛ばすし、殴ろうとするし、自分がやりたくなったら手を出すだけなんだもん。」 つらつらと挙げ連ねられて、ゾロは眉を片方ぴくりと上げた。 「責めてんのか」 「謝ってもらっても許さないって言いたいところだけど、でも・・・」 「でも?」 「途中からは優しかったの」 「また、優しくしてくれる?」 返す言葉を口付けに変えてゾロはナミの身体を強く抱きしめた。 |
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