光仄めく |
4 言葉にしなければ伝わることもないのだと、コニスはよくわかっていた。 例えばこの数日、ワイパーが来なくて自分がどれだけ寂しかったかとか、だから今日も朝からぼんやりと下の街から自分の家へと続く長い階段を見ていた。 もしかしたらば、彼の姿が見えるかもしれないと思って、けれどもそれを諦めかけた昼前に、その姿が遠目にも見えた時には、矢も盾も堪らず、いそいそとドアの前に立ったのだけど、待っていたと知られたら、彼の心に大きな負担を与えてしまうんじゃないかと考えて、そのドアがノックされるまで深呼吸しては耳を欹てて、近付く足音に早くなる動悸を懸命に抑えていた。 だと言うのに、今日のワイパーはいくら話し掛けても上の空で、いつもならば、自分の話を黙って聞いているにしても、そろそろ足も疲れそうな場所まで来ればあまり奥に行けば危ないだとか、この辺りでいいだろうと言って、その腰を下ろす。 ワイパーはそうとはっきりとは言わないけれど、彼よりも体力のない自分をきっと気遣っているのだと思うから、そんな彼の言葉を聞くことはコニスにとって、小さな幸せを感じる瞬間でもある。 それがないまま、終に遺跡まで来てしまった。 一時間半ほどは歩いただろう。 いくら遺跡にほど近い場所に新しい街が出来たからと言ってここまで来ることは滅多にない。 自分たちもそうだが、皆始まったばかりの新しい生活に忙しいということもある。 出来たばかりのお互いの街を行き来するだけで日が暮れて、最近は遺跡へ行こうとする人影はそうそうない。 木の葉の影にその遺跡の影が見えた時、ここまで来るとわかっていればウェイバーを使えば良かったですね、と言ったのに、ワイパーはタバコから立ち上る煙をぼんやりと見て、何事か考えている。 それでとうとうコニスは彼に見えぬよう、前を向いて僅かに唇を尖らせた。 だが、彼にそうと悟られたら嫌われるのではないかという思いが立って、「降りましょうか」と口にしたら、自分が思うよりも殊更に明るい声音になった。 胸の内にそんな自分に違和感を抱いたのは、あぁだから彼と近づけないのではないかとか、自分から壁を作っているみたいだとかそんな思いを常々持っていたからだ。本当は本音を彼に晒せば良いのではないかと思う。 素直に、彼にもっと会いたいと言ってみたり、せっかく渡したのだから通信機で夜も声を聞かせて欲しいとか、我が侭を言えば彼は、見た目は怖いけれど根は優しい人だから、きっと私の思う通りにしてくれるだろう。 でも、それを口にすることで嫌われることの方がずっと怖い。 そんな自分が情けなくて、涙が出そうになったけれど、でも泣いたらきっと今まで我慢してきたその気持ちを彼に伝えてしまうことになるから、唇をきゅっと噛んだ。 浮かびかけた涙は、視界に映る全ての物の輪郭をぼやけさせて、不意に崩れかけた石段に出来た歪に足を取られて、気付いた時には尻を強く打っていた。 (もう・・・何をしてるの・・・) 自分に呆れて心の内で叱咤した声すらも、力ない。 溜息を付こうとしたら、頭上でほぼ同時に漏らされた彼の言葉に打ち消された。 「前をよく見てねェからだ」 荒げているわけでもないが、いたわるでもないその声に、途端に恥じらいが増して顔が熱くなった。頭には、でもそれはワイパーが数日ぶりに会えたというのに気もそぞろだったから、だから涙が滲んで視界がぼやけたからという言い訳が思い浮かんだのだけれど、言葉にする勇気があればとっくに言っている。 俯いて、唇を噛み締めると、引っ込めたばかりの涙が眦に浮かんだ。 払えば、彼に泣いていると知らせることになる。でも払わなければ、睫毛の縁に溜る雫はこぼれ落ちて、どちらにしてもワイパーにそれを知らしめてしまう。どうすれば良いのかと迷っていると、彼の逞しい肩が太陽の光を遮って、視界に翳りが生じた。 自分の顔を覗き込むこともせずに、いつものように腕をぐっと引かれる。 この瞬間を、コニスは嫌っているわけではない。 大抵、呆れたように溜息ついてからワイパーは、よく転ぶ自分の腕をこうやって引いて、その度に自分の胸が大きく高鳴るけれど、それは彼にしても同じなのだと自分を立たせた後、すぐにそっぽ向いた彼が僅かに耳たぶを赤く染めていることから悟ることができて、だから自分の失敗よりも彼のそんな姿を見ることがコニスは嫌いではないのだ。 むしろ愛しいと思う。 だが、今日は浮かんだ涙を見せたくない。 考えるよりも先に、彼の手を振り払っていた。 「大丈夫です。自分で・・・歩けます。」 立ち上がって、また階段を降り出す。 転んでしまったら、次こそはこの眦に浮かんだままの涙を彼に見られてしまうかもしれないから、殊更慎重に一段一段を降りていくと、ここに来るまではその足音もどこかいつもと違ったワイパーのそれが、しっかりとした足取りになった事を知った。ザッザッと音を鳴らして崩れかけた段差も厭わずに降りると、自分の真後ろでぴたりと止まる。一段、二段、と降りていくと、また彼の音が動いて、背中でぴたりと止まる。 彼を待たせていることや、もしかしたら私から付かず離れずいるのはまた私が転ぶと思ってるからだろうかと考えて、自分の背に注がれているだろう視線を感じてはやけに落ち着かない気分になった。 「ワイパーさんが先に行ってください」 「・・・・・? 何だ、いきなり。」 言えない。 どういう言葉で説明して良いかがわからない。 いつものように、ごめんなさいと言って前言を撤回しようとしたけれど、何故かその言葉を口にしたくない衝動に駆られた。 「いつも私が先を歩いているからです」 やっとの事で思いついた言い訳は、そんなことで、でも本当は決して距離を離さずに付いて来てくれる彼の足音を聞くことは嫌いではないはずなのにと心中で後悔していると、ワイパーは何も言わずに自分を追い越して階段を降りていく。 気を悪くしただろうかと、罪悪感を覚えて転ばぬようにと慎重に降りていた自分も忘れ、コニスは彼の背を追った。 何か、話し掛けていつもに戻りたいとようやく思えて、懸命に会話の糸口を探せば、ふと、彼の腰に付けられた皮の袋に目が止まった。 一度だけ呼吸をして、暗くなっていた自分を吹き飛ばすようなるべく明るい声で「それは何ですか」と聞いた瞬間、階段を踏み外した。 悲鳴を上げる間もなく、真正面に在った彼の背にしがみ付いてしまって、そのまま、あと数段で終わる筈だった階段からワイパーもろとも転げ落ちた。 (・・・・・またやっちゃったわ) もう、どうやって謝って良いかもわからない。 顔を上げることが出来ずに居ると、ワイパーがゆっくりと体を捻って咥えたタバコの裏側でチッと舌を鳴らした。 心底から呆れられてしまったのだろう。 眦に溜っていた涙は、もうあと数秒で零れ落ちんとばかりにじわりとまた膨らんだ。 「ごめんなさい、私・・・その袋が何なのか聞きたくて・・・ごめんなさい、ワイパーさん」 ───あら? ワイパーさんの様子が変。 どうしてこんなに顔が赤いのかしら。 こんなにあからさまに驚いているワイパーさんを見たのは初めて。 「ワイパーさん?」 「こ・・・れは・・・俺はそういうつもりでここに来たわけじゃねェ。勘違いすんな」 「そういうつもり?」 意味がわからない。 首を傾げて、ワイパーの顔を覗き込めば、戦士は彼らしくもなく慌てて後ずさりをする。 「・・・・・・」 少し考えた後に、もう一度彼ににじり寄ると、やはり後ずさりして自分から遠ざかる。 さらにもう一度試そうとしたら、ワイパーは顔に手を当てて「もうやめろ」と乱暴な口ぶりで言った。 確かに、彼は照れている。 照れているとは思うが、一体どうしてそうなったのかがわからない。 「その袋がどうかしたんですか?」 「───・・・違う。」 「嘘。ワイパーさん、嘘をついてます。」 「な、何を・・・俺が嘘をつくわけがねェだろう」 「だって、じゃあ、どうして逃げるんですか?」 逃げてなどいないとはっきりと言い返してやろうという彼の気持ちは、その苦々しげな顔に現れてはいるのだが、すぐに彼もこの状況は逃げているということなのだと悟ったのか、タバコをじっと噛み締めたまま視線をコニスから外した。 子供みたい、と少しだけ笑みが漏れた。 「どうして、逃げるの?」 もう一度、今度は彼の姿に抱いた印象も手伝って、幼子にそうするように問い掛ける。 するとワイパーはその事が存外だったのか、眉間に大きな皺を寄せた。 ごめんなさい、と謝ったけれど、コニスの唇からはくすくすと笑みが漏れて止まない。 「俺を笑うな」 「ごめんなさい。だって、ワイパーさん顔が真っ赤なんだもの。」 「赤いわけがあるか。」 「赤いです。ワイパーさん、何を隠してらっしゃるんですか?」 金色のおさげが風に揺れた。 彼女が傾けた首は、そのまま動かず己が本当の理由を言うまで許さぬだろう、と心では思うものの、さりとてワイパーにそれが言えるわけもない。コニスは唇を緩く上げて、微笑んだまま自分をじっと見ているが、言うわけにはいかないのだ。 「くだらねェ」 吐き捨てるように言った。 くだらなくなんて、と彼女が零した言葉は聞こえないフリをした。 立ち上がると暫く彼女に看病してもらっていた遺跡が目に止まる。 そこへ向かって歩き出すと、後ろでコニスがスカートに付いた砂を払っているのか小さく布を払う音がして、それからその足音が付いてくる。 自分でそうしようとしているわけではないが、たまに己が先を行くと彼女の足音が随分遠くなることがある。 だから最近では彼女を前に歩かせることに決めていた。 コニスと初めて出会った遺跡の、その入り口の前で立ち止まって振り返ると、コニスは、あ、と小さく呟いてパッと顔を綻ばせた。 「懐かしいですね。」 「・・・入るぞ」 特に何の用があるわけではない。 懐かしいと言った彼女の気持ちはわかるが、そこに入って何をするかと問われれば自分は答えに窮するだろう。 けれども、彼女は何も聞かずにいそいそとその中へと足を踏み入れた。 朽ちて、ヒビの入った数本の柱が随分遠く感じる。 広々としたその遺跡内部には、未だ怪我人の看護に使われていたベッドが多数置かれていて、だが人影のないその広間に入ると、近く感じた壁が随分遠いのだと気付かされた。 この中でコニスは自分や、他の者の看護に毎日走り回っていたことを思い出す。 短くなったタバコを足で消すと、彼女に従って、罅割れた石の間から太陽の光が射すその広間を歩き出した。 「懐かしいわ。ほら、ここです。ワイパーさんが使ってた・・・」 怪我人のためだからと、軽傷や、無傷の人々が雲を切って作ったベッドは寝心地が悪いわけではなかった。 ふと思い立って、コニスが腰を下ろしたベッドに、自分が寝転ぶと、毎日見上げていた遺跡の天井が目に映る。 ぼんやりと、あの晩を思い出した。 長く続いた圧政に喜ぶ者に故郷の地に還れたことを喜ぶ者、それを見た時の気持ちは今も言葉では言い表せない。 じわりと胸に湧いていく感情のままに、ただあの晩へと思いを馳せていると、コニスがふふっと笑った。 「ワイパーさんも懐かしいですか?」 「戻りたくはねェな」 「その袋に何が入っているんですか?」 「カマキリの奴、媚薬を───」 唇を結んで、傍らに座っていたコニスに目をやる。 瞬きを一回、二回、三回目をした後にはコニスは腰に付いた袋に視線を移すこともなく、自分をじっと見ていた。 「・・・・媚薬、ですか?」 言葉が尽きた。 さすがにもうどんな言い訳も通用しない。 聞き違いだろうと言おうとする前に、コニスはようやくその視線を皮の袋へと移して、また自分を見る。 「見てみたいわ。」 「・・・・・なんだと?」 「見てみたいわ。見たことがないんです。」 そりゃそうだろう、と心の中で呟いた。 自分だって初めてそういうものを目にしたのだ。 この純真無垢をそのまま具現化したような女が、媚薬なんて代物を見たことがある筈もない。 それにしても、自分をいやらしいだとか卑怯だとか、そういう目で見られると思っていたと言うのに、コニスはもうにっこりと微笑んでいる。 「見せてください」 渋々と、袋から乾いた果実を取り出した。 彼女の開かれた手の平の上に乗せる。 「これは・・・どうやって食べるんですか?」 「そりゃそのまま──知るか。俺に聞くな。知りたいならカマキリに聞け」 「でも小さいから、そのままで大丈夫でしょうか。」 「何でそんなこと・・・───」 止める間もなかった。 コニスはそれをぽいっと口の中に入れた。 こくんと唾を飲み込む音に呆気に取られて、だが次の瞬間にはその先の事態を予測してワイパーは血相を変えて怒鳴った。 「お前!何をしたかわかってるのか!」 がばりと起き上がって、彼女の肩を掴めば、コニスは苦笑しながら「だってワイパーさん、私にこれを飲ませたかったのでしょう?」と言った。 「俺が・・・いや、とにかく出せ」 「もう飲んじゃいました」 「喉に指突っ込めば吐けるだろう」 「イヤです」 「嫌かどうかじゃねェ!出せ!」 掴んだ手の力は加減する余裕もなく、コニスが苦痛に顔を歪めてようやく我に返った。 慌てて手を離すと、その白い肌に赤く痕が残っている。 「・・・・出せ。」 「じゃあ、私のお願い聞いてくれますか」 「何を」 「ワイパーさんが、私をどう思っているのか」 「教えてください」 戦士が妙に煙草を吸いたい衝動に駆られたのは、その質問に答えられぬ自分を見出してとにかく気分を落ち着かせたかったからだ。 コニスは、また「教えてください」とはっきりと言って、それから「私は」と付け足した。 「私は、ワイパーさんが・・・」 彼女の凛とした眼差しが、己を見据えていた。 |
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